音読授業を創る そのA面とB面と            04・1・24記



「わすれられないおくりもの」音読授業をデザインする(前編)

                   

●「わすれられないおくりもの」(スーザン・バーレイ。小川仁央訳)の掲
               載教科書…………教出3下



           
作者・作品について


  日本語訳の絵本「わすれられないおくりもの」の奥付をみると、「スー
ザン・バーレイ文・絵、小川仁央訳、評論社、1986年初版」となってい
ます。
  スーザン・バーレイは1961年、イギリスのブラックプールに生まれ
ました。
    現在、イギリスの人気イラストレーターで、CMや挿絵の分野でも活躍し
ています。
    現在、未婚で、子どもはいません。絵本製作で来日もしています。

  バーレイの自作絵本は、今のところ一冊だけです。それが日本語訳「わ
すれられないおくりもの」(評論社)です。この物語の原題は、「B
adger'sPartinng  Gift」(アナグマの別れ・臨終の贈り物)です。
  この絵本は、彼女が美術カレッジに在学中に完成した作品です。担当教
官からヒントをいただき、それを基にバーレイが創作した文・絵です。この
デビュー作はみごとに成功をおさめ、新人作家による最良の本に贈られる1
985年マザーグース賞、ほかにフランス財団賞、ドイツのヴィルヘルム・
ハウフ賞も受賞しています。日本では、1986年に初版が出て、1987
年には課題図書(低)に指定されました。

  処女作の成功以来、バーレイのほとんどの作品は、ほかの児童作家との
共同でつくられ、絵(イラスト)のみを担当しています。「わたしは自立し
たかたちで仕事をしていますが、著者に下絵を見せるし、なにか欠けている
ものがあれば一緒に話し合い、やりなおすこともあります。」と書いていま
す。
  バーレイの描いた挿絵の日本語訳の絵本は、現在十冊ほど発行されてい
ます。
   その中に、「りんご」(かまくら春秋社)という絵本があり、これは
「三木卓文、スーザン・バーレイ絵と訳」とあります。見開きの左ページに
本文(日本文)と訳文(英文)とが併記され、右ページにバーレイの描いた
絵、という形式の絵本です。
  アナグマを主人公にした日本語訳の絵本は「わすれられなおおくりも
の」のほかに二冊あります。下記のように、ほかの作家の文、バーレイ絵の
絵本です。
 「アナグマのもちよりパーテイ」(ハーウイン・オラム文、スーザン・
バーレイ絵、小川仁央訳、評論社、1995)
 「アナグマさんはごきげんななめ」(ハーウイン・オラム文、スーザン・
バ−レイ絵、小川仁央訳、評論社、1998)



           
題名よみを大切に



  題名よみを大切に扱いましょう。子ども達は題名「わすれられないおく
りもの」について話し合う中で、忘れられない贈り物とは何だろう、どんな
すてきな贈り物だろう、誰から誰への贈り物だろう、興味や期待を持って読
み進める構えを作ることでしょう。題名読みでは、この物語はどんな話し内
容かを予想して話し合ったり、実際に自分の忘れられない贈り物は何であっ
たかを話し合ったりします。子ども達はいろいろな「もの」(品物)をあげ
るでしょう。この物語の贈り物は、先を読み進めることで「ものこと」の中
の「こと」(精神的な事柄)であることが分かります。
    品物でない、すばらしい精神的な贈り物(プレゼント)もあるというこ
とが分かり、子ども達の体験を更に広げていくことになりましょう。



