音読授業を創る そのA面とB面と          04・1・29記




「わすれられないおくりもの」音読授業をデザインする(後編)
 (1000の風、千の風になって)



                      
 ●「わすれられないおくりもの」(スーザン・バーレイ。小川仁央訳)
                  の掲載教科書………教出3下



           
大瀬校長の「命の授業」


  NHK教育テレビ(03・10・7)で「命の授業」(がんと闘う校長の日々)
が放映されたのを見ました。神奈川県茅ヶ崎市立浜之郷小学校・大瀬俊昭校
長が胃の末期がんと宣告され、命をふりしぼりながら、命の大切さ・尊厳に
ついて授業をしている感動的な映像でした。授業の一部に絵本「わすれられ
ないおくりもの」を使って授業している場面がありました。
  以下に放映された「わすれられないおくりもの」の授業部分の様子を再
現します。絵本「わすれられないおくりもの」を読み聞かせした後、次のよ
うに授業は進行していました。

【大瀬】 自分の命、一人の命はそこでとぎれるけれど、そこでつながって
     いるんでしょ?何らかの形でつながっているんでしょ。そこを聞
     いているの?
【ナレーション】あなぐまは死んだけれども、その命は残された仲間達につ
   ながっているのではないか。それを子ども達にじっくりと考えさせま
   す。
【大瀬】 あなぐまの命は、きつねにつながっているか、いないか。
【児童】 いない。                         
 
【大瀬】 あなぐまの命は、うさぎにつながっているか、いないか。
【児童】 いない。
【大瀬】 命はつながっていないけれども……でも、何につながっているの
     ?そこを聞いているのよ。
【児童】 思い出
【ナレーション】 思い出という言葉が出てきました。子ども達はさらに考
     え続けます。
【児童】 (次々に発言がでます) 
     リレーする命。心に残る命。限りがない命。終わらない命。永遠
     の命。
【大瀬】 そうです、永遠の命、命には終わりがないんだよね。心の中に忘
     れられない贈り物として。
【ナレーション】 大瀬さんのたどり着いた授業の先きは、命には終わりが
     ないということでした。人は必ず死ぬ、でも、この命は家族や友
     人達の心の中に忘れられない思い出として生き続けているはず
     だ。
     それを大瀬さんは子ども達に伝えようとしました。

  以上が「わすれられないおくりもの」部分のテレビ映像で、時間にして
  およそ10 分ぐらいだったかと思います。



         
大瀬校長の主題化したかったもの


   神奈川県茅ヶ崎市の浜之郷小学校は2004年1月8日の始業式は校
長不在で迎えました。大瀬俊昭校長(57)は終業式の翌日に入院し、翌年1
月3日未明に帰らぬ人となりました。合掌。
  大瀬校長は進行性ガンで胃を摘出し「余命三か月から半年」と告知を受
けました。「命の授業」が始まったのはそれからだそうです。月に1、2
度、三年生以上のクラスで教壇に立ちました。
  大瀬さんの「命の授業」のNHKテレビで放映された内容は、「わすれ
られないおくりもの」と、江戸時代に浅間山の火砕流に見舞われた人々の悲
劇の二つでした。
  「わすれられないおくりもの」授業で大瀬さんは子ども達に繰り返し
「死んでも命はつながっている」を主題化して訴えていました。あなぐまは
死んでも、あなぐまの残してくれたものは永遠の命となって残っているのだ
ということを強調していました。



