音読授業を創る  そのA面とB面と         04・1・9記




 
「モチモチの木」の音読授業をデザインする




 ●「モチモチの木」(斎藤隆介)の掲載教科書……光村3下、日書3下



          
語り手になって音読する


 「モチモチの木」には、独自の語り口調があります。語り手がいて、語り
手が物語世界を語っています。語り手が、聴衆(読者)に向って、豆太はこ
うしたよ、じさまはこうしたよと、彼らの性格や行動はこうだよ、と語り聞
かせています。
  語り手の語り方は、客観的ではありません。語り手は作品世界の外にい
て、作品世界から離れた位置で、人物はこんな性格で、人物はこう行動した
よと、、冷静な目で、ニュース(事実)を語るように、ありのままを淡々
と、語ってはいません。
  語り手の語り方は、かなり主観的です。次のようにです。
  語り手は、豆太を、じさまを、おとうを、ある評価的態度でもって、語
り手の主観的な評価言葉を加えて語っています。語り手の評価的態度が文章
(文体)に出ている文章個所を冒頭部分から取り出してみましょう。

  次のかっこ内は、豆太に対する語り手の主観的な評価的態度が表れてい
る語句です。「(まったく)豆太(ほど)おくびょうな(やつは)ない。
(もう)五つに(も)なった(んだから)、夜中に、一人でせっちん(ぐら
い)に行けたっていい。」という語り方です。語り手は、豆太の性格や行動
はこうだと聴衆(読者)に紹介して語って聞かせているのですが、語り手は
豆太への否定的な感情を高ぶらせて豆太の人物像を語り聞かせています。
(もちろん、これはじさまの豆太への愛情の裏返しの表現(伏線)となって
いるわけですが)。

  つづく文章個所からも、語り手の主観的な評価言葉を取り出してみま
しょう。
 「両手を「わあぁ」とあげるから(って)、夜中に(は)、じさまについ
ていってもらわないと、一人(じゃ)しょうべんもできない(のだ)。豆太
が、「じさまぁ。」って、(どんなに)小さい声で言っても、「しょんべん
か。」と、すぐ目をさまし(てくれる)。いっしょにねている一まいしかな
いふとんをぬらされちまう(よりいいからなぁ)。」ここでは、語り手は、
じさまが豆太を愛情いっぱい、大変なかわいがり方で育てているという、語
り手の評価的態度が読みとれます。

 「モチモチの木」の地の文には、このような語り手の評価的態度の語句が
随所に見出されます。ですから、この物語を音声表現していくときは、語り
手の評価的態度に引きずられて声に出していくことになります。読み手は、
語り手が豆太をどう思っているか、豆太をどう評価しているか、これら語り
手の目や気持ちにもよりそって読み進めていくことになります。
  前記した地の文のかっこ内は、語り手の主観的な評価態度が表れている
語句でした。かっこ以外の地の文個所は、語り手が外から客観的に描写して
いる文、冷に覚めた気持ちで事実のありのままを淡々と語っている文です。
  ですから、「モチモチの木」の地の文全体の音読のしかたは、語り手の
評価的な目でつまり内の目に入ったり、客観的な目でつまり外の目から距離
をおいて語ったり、くっついたり離れたり、微妙に重なったり際どく離れた
り、そうした二重性の関係の中で読み進めていくことになります。


         
まのびした音声表現にしない


  この物語の筋の展開は、一か所に滞留することがありません。長々とし
た心理描写文や論理説明文がありません。先へ先へとテンポが速く進行して
いってます。
  六十四歳のじさまが元気に行動する描写文、豆太は昼はいばり、夜は
しゅんと沈んでいる行動描写文、じさまがおしっこさせている行動描写文、
豆太が真夜中に坂道をかけおりる行動描写文、モチモチの木に灯がついた情
景描写文、じさまがやさしさの重要さを語っている行動描写文など、この物
語の筋の展開は次次と速いテンポで進行しています。
  情景描写でも、峠の坂道を医者様を呼びに駆け下りる個所では、外は一
面真っ白い霜で、霜が足にかみつく極寒の夜です。この情景描写の凍みる寒
さは、豆太の行動を一層急がせ、場面の雰囲気にさらなる緊迫感と疾走感を
与えます。この物語全体が急テンポで進行し、人物の行動は動的です。