          
あなぐまの死の迎え方


  あなぐまは「たいへん年をとっていて」「自分の年だと、死ぬのはそう
遠くないことも、」知っています。あなぐまは「死ぬことをおそれていませ
ん。前のように体がいうことをきかなくなっても」くよくよしていません。
あなぐまは、それほど生に執着しなくなっています。長生きできればそれに
越したことはないが、いつ死んでも心残りはない、生きるもよし、死するも
よし、という現在の心境にあります。
  あなぐまは、もぐらとかえるのかけっこを見に、丘の上に登ります。
「その日は、とくに年をとったような気がしました。」と書いてあります。
丘の上でもぐらとかえるのかけっこを見ているあなぐまの挿絵、その姿を見
ると、杖はついていますが、両足の位置は駆けているようにも見えます。マ
フラーは風になびいており、よぼよぼして固まってしまった老躯のイメージ
には見えません。その日のうちに永遠の眠りにつくあなぐまの姿には描かれ
てはいません。
  でも、あなぐまはその夜に安らかな死を迎えます。学級児童はこれら冒
頭部分を読むことで、病気や事故による夭折でない、死は予告なしに突然に
やってくるという、死の迎え方の一つの冷厳な事実を学ぶことでしょう。あ
なぐまはゆりいすをゆっくりとゆらし、そのまま寝いってしまい、長いトン
ネルの夢を見ているうちに永遠の眠りについてしまいます。深い眠りのまど
ろみの中で遠い異界の宇宙へと逝ってしまいます。わたしもそんな死に方を
したいものです。


           
子ども達が学ぶもの


  子ども達はこの物語を読んで、死は恐ろしいもの、怖いものでないこと
を学ぶでしょう。年老いた者は自分の死がいつ来てもいいように悟りと平安
の中で迎える心の準備ができていることを学ぶでしょう。死は予告なしに
やってきて、残された生者たちを悲しみの淵に沈ませることも学ぶでしょ
う。また、人間は生きている時、人々の役に立つことをしておくべきこと、
他人によい思い出が残るようなことをしておくべきことの重要さも学ぶで
しょう。また、死を恐れてばかりいないで、死を真正面から受容する態度も
のも学ぶことでしょう。
  また、人間(肉体)は死んでも、死後のいのちは永遠に生きており、死
者は「わすれられないおくりもの」を残してくれており、生者はそれを人生
の糧として大事に守って生きていくべきことを学ぶでしょう。これについて
は本稿の後編で詳述するつもりです。
  近年、年少者たちの悲惨かつ無軌道な行動が社会問題となっています。
少年A事件、少年のバスジャック事件、長崎の屋上からの投げ落とし事件な
ど。非行を犯す少年少女と、そうでない少年少女との境目が現在なくなって
きていると言われています。子どもの中には、老人を、汚い、臭いといっ
て、恐がり、毛嫌いしている子もいます。高齢化社会といわれ、これから老
人がどんどん増えていく世の中です。通り一遍の敬老の日の講話だけで済ま
してしまう指導だけではいけない現状にあります。
  病院死が多くなり、老人が家庭で死を迎えることが少なくなってきてい
ます。
  子供たちが死人・死体を見ることが少なくなってきています。学校や家
庭の中で子ども達に、老人の死や命の尊厳や死について語り合う機会が少な
くなってきていることも確かです。
  「わすれられないおくりもの」は、これらを話題にして、語り合い、相
互に考え合うに数少ないすぐれた教材の一つであると言えましょう。アナグ
マは賢くて、物知りで、森の仲間から頼りにされていました。困っている友
だちには誰にでも助けてあげました。人間は生きているときに他人に役立つ
ことをする、他人に親切にする、他人から感謝されるようなことをする、こ
うした行動の重要さを子ども達はこの物語から学んでいくでしょう。


            
もぐらはなぜ?


  「森のみんなは、あなぐまをとてもあいしていましたから、悲しまない
者はいませんでした。なかでも、もぐらは、やりきれないほど悲しくなりま
した。」と書いてあります。なぜ、森のみんなの中でも、もぐらは一番深く
悲しんだのでしょうか。
  その理由が文章からは読みとれません。この物語の中の文章に書いてあ
りません。
  文章の読解指導は、書かれている文章に即して、文章からのみ意味を読
み取っていくほかにありません。コードにないことは読みとることができま
せん。コードにないことの読みとりは、恣意的な、個人的な解釈となりま
す。