        
終業式には階段を上れず絵本朗読


  東京新聞「こちら特報部」(2004・1・8)は大瀬校長の業績を特集して
います。
  その新聞記事の最後の部分に次のような記事がありました。

ーーーーー引用開始ーーーーー
  終業式で大瀬さんは「こいぬのうんち」という絵本を朗読した。「自分
は何の役にも立たない」と落ち込んでいたうんちが、地面に溶け込むことで
養分を与え、タンポポの花を咲かせることに力を貸す話だ。普段の終業式で
は各クラスを回るが、階段を上る力がすでになくなっており、この日はでき
なかった。
  校長室で点滴する一時間の間、大瀬さんは於保養護教諭に借りた「千の
風になって」という本を読んでいた。その後、校長は「あの本を使って授業
するから」と於保先生に話していた。
  大瀬さんはある教諭に一年以上前に書いたラストメッセージを託してい
た。「その封を開けて、見せてもらった。そこに『自分は風になる』と書い
たところが二ヶ所あった。本を読む前ですから、まったくの偶然です。」
(於保さん)
ーーーーー引用終了ーーーーー


           
千の風になって


  大瀬校長が「千の風になって」の詩を教材として授業したかったが、残
念ながら授業できずに逝ってしまいました。
  以下、詩「千の風になって」について、書いていくことにします。
  この詩もまた、愛する人を亡くしても悲しまないでください。私は永遠
の風(命)となってあなたのそばにいるのですから、ということを主題化し
た詩です。
  「わすれられないおくりもの」の文章に「あなぐまは、死ぬことをおそ
れてはいません。死んで体がなくなっても、心はのこることを知っていたか
らです。」とあり、あなぐまは村の動物達に「ちえやくふう。ゆたかさ」を
残してくれました。
  詩「千の風になって」にも、これと同じ内容の詩句があります。「私は
実り豊かな穀物の上にふりそそぐ日の光であり、慈雨となってふりそそいで
います。」とか「私はそこにいませんが、私は死んではいないのです。」と
か「私は千の風の束となってあなたの周りを吹き抜けているのです。」とか
の詩句があります。「千の風になって」も「わすれられないおくりもの」
も、両者とも「死んでも、永遠の命となって、あなたのそばで、生き続けて
いる。悲しまないで。」ということを主題化している詩だと言えます。

  ところで、「千」とい語句についてはじめに注記しておきます。

  新英和中辞典(研究社)には、下記のように書かれています。

≪thousand≫(新英和辞典より一部引用)
 (1)1000の、1000個の、1000人の、
 (2)[通例 a 〜]何千もの、多数の、無数の、
         下記原詩参照 [A THOUSAND WINDS]

 
 大辞林(三省堂)には、下記のように書かれています。
≪千≫(大辞林より一部引用)
 数の単位で百の十倍。また、数の多いこと。
 千に一つ=多くの中のたった一つ。ありえないことをいう。
 千も万もいらぬ=かれこれいうに及ばない。

つまり、「千の風」とは、英語でも日本語でも、「1000個の風」とか「千の
束の風」とかいうことではなく、「数が多い」ということ、「たくさんの、
無数の、無限の」という意味で使われています。
 このことは、四字熟語の「千客万来」「一刻千金」や、「君が代」にある
「千代に八千代に」の使われ方でも分かります。「千人。千円。千年」とか
の意味ではではなく、「数多くの。あまたの。悠久の。いついつまでも永久
の」という使われ方です。


  次に原詩を示しましょう。


       A THOUSAND WINDS  (Author Unknown)

        Do not stand at my grave and weep. 
        I am not there. Ido not sleep.
  
       I am a thousand winds that blow.
       I am the diamond glints on snow. 
       I am the sunlight on ripened grain.
       I am the gentle autumn's rain.

       When you awaken in the morning's hush.
       I am the swift uplifting rush.
       Of quiet birds in circled flight.
       I am the soft stars that shine at night.

       Do not stand at my grave and cry. 
       I am not there. I did not die.