  このように動的な文章(文体)の音声表現は、ゆっくりと、のんびり
と、まのびしたテンポで読んではいけません。場面の雰囲気に緊迫感や生動
感がなければなりません。その音声表現では、一つ一つの場面をていねいに
声でセットして置いていくように形作りつつも、筋の展開を一気に、たたみ
かけ、追い込むような、次へ次へと場面が展開していくような音声表現にし
なければなりません。文章内容からくる生動感や律動感が、読み手の思い
(イメージ、表現意図)の生動感や律動感となり、リズムとなって、読み手
の感情を高ぶらせ、引き締まった意気込みでもって先へ先へと読み進めてい
くようになります。
  前章で、語り手は豆太への評価的感情を高ぶらせて聴衆(読者)に語り
聞かせていると書きました。読み手は語り手の目や気持ちによりそって、つ
まり、内の目に入ったり、外の目で距離をおいて客観的に語ったりしていく
ような音声表現になります。読み手も感情を高ぶらせ、文章個所によっては
声にパワーを入れ、語勢を強め意気込み追い込んで読み進めていくところも
あります。この物語には、語勢を強めてねばっこく表現していくところがた
くさんあります。(このへん、言葉表現だけでは十分に伝えることができま
せん。拙著付録・CD録音を参照してください。そこでの記号づけ学習や児童
の発言・読み声の実際などの授業風景をCD録音で耳にしてみてください。直
ちにわたしが言わんとしている音声の実際が理解できるでしょう。)



        
長文の区切りの間に気をつける


  この物語には、一文の長い文があります。一文が長い、つまり、句点
(まる)がつくまでの長い文があります。
  例えば、「おくびょう豆太」の章に(1)「ところが、豆太のおとう
だって、くまと組みうちして……見事にやってのける。」の一文がそうで
す。この一文には光村本で漢字もかなも一文字と数えて文字数が合計97個
もあります。
  同じ「おくびょう豆太」の章に(2)「ところが、豆太は、せっちんは
表にあるし、……一人じゃしょうべんもできないのだ。」の一文もそうで
す。この一文には文字数が合計106個もあります。
  「霜月二十日のばん」の章に(3)「木のえだえだの細かいところにま
で、みんな灯がともって、木が明るく……おしっこをもらしちまいそう
だ。」の一文もそうです。この一文には文字数が合計117個もあります。

  これら長文の音声表現の仕方について下に略記してみましょう。
  まず(1)「ところが、豆太のおとうだって、くまと組みうちして」で
はじまる文について書きます。臆病な豆太とは違っているおとうの事を次に
語るよという意味で、「けれど」の前で話が変わったことを示すたっぷりと
した転調の間をあけます。意味内容が逆につながるので「けれども」の
「け」をやや高めに読み出します。
  この一文の全体構造は、二つに分かれます。「おとうはこうだ。じさま
はこうだ。」の二つです。文「主部+述部」のひとつながりと、二つの文の
区切りをはっきりと音声に出して読みます。つまり「きもすけだったし」の
次で区切りの間をたっぷりとあけます。ここまでは、おとうの話です、次か
らは、じさまの話です、ということを伝える意味から、ここでたっぷりと間
をあけます。
  述部部分が、かなり長いですが、述部を読むときは途中で音声が下がっ
て終止してしまう音声表現にならないように気をつけます。途中で軽い間を
あけて読み進めていってもいいですが、次へと続く感じの間のあけかた、平
らな間にします。だからといって、文末まで一気に早口読みにしてはいけま
せん。

  次に(2)「ところが、豆太は、せっちんは、表にあるし、」ではじま
る文について書きます。この一文で気をつけることは、区切りの間です。次
のような間のあけ方にするのも、一つの方法です。
  「(ところが、豆太は、)(せっちんは表にあるし、)(表には大きな
モチモチの木がつっ立っていて、)(空いっぱいのかみの毛をバサバサとふ
るって、両手を「わあっ」とあげるからって、)(夜中には、)(じさまに
ついていってもらわないと、一人じゃしょうべんもできないのだ。)」
  上記のほかにも、間のあけ方の方法はいろいろあるでしょう。意味内容
が分かりやすく伝わるように読むことが肝要です。