  なぜ、森の動物たちの中で、もぐらが一番深く悲しんだのか、その答え
は、スーザン・バーレイが絵を描いている、そしてあなぐまが登場する、ほ
かの絵本を読むことで得られます。
  前記した、バーレイ絵、二冊の日本語訳の絵本を見てみましょう。
  「アナグマのもちよりパーテイ」(オラム文、バーレイ絵、評論社)で
は、アナグマは主人公役です。モグラはアナグマからもちよりパーテイを開
くので、いらっしゃいと招待を受けます。モグラは持っていくものがない、
ということで何も持っていきませんでした。パーテイ当日、モグラは森の仲
間たちから、何も持ち寄らなかったことで非難の言葉をあびせられます。み
んなからいじめを受けます。
 そこを助けてくれたのがアナグマです。アナグマはモグラに物品ではない
のよ、愉快で明るい君のキャラクターをみんなに披露すればよいのだよとア
ドバイスを受けます。モグラはダンスを披露し、みんなに喜ばれます。みん
なはモグラのダンスのまねをやり、パーテイは盛り上がります。

  「アナグマさんはごきげんななめ」(オラム文、ハーレイ絵、評論社)
でも、モグラは主人公役です。アナグマは元気がなく、ふさぎこんでいま
す。沈みこんでいます。アナグマは物知りで、他人に役立つことをするのが
好きで、みんなから愛されています。頼りにされています。森のみんなは、
ふさぎこんでいるアナグマが心配です。アナグマを元気づけようと森の仲間
たちが会いに行きますが、会いに行っても、ほっといてくれよと、ごきげん
ななめで、すごすごと帰らなければなりませんでした。
  そこで、モグラは一計を案じます。森のみんなを褒めたたえる表彰式を
計画しました。そこへしぶしぶ出席したアナグマは、最大の賛辞で一番の表
彰を受け、森のみんなから盛大な拍手を受けます。アナグマは元気を取り戻
します。アナグマは森のみんなのダンスの輪の中へ入り、楽しく踊り出しま
す。
  ということで、「わすれられなおおくりもの」の文中にある「なかで
も、もぐらはやりきれないほど悲しくなりました。」(本文)の、モグラが
格別に悲しくなった理由が、これら二冊の絵本から解明できます。「わすれ
られないおくりもの」の授業に入る前に、これら二冊の絵本を前もって読み
聞かせておくとよいでしょう。

  前もって読み聞かせしておく、には反対意見もありましょう。「作品は
それ自体で完成しているものである。分からない文章内容があるからといっ
て、事前指導をしなければならないならば、際限なく範囲が広がり、際限な
く事前指導をしなければならなくなってしまう。」と。例えば、「やまな
し」(宮沢賢治)は法華経思想を前もって教えておかなければ、十分な理解
ができないというものではないでしょう。「やまなし」は、法華経思想とは
関連はあるが、それとは相対的に独立した、一個の自立した作品であるはず
だからです。
  この主張は、当然にあります。この考えの指導者の場合は、「本文で
は、ここがよく分からないね。問題として残しておきましょう」で、済まし
てしまうやり方もあるでしょう。あるいは、「バーレイが絵を描いている絵
本で、こんな題名の絵本が(ここに)あります。学校図書館(ここ)にあり
ますから借りて読んでみましょう。」と、絵本の紹介をするやり方もありま
しょう。あるいは、この教材の終了時に教師が学級全員に読み聞かせをし
て、あなぐまともぐらの親密な関係について改めて解明指導するやり方もあ
りましょう。
  どの方法を選択するかは、指導教師の考え方、児童の実態、授業の流
れ、指導目標、指導時数、その他の条件によって違ってくるでしょう。


          
「ちえとくふう」とは


  あなぐまの死は初冬のことでした。春になり、外に出られるようになる
と、森のみんなの往来が始まります。みんなは、あなぐまから恩恵を受けた
思い出を語り合います。もぐら、かえる、きつね、うさぎ、それぞれに忘れ
られない思い出があります。
  児童たちはこれら一つ一つの思い出を読み進むにつれ、あなぐまが森の
みんなから離れがたい敬慕と追懐の念を持たれていることに深く感動するこ
とでしょう。
 他人に親切にすることの大切さ、他人から慕われることへの羨望の気持ち
を抱くことでしょう。
  「あなぐまは、一人一人に、わかれたあとでもたからものとなるよう
な、ちえやくふうをのこしてくれたのです。みんなは、それで、たがいに助
け合うことができました。」(本文)と書いてあります。「ちえやくふう」
とは何でしょうか。「それで、たがいに助け合うことができるようになりま
した」とは、どんなことをさしているのでしょうか。