      
欧米や日本でしずかに広まり読まれている詩


  この詩の作者は、不明です。だれが書いたか、いつどこで生まれたか、
まったく分かっていません。風のような詩です。19世紀末にアメリカに移
住した英国人の男性、アメリカ先住民の伝承詩、1932年にメリー・フラ
イというイギリスの女性、などの諸説があるようです。
  アメリカではすでに1977年、映画監督ハワード・ホークスの葬儀
で、名優のジョン・ウェインがこの詩を朗読したといわれています。198
7年、マリリンモンローの25回忌でもこの詩が朗読されたそうです。
  2001年9月11日、同時多発テロの悲劇がおこりました。2002
年の9・11追悼集会で、死亡した父親をしのんで11歳の少女がこの詩を
朗読しました。グランドゼロで朗読した少女はこう前置したそうです。「こ
の詩は父親が耳元でささやいてくれているようです。」と。
  イギリスでは1995年、アイルランド共和軍(IRA)のテロで犠牲者
となった24歳の青年が「ぼくが死んだ時に開封してください」という両親
宛の手紙の中にこの詩があり、彼の葬儀会場でこの詩が朗読されました。そ
れがBBCで放送され、大きな反響を呼びました。

  この詩が日本で初めて書籍として発売されたのは、南風椎『あとに残さ
れた人へ1000の風』(三五館。971円。1995)です。小さな本の写真
詩集です。柳田邦男(作家)さんは、講演の中で大空の雲の写真を何枚かの
スライドで大きくスクリーンに写し、マスカーニのオペラ「カベレリアルス
ティカーナ」の間奏曲流しながら南風訳を朗読したということです。
  次に
南風椎訳を紹介しましょう。


           
1000の風

       私の墓石の前に立って涙を流さないでください。
       わたしはそこにはいません。眠ってなんかいません。

       私は1000の風になって吹き抜けています。
       私はダイヤモンドのように雪の上で輝いています。
       私は陽の光になって熟した穀物にふりそそいでいます。
       秋にはやさしい雨になります。

       朝の静けさのなかであなたが目ざめるとき
       私はすばやい流れとなって駆けあがり
       鳥たちを空でくるくる舞わせています。
       夜は星になり、私は、そっと光っています。

       どうか、その墓石の前で泣かないでください。
       私はそこにいません。私は死んでいないのです。



  最近、新井満『千の風になって』(講談社。1000円。2003)という、こ
れもきれいな写真詩集が出版されました。新井満さんが歌っているCD『千
の風になって』(ポニーキャニオン。1000円)も発売されています。南果歩
主演『天国への手紙』の映画化もされました。絵本、新井満・文、佐竹美保
・絵『千の風になって』(理論社、1365円)もあります。
  2006年NHK紅白歌合戦で秋川雅史が「千の風になって」を歌い、
一躍この歌が人々の話題になるようになりました。その後、オリコンシング
ルチャートにもランクインしました。
  次に、
新井満訳を紹介しましょう。


            
千の風になって

        私のお墓の前で 泣かないでください
        そこに私はいません  眠ってなんかいません

        私のお墓の前で 泣かないでください
        そこに私はいません  眠ってなんかいません
        千の風に
        千の風になって
        あの大きな空を
        吹きわたっています

        秋には光になって 畑にふりそそぐ
        冬はダイヤのように きらめく雪になる
        朝は鳥になって あなたを目覚めさせる
        夜は星になって あなたを見守る

        私のお墓の前で 泣かないでください
        そこに私はいません  死んでなんかいません
        千の風に
        千の風になって
        あの大きな空を
        吹きわたっています

        千の風に
        千の風になって
        あの大きな空を
        吹きわたっています

        あの大きな空を
        吹きわたっています



       
新井満さんの「千の風になって」解釈


  2004年1月17日に、ニッポン放送のラジオ番組「千の風になって」(19
:30〜20:30)が放送されました。わたしはそれを聴きました。この番組の
中で新井満(芥川賞作家)さんは、「千の風になって」翻訳の苦労話を語っ
ていました。新井さんの話から、わたしたち教師にとってこの詩をどう解釈
し、どう教材化し、どう児童達に与えていけばよいか、貴重なヒントを得る
ことができます。次に、新井さんの話をそのまま再現してみましょう。