  最後に(3)「木のえだえだの細かいところにまで、みんな灯がともっ
て、木が明るくぼうっと」ではじまる文について書きます。ここも区切りの
間が重要です。次のような間のあけ方も、一つの方法です。
  「(木のえだえだの細かいところにまで、みんな灯がともって、)(木
が明るくぼうっとかがやいて、)(まるでそれは、ゆめみてえにきれいなん
だそうだが、)(そして、豆太は、)(昼間だったら、見てえなぁと、そっ
と思ったんだが、)(ぶるぶる、)(夜なんて考えただけでも、おしっこを
もらしちまいそうだ。)」区切りの間でも、長くあける間、短くあける間、
いろいろあります。
  「ぶるぶる」は、驚愕で身体が震える状態をあらわした擬態語です。身
体が震える様子を音声にしてあらわします。
  「ぶるぶる」の音声表情をつけて読む指導方法として、次のようなのは
どうでしょう。
  「おお、こわい!」と、先ず驚きの言葉を言います。次に身体をわざと
恐さで震えさせながら、「ぶるぶる」と声を出して、声を震わせて、言いま
す。そうです、場面は違うが、寒気で、または風邪を引いて身体が震えま
す。その時の感じで「ぶるぶる」と声を震わせて、遠慮せず大胆に、言いま
す。この感じです。
  この音声表情を、本文の地の文の「ぶるぶる」個所で挿入して読みま
す。「そっと思ったんだが」(ぶるぶる)「夜なんて考えただけでも」と読
み進めていきます。間投詞的な、擬態語です。話の途中に身震いが起こっ
て、その時に咄嗟にでた身体動作の言葉として読みます。



           
参考資料(1)


 「モチモチの木」の作者・斎藤隆介さんは、児童言語研究会の第六回夏
季アカデミー(1969年、昭44、東京都立大学にて)で講演していま
す。その講演の中で自作作品について次のように語っています。

  
「わたくしの「八郎」とか「三コ」とか、その他すべての殆んどの作品
はすべて献身ということ、おのれをなくしてみんなのためにつくすことに
よって、おのれの次元が上がるという弁証法をわたくしは目ざしたんで
す。……わたしが言いたいのは「人間、やさしささえあれば、やらなければ
ならないことはやるんじゃないか」そう思うんです。
」と語っています。



           
参考資料(2)


   「モチモチの木」の主題は、終末部でじさまが豆太に語る「おまえ
は、一人で、夜道を医者様よびに行けるほど、勇気のある子どもだったんだ
からな。自分で自分を弱虫だなんて思うな。人間、やさしささえあれば、や
らなきゃならないことは、きっとやるものだ。」であることは間違いないで
しょう。だからといって、ここに到達して終わりにしてしまう「道徳」教育
にしてしまってはいけません。「道徳」でない文学の教育は少し違ってくる
のではないでしょうか。
  豆太は夜道をじさまを助けるために必死で走った。本当は勇気のある子
だった。けれども、じさまが元気になると、またもとの臆病な豆太にかえっ
てしまった。どうしたのか。わたし(荒木)は、このへんの押さえが大切だ
と思うのですが。
  これについて、次に、二人の意見者の主題の見解を紹介しましょう。

 林田哲治(児童言語研究会大阪会員)さんは、下記のように書いていま
す。
 
 「人間、やさしささえあればやらなきゃ……」という部分だけを取りあ
げて、その意味を考えさせる。なるほど、この言葉の持つ意味は重い。作者
がこの作品を書いた願いをずばり表現している。しかし、−だからこそー私
は、このことばをあれこれといじくって意味づけさせることはやりたくない
と思う。へたをすると教訓の押し付けになるからだ。豆太の行動の評価は、
最後の三行をめぐって話し合うなかで、あきらかになってくるにちがいない
し、その方が「文学的」な読みになるだろう。  
  さて、結末の三行だが、これをめぐって子どもたちの意見が対立するだ
ろう。「もとのおくびょうな豆太にもどったみたい」「そうではない。もう
今までの豆太とはちがうんだ」「わざと甘えているのだ」などである。必要
とあればもう一度最初から教材を読み直すことをさせてよい。要するに、豆
太はごくふつうの子どもだということをわからせたい。語り手が豆太をさも
臆病な子どものように語ってきたのも、実は書き手がそうさせたもので、書
き手の豆太への愛情の裏返しなのだ。決して臆病者から勇者に変身させよう
としたのではない。だから、豆太はもとの豆太のようにふるまって、いっこ
うにさしつかえない。じさまが言う「やらなきゃならねえことは、きっ
と……」という言葉は、むしろここで生き生きと輝きを見せるのである。

       『国語の授業』(一光社)1977年8月号より引用

  関可明(児童言語研究会東京会員)さんは、下記のように書いていま
す。

  従来の「モチモチの木」の読みは、「人間、やさしささえあれば、やら
なきゃならねえことは、きっとやるものだ。」という、じさまのことばに目
を向けすぎていたのではなかったか。……
  豆太のこの夜の行為をつき動かしたものは、豆太の心の深いところに宿
るやさしさといっていいであろうが、「人間、やさしささえあれば……」と
いうイデーだけに読みを収斂させては文学作品の読みを貧困にしてしまうだ
ろう。この作品には、「人間」一般ではなく、五歳の豆太が自分で判断し、
医者様を呼びに行くという行為、豆太のやさしさに基づく自立への姿が生き
生きと形象されているのだ。