  あなぐまは、思い出だけを残してくれたのではありません。「ちえとく
ふう。それで互いに助け合うことができた」、そういう忘れられない贈り物
を残してくれたのです。それを本文から探してみましょう。そのへん、本文
の文章記述はたいへん弱いのですが…。児童向き絵本ですから、大人の小説
とは違い、必要な筋の展開だけを簡略な文章でしか記述していませんから。
わたしなりに「ちえとくふう」を推察してみましょう。
  もぐらは、はさみの上手な使い方です。かえるはスケートの上手な滑り
方です。
  きつねは上手なネクタイの結び方です。うさぎは上手な料理のしかたで
す。それぞれの習得に上達するには、それぞれに絶妙な技術や巧緻のコツが
あるはずです。
  その上達のコツを、世の習いを知りつくした老齢のあなあぐまから教え
られました。
  それらがアナグマから教えられた「ちえやくふう」だと言えましょう。
  次に「みんなは、それで、たがいに助け合うことができました。」(本
文)にこだわって、考えてみよう。「それで」(本文)とは、各人の上達の
コツの習得(ちえやくふうの習得)をさしていると考えられます。つまり、
広く生活上の技術習得や生きる知恵とも言えます。森の動物たちは、アナグ
マからたくさんのことを教えてもらいました。

  森のみんなはそれらを教え合い、みんなの共有物としました。それらを
知らなければ、毎日の森の生活が便利になり豊かになりました。「たがい
に、助け合うことができました。」(本文)とは、森のみんなが互いに教え
合う、知らせ合う、一人の独占物にしない、共有物にするということだと考
えられます。


           
「ゆたかさ」とは


  「最後の雪が消えたころ、あなぐまののこしてくれたゆたかさで、みん
なの悲しみも、消えていました。あなぐまの話が出るたびに、だれかがいつ
も、楽しい思い出を話すことができるようになりました。」(本文)と書い
てあります。
  時節は、最後の雪が消えた頃です。あなぐまの死は初冬、今はひと冬が
経過した早春です。
  「あなぐまののこしてくれたゆたかさ」とは、何でしょうか。あなぐま
が残してくれたもの、それはあなぐまをなつかしむ思い出でしょうか。懐旧
の念だけではないでしょう。あなぐまが残してくれたものは、森の仲間たち
が生活していく上での知恵や工夫でした。連帯感と助け合うことのすばらし
さでした。これらが、あなぐまの残してくれたものの「ゆたかさ」です。あ
なぐまのいのちが、今も森の仲間たちに生き続けているのです。
  あなぐまの死からひと冬が経過しました。ひと冬の時間の経過は、森の
仲間たちにいつまでもめそめそ悲しむことをやわらげさせてくれます。あな
ぐまの思い出を語り合っていくうちに「ゆたかさ=ちえやくふう=たからも
の=助け合いと連帯」が話題となり、やがてアナグマの死をすんなりと受け
入れられるようになり、森のみんなは悲しみを乗り越えられるようになった
のです。

  あなぐまの残してくれた「ゆたかさ」について簡単に前述しましたが、
「ゆたかさ」とはなにか、改めて考えてみると、どうしてなかなか一言でい
うには困難な、広く深い内容を含んでいるように思われます。「ゆたかさ」
が「わすれられないおくりもの」だとも言えるでしょう。
  「ゆたかさ」とは、あなぐまが村の動物世界に作り上げたよき伝統だと
も言えます。あなぐまによって埋め込まれた実践的な文化遺産だとも言えま
す。あなぐまの肉の延長として血肉化されている生きて働いている生命力、
または森の動物達の日常行動の中に常時現れている生活のちえや楽しく生き
る活力源だとも言えます。
  これに気づくことで、森の動物たちは深い悲しみをのりこえることがで
きるようになったのでしょう。
  「ゆたかさ」とは、何か。国語授業では意味把握に三年生には難度の高
い問題のように思われます。原文ではどうなっているのでしょうか。原文を
調べてみました。原文ではこうです。

  
As the last of the snow melted,so did the animals'sadnes.  