  原詩12行をどうやって日本語に翻訳して作曲したか、その話をしま
しょう。
  けっこう実は苦労しました。実に簡単な英語なんですね。でも、どうし
てもうまく訳せないんです。最後に私はこの英語の詩を朗読したんです。そ
のあとで、ふっと忘れようとしたんです。つまり詩のエッセンスというか、
本質といいますか、コンセプトを掴もうとしたんだと思います。で、分かっ
たのは、この詩の謎を解くカギはやはり「風」という言葉にあるのじゃない
か、「風」とはなんだろうなあと、いろいろ考えました。
  「風」とは何だろう。風は生まれて直ぐ消えてしまいます。でもまた直
ぐに息を吹き返します。そうだ、風は大地なんだ、大地の息吹なんだ、地球
の呼吸なんだ、とだんだん分かってきた。
  死んで千の風になるということはこの地球の大地と一体化することじゃ
ないか。
  この瞬間、作者の考え方が分かったような気がしました。つまり自分は
死んだけれども、実は死んだように見えているだけで、ほんとうは死んでい
ないのだ。ではどうなったかというと、人間以外の存在に生まれ変わっただ
けですよと。人間は死ぬとまず風になる、大空を吹きわたる、次に雪とか光
とか雨になったり、あるいは鳥や星や、いろんなものに姿を変えたり、さら
に生きつづける。
  この地球で太古からえいえいと営まれてきた命の循環の中に組み込まれ
るというわけなんです。私は死んだ、けれども人間以外の命に生まれ変わっ
た、今もしっかりと生きている、だから心配しないでください、私のお墓の
前で泣かないでください。
  つまり命は永遠に不滅だということをこの作者は言いたかったらしい、
ですね。死と再生の詩を作者は書こうとしたらしい。これが分かった時にす
らすらっと翻訳ができました。そして作曲のほうも五分とかからなかったん
じゃないかな。




         
新井解釈から受けた私の感想


  新井さんは「実に簡単な英語の詩なんだけれど、どうしてもうまく訳せ
ない。それで最後に朗読したんです。」と語っています。新井さんは音読
(文字を音声にする)という手段を使って詩のイメージあるいは詩内容の本
質をつかもうとしたわけです。
  わたしは音読指導とは文章を上手に読む指導をするだけではない、音声
を手がかりにして文章内容の解釈を深める(音声解釈。口頭解釈)指導でも
あると主張しています。わたしの音読指導(表現よみ指導)の正しさが新井
さんの話の中から実証されていることが分かります。わたしはこれまで、そ
のような方法で授業実践してきましたし、そのように著書や論文にもこれま
で書いてきました。

  次に新井さんは、詩のエッセンス・本質・コンセプトをつかもうとし
た、朗読することで詩内容の解釈を深く把握しようとした、と語っていま
す。「風」がキー・コンセプトではないか、そこで「風」からいろいろな想
像力をふくらませて思考していったと、語っています。この詩の題名は「W
IND」ですから、「風」がキー・コンセプトでありそうなことは容易に想
定できます。
  わたしたちは国語の授業で重要語句とかキー・ワード(センテンス)と
かの指導をします。ひとまとまりの文章は何らかの思想(考え)を表現した
ものです。
  ひとまとまりの文章には重要語句とかキー・ワード(センテンス)とか
がある場合が多いです。
  磁石のように凝集力を持っている語句(文)が潜在していることが多い
です。
  教師はそうした数個の重要な語句(文)をさぐらせ、そこから解釈を深
めていく指導方法をとることが多くあります。新井さんもそうした思考過程
をとって解釈深めをしています。

  新井さんは最後に「この詩の作者は、死と再生の詩を書こうとしたらし
い。これが分かった時にすらすらっと翻訳と作曲ができてしまった。」と
語っています。詩内容の解釈が深まり、詩内容の本質が把握できたとき、瞬
時にして翻訳と作曲ができてしまった、と語っています。作曲は音声表現で
す。音読(表現よみ)も音声表現です。詩(文章内容)の本質がつかめた
時、音声表現がたちどころにできてしまったということです。