  つまり、訳者の意訳で「あなぐまののこしてくれたもののゆたかさで」
が付け加わっていることがわかります。「最後の雪が消えたころ、みんなの
悲しみも、消えていました。」だけなのです。原文がどうあろうと、わたし
たちは翻訳文で指導していくわけです。前述しましたが、書かれている語句
・文に即して読み取っていくほかありません。「ゆたかさ」を、忘れられな
い贈り物を集約した中心語句として大切に扱っていかなければなりません。

  温かな春の日、もぐらは最後にあなぐまの姿を見た丘に登ります。かえ
るとかけっこをして遊んだ丘です。あの時のあなぐまの姿を思い浮かべ、
「ありがとう。あなぐまさん。」とお礼を言います。もぐらにとって、あな
ぐまは最も恩恵を受け、親密な間柄にあったのです。
  もぐらは、「あなぐまさん、ありがとう。」の後にどんな言葉を言った
のでしょうか。もぐらになったつもりで、もぐらの気持ち(言葉)を会話の
ふきだしを作って書き込ませてみましょう。忘れられない贈り物の集約と今
後の決意がここに書かれることになります。まとめの学習としてよい方法と
なるでしょう。

             
閑話でひと休み


  ちょっとコーヒータイムにします。難しい話が続きましたので、ここで
ひと休みしましょう。
  わたしの妻君は御三家(西郷輝彦、舟木一夫、橋幸夫)の大ファンで
す。先日(2003.10.18)、舟木一夫の公演(新橋演舞場)につき合わされま
した。
  観客は男性はちらほらで、女性でうめつくされていました。女性達の年
齢は大多数が40歳から80歳ぐらいまででしょう。でっぷり太った熟女、
ひょろりとやせた熟女、ちんちくりんの熟女、づんぐりした熟女、すらりと
した姿勢でスイスイ歩く熟女、歩行時にひざが菱形に開く熟女、ぴょんこ
ぴょんこと足の悪い熟女なども目立っていました。スラックスばきの普段着
で来ている観客が大多数でした。
  舟木さんが頭上で両手を打ちながらリズムをとって歌い出すと、観客が
総立ちになって舟木さんと同じ動作をするのでした。みなさん、元気いっぱ
いに楽しんでいました。
  司会の玉置宏さんが話されたことが印象に残っています。玉置宏さんが
新横浜の新幹線乗り場でご婦人から「玉置くん」と呼ばれたそうです。顔を
しげしげと見ても、どなたでしたか分かりません。小学校の同級生だったそ
うです。あまりにも若く見え、元気そうだったので「元気の秘訣は何です
か」と問うと、水泳をやっていると答え、「三途の川を泳いで渡るために
やっているのよ」と答えたそうです。
  そこで玉置宏さんは思ったそうです。「あの調子では三途の川を泳いで
渡っても、ターンをして、また戻ってきてしまうのではないか」と。
  彼女は大変な旅行好きだとも語ったそうです。あちらこちらと年中、旅
行しているのだそうです。そこで玉置宏さんは、一句、浮かんだそうです。
        「旅行好き 行ってないのは 冥土だけ」
  わたしは玉置宏さんの、こうした気負わず、柔らかく、間の絶妙な取り
方で、さらりと言ってのける、こうした語りに感嘆し、堪能して帰ってきま
した。


           
区切りの間に気をつけて


  閑話休題、話を元に戻しましょう。
  これまで、長長と解釈上の問題について書いてきました。文章を音読す
るとは、文字面を単に音声にしていけばよいのではなく、書かれている意味
内容を情感をこめて音声に表すということです。意味内容の理解が不十分で
は、その音声表現は不十分となります。音声表現の仕方の言述には必ず内容
の読み取りや解釈上の問題点の話が伴ってきます。十分な読み取りがあっ
て、それが読み手の内面からわき出る自然な呼吸やリズムとなり、身体に響
いてこそ、上手な音声表現となるのです。心(思い、イメージ)の高揚があ
り、そういう精神と身体の律動、響き合いがそのまま音声の表現となって出
てくるのです。

  この物語には、三年生の教科書文としては、一文が長い文章個所があち
こちにみられます。長い一文をこまぎれに間をあけて音読しては、全体の意
味内容がばらばらになってしまいます。間のあけ方は、全体の文脈のひとつ
ながりの中に位置づけて音声表現しなければなりません。
  次の括弧の中は、できるだけひとつながりに読むようにします。括弧内
でも区切って読んでもいいですが、それは全体の中で、次へつながる音調に
しての、ほんの短い間とします。
  「(それに、たいへん年をとっていて、)(知らないことはないという
ぐらい、もの知りでした。)」
  「(ただ、あとにのこしていく友だちのことが気がかりで、)(自分が
いつか長いトンネルの向こうに行ってしまっても、あまり悲しまないよう
に)(と、言っていました。)」
  「(あと一度だけでも、みんなといっしょに走れたらと思いました
が、)(あなぐまの足では、もう無理なことです。)」
  「(春が来て、外に出られるようになると、)(みんな、たがいに行き
来しては、)(あなぐまの思い出を語り合いました。)」
  「(あなぐまは、)(一人一人に、わかれたあとでもたからものとなる
ような、)(ちえやくふうをのこしてくれたのです。)」


           
ひびく声で、ゆっくりと


  「わすれられたおくりもの」は、悲しい物語です。悲しい場面だからと
いって、声を落として、お通夜のように、陰気に、めそめそした雰囲気で音
声表現する必要はありません。あなぐまの死という悲しい物語ではあります
が、森の仲間たちはあなぐまから「生きる元気、他人を愛し親切する喜び、
生活をエンジョイするすばらしさ」という忘れられない贈り物を与えられま
した。「ちえやくふう、ゆたかさ」という忘れられない、すばらしい贈り物
を与えられました。
  悲しい事実が書かれているからといって、音声まで悲しく、泣き声にし
てしまっては、おかしな音読になってしまいます。文章として悲しい事実が
書かれているのですから、悲しさは文章自体で十分です。この物語の読み音
調は、ひびく声、共鳴のきいた声、教室の隅々にまで届く声の大きさで、
淡々と事実(書かれている事柄・内容)とその展開を外へポンと差し出すよ
うにして読むだけでいいでしょう。悲しみの情趣は、間をあけてゆっくりと
読み、かんで含めるようにゆったりと読み進めることで表現できます。悲し
みの雰囲気・気分を出すには、ゆっくりとゆっくりとが肝心(コツ)です。
  この物語は、登場人物の目や気持ちがひっこんだ描かれ方の地の文で
す。読み手は、登場人物のだれかの目や気持ちに入り込んだり、寄りそった
りして読み進める文章ではありません。覚めた気持ちで、つき離して、外か
ら、事実(出来事)そのままに、その事実(出来事)を読者の前にポンと差
し出し、置いていくつもりで音声表現していくとよいでしょう。


           
読みたい場面を選択して


  本単元の最終段階で、まとめの表現よみをします。全文のまとめ読みで
なく、読みたい部分を選択して表現よみをさせます。本教材全部をていねい
に音読指導するには多くの時間が必要です。そんな余り時間はありません。
読みたい場面は、児童に自主選択させます。
  教師も読ませたい場面を腹案として持っています。私の腹案は次の場面
です。

  その一は、森の仲間たちが一人一人、あなぐまの思い出を語る場面で
す。もぐらは紙の切抜きです。かえるはスケートの思い出です。きつねはネ
クタイの結び方です。うさぎはお料理です。(ネクタイの結び方は、きつね
が語った通りに実際にネクタイを手に持ってやらせるとよいでしょう。マ
ニュアルの解説文どおりに実演(組み立て・操作)する能力高めは重要で
す。)
  「わたしは、だれを読みます」と、思い出の一人を選択させ、その文章
個所を表現よみさせます。読み手に動物のお面などつけて読ませるのもよい
でしょう。分担読みで、だれが、どんな思い出を語ったかをはっきりとおさ
えさせるためです。

  その二は、冒頭部分の「あなぐまがかけっこを見に、丘の登った」文章
個所と、物語最終の「もぐらが丘に登って、あなぐまにお礼を言った」文章
個所です。この冒頭部分と最終部分とは、二つがシーン(場面)として対応
しています。二つが対応していることを明確に理解させるための取り立て音
読です。冒頭部分を読みたい児童、最終部分を読みたい児童、希望によって
分担読みをして、前後二つのシーン(場面)を対応(対比)させて理解を
はっきりとおさえます。