  文章の音声表現は、文章内容の理解が深まれば深まるほど、容易にそし
てぴったりした音声表現ができるようになります。内容理解ができていなけ
れば、つっかえ読になったり、うわべのテクニックで糊塗する嘘っぱちの、
みえすいた音声表現になってしまいます。

  最近、朗読ブームとかで名文や名詩を朗読し暗唱することが流行してい
るようです。内容理解はどうでもよく、大声を張りあげて、幾回も繰り返し
朗読し暗唱する、暗唱すれば、いつの日にか内容は少しずつ分かってくる
し、日常生活にもいつか役立ってくる、という昔の素読主義の主張です。わ
たしは「内容理解はどうでもよく」とか「内容理解はできてないよりはでき
てるほうがよいが」とか「大声を張りあげて暗唱するが重要だ」とかには、
もろてをあげては賛成できません。

  新井さんは、「風」の解釈の中で「自分は死んだだけ、実は死んだよう
に見えるだけで、ほんとうは死んでなんかいないのだ。風になり、大地を吹
きわたり」と語り「風は大地なんだ、大地の息吹なんだ、地球の呼吸なん
だ」と語っています。
  この解釈にわたしも、大賛成です。

  中沢新一(哲学者)さんは、こう書いています。
  
「風という言葉は、もともと大気のそよぎや呼吸を意味しているが、タ
ントラ仏教の理論書には「あらゆるものに運動をおこさせる力」とか「運動
性そのもの」といった定義があたえられていることが多い」
         中沢新一『チベットのモーツァルト』(せりか書房


 三木成夫(解剖学者)さんは、こう書いています。
  「生命」とは、生活の中ではなく、森羅万象の”すがたかたち”の中に
宿るものである。ある人間の持つ ”すがたかたち”の強烈な印象が一つの
心に深く刻み込まれた時、その人間の「生命」は生活を終えた死後もなお、
脈々として消え去ることがない。そこでは ”死んでもいのちがある”こと
になる。「人間生命」とは、人間の生活を支える原動力のようなものでなく、
人間の持つ”すがたかたち”そのものでなければならない。
              三木成夫『人間生命の誕生』(築地書館)

  わたしは、「風」というものを、次のように考えます。
  死者は風という形而上的存在となり、いっさいの制度的結合から解放さ
れ、もっとも自由に軽やかに柔らかに菩薩となって、さまざまの強度の流れ
となって、地球(大地)を生き生きと呼吸させ、地球(大地)に、そこに住
む人々に動物たちに植物たちに、すべてのもの達に輝かしい生命力と溌剌と
した活力・生動を満ちあふれさせている、それが「風」というものなのだと。



              
参考資料


 東京新聞の投稿欄を読んでいたら、次のような記事がありました。
 東京新聞 2007・3・25朝刊「あけくれ」欄より引用しています。

ーーーーーーー引用開始ーーーーーーー

         千の風さん、伝えてね
 
  娘を亡くして十四年。今でも娘の死を信じることはできません。食事を
供えるたびに必ず「元気にしていますか」と写真に問いかけています。どこ
かで元気に暮らしていると思いたいのです。
  春になって蝶が飛び交う姿を見れば、娘が会いに来てくれたと思い、夏
の涼しい風がカーテンを揺らす時、娘の気配を感じるのです。こんな思いを
他人に話したら笑われるでしょう。でも今は違います。
  秋川雅史さんの「千の風になって」の歌を耳にしてからは、私の想像は
間違っていなかったと思うようになりました。
  娘はこの歌のように、雪になり、星になり、時には風になって私たちの
近くにいつもいます。今日はお花畑で、好きな本を読んでいることでしょう。
活発だった娘は、お墓にじっと眠ってなどいません。この歌に出会ってから、
いっそう娘を身近に感じるようになりました。千の風さん、娘に伝えてくだ
さい。「みんな元気です」と。

             (樢の浦トシ子 69歳 神奈川県大和市)

ーーーーーーー引用終了ーーーーーーー



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