  その三は、冒頭個所にある、あなぐまの臨終場面です。ここには、死に
ゆく際の一つの臨死体験が書かれています。めめしく読む必要はありませ
ん。ひびきのある声で、ゆっくりと、間をあけて読むようにします。
  「夕ごはんを終えて、つくえに向い、手紙を書きました。」のあとに手
紙文「長いトンネルの向こうに行くよ。さようなら。あなぐまより」を挿入
して読み、つづけて「ゆりいすをだんろのそばに引きよせて、しずかにゆら
しているうちに……」と、つなげて読むようにするとよいでしょう。
  臨死体験とはどんなものか。児童たちはここの文章個所を音声に出し、
身体に響かせて、あなぐまと一緒になって呼吸することで、死にゆく際のあ
わい死の意識を感じとり、一つの死の体験事例を学ぶことでしょう。
  今の子ども達は、ペットの死に出会うことはあるでしょうが、人間の死
体を見る機会が少なくなっています。わたしの小さい頃は、家での病死が多
く、ふとんに寝ている白い布を顔に覆った死人を見ており、家族親戚みんな
で死装束に着替えさせて納棺し、出棺時には小窓から死体(顔)をのぞき、
最期の挨拶をさせられたものです。周囲から嗚咽が漏れ、人々は悲しみにう
ちひしがれています。そうした雰囲気の中で、小さかったわたしは小窓から
死体(顔)をのぞき、両手を合わせ頭を垂れました。こうして死の厳粛さ、
悲しみをこらえて涙とともに死人を送り出す人々の気持ち、いのちの尊厳さ
を実感として知りました。命の大切さ、命を守る、命を充実させる、という
ことを実感として学びました。


                
参考資料


  柳田邦男(ノンフィクション作家)が、『絵本の力』(岩波書店、
2001)の中で「わすれられなおおくりもの」の読み聞かせをとおして子ども
の死を理解させた小児科医師の事例を紹介しています。紹介事例は、東京の
聖路加国際病院で小児科の部長をしている細谷亮太先生がエッセイ集『いの
ちを見つめて』(岩波書店)の中で書いている一つのエピソードです。

  良太(2歳)君は急性脳症に罹り、深昏睡という感覚と意識のうえで何
も感じない、深い深い眠りに落ちた病状にあります。良太君には、姉の由加
(8歳)ちゃんと、兄の康平(5歳)君がいます。母親は一生に一度しか経
験しない大事な弟の死を一体どうわが子に分からせるか、細谷医師に相談し
ます。医師は、死にゆく二歳の男の子のベッドサイドで、8歳と5歳、両親
を座らせ、「わすれられないおくりもの」の物語を読み聞かせします。結
果、姉と弟の幼な子たちは、弟・良太君の死を素直の受け入れることができ
るようになったという感動的な報告事例です。詳細は前掲二著をお読みくだ
さい。
  柳田邦男さんは、この事例報告につづけて、次のように書いています。

  「このエピソードを聞いて、いろんなことを考えさせられました。われ
われは子の死に直面するとき、あるいは親の死に直面しても同じなんです
が、そこに同席する幼い子にどのように話しかけたらよいのだろうか。多く
の場合、子どもに死など分からない、あるいは教えようがないということで
やりすごしてしまうことが多いのではないでしょうか。とくに最近のように
病院死や事故死が多くなるという傾向が強くなっていると思うんです。
  子どもだって、悲しみの感情は持っているのに、それでは素直に悲しむ
ことができないでしょう。しかし、語り方によって、伝え方によって、たと
え八歳や五歳の子どもでも、兄弟が死ぬということ、二度と帰らない人とな
るということをしっかりと理解し、悲しみや心の痛みを、うやむやのうちに
どこかに封じこめることなく、しっかりと表現、表出することができるのだ
ろうと思うのです。子どもだって喪失体験をすれば、大人と同じように、あ
るいはそれ以上にナイーヴな感覚で悲しみや心の痛みを感じているはずで
す。」(河合隼雄、柳田邦男、松井直『絵本の力』岩波書店、94ぺ)



次へつづく