       『国語の授業』(一光社)1983年4月号より引用



         
参考資料(3)


  この物語の冒頭個所に「せっちんは表にあるし」と書いてあります。わ
たし(荒木)の小さかった頃、農村では、「せっちん」(便所)はまだ農家
(住まい〉とは少し離れたところに設置されてあるのが普通でした。全部の
農家というわけではありませんが、けっこう離れのトイレが多かったと思い
ます。今の若い先生たちは、表にある「せっちん」といっても分からないの
ではないしょうか。それでは指導ができませんね。わたしの記憶をたどって
書いてみましょう。
  農家(住まい)から七メートル前・後、離れた位置に表のせっちんはあ
りました。直径3メートルほどの周囲を板やトタンで囲み、雨がはいらない
ように小さな屋根がついていました。中には肥溜めの深い桶(コンクリー
ト、その他)がうめてあり、両脇に二枚の板がしいてありました。二枚の板
に足をのせ、またがって二枚の板のあいだからポタンポタンと落とすわけで
す。
  今では古い農家(住まい)は新しく建て替えており、現在の農家(住ま
い)には広くて綺麗な水洗トイレがはいっています。だけども、息子や娘た
ちが都会に出て、祖父、祖母だけの一、二人住まいの、建て替えてない旧農
家(住まい)にはまだ表のせっちんが残っています。昔は、このほうが農家
の農事作業には肥溜め(肥料)として使用するに便利(作業がしやすい)
だったのです。ハエが自由に出入りして、うじがうじゃうじゃいたのを記憶
しています。
  また、わたしの子どもの頃は、田んぼの中、畑の中のところどころに肥
溜めがありました。土中に穴を掘って埋めた桶(コンクリート、その他)に
人糞、し尿を一時的に溜めておくのです。そこを中継地にして田や畑にまく
わけです。草いきれの匂いと肥溜めの匂い、これらが混じりあったむっとす
る匂い、これこそがまさに田舎の匂いです。馬小屋や牛小屋のむっとする匂
い、これも田舎の匂いです。道端にそって細く流れている小川、泳いでいる
メダカやフナ、小川の草木の葉先に止まっているトンボ、これは田舎を象徴
する風景です。田舎から、これらの匂いや風景が消えていきつつあるのはま
ことに残念です。田舎から、田舎の匂いや風景が消えていくのは、田舎その
ものがが消えていくようで、そしてわたしの少年時代そのものがが消えてい
くようでとても淋しいかぎりです。

 田中優子(法政大教授)さんは講演「再検証・江戸のシステム」の中で
次のようなことを話していました。江戸時代の長屋(住居・住まいだけでな
く、商売事務所、商店もあった)のくだりでの話です。江戸時代のリサイク
ル(環境問題はなかった)の話の中での排泄物(し尿)の処理の仕方につい
て、の話です。

  一つの長屋に二つぐらいの共同トイレがあり、ためたし尿を、契約した
農民が買いに来ます。それを畑に持っていって発酵させて養分として使うわ
けです。し尿の値段はとても高価でした。諸物価の値上がり率よりも、し尿
の値上がりの上昇率が高かったのです。それで農民によるし尿値上げ反対運
動が起こりました。排泄物は宝物だったのです。とても高価な商品でした。
  江戸時代の人々は、排泄物はおろそかにしない、その辺で用を足したり
はしません。必ず共同トイレでするわけです。村に大きなイベントがあって
人々が大勢集まるときは必ず公衆トイレ屋さんが出て設置するわけです。た
めて、持っていっちゃうわけです。それほどし尿は大切にされていたので、
江戸の町は清潔でした。
  これは、ロンドンやパリのし尿の処理とは全く違います。有名な話に、
ロンドンは二階の窓からしちゃうと言いますね。町の匂いがたいへんだとい
う話もありますけど。


           
参考資料(4)


  次の文章はインターネット・まぐまぐメールから送られてきたもので
す。「あなたの知らない雑学」(発行者・富樫さん、ID:00001145、2003・
8・10)より引用。
「トイレットペーパーのない時代は何を使ったか」
  紙が比較的自由に庶民の手に入るようになったのは、江戸時代の後半か
らだといわれている。
  トイレットペーパー以前の尻拭いの方法は、ピンと張った縄をまたいで
歩く、適当な形状の小石を見つけて始末する、池のそばで用をたして手を洗
う、などがあったが、最も一般的だったのは、木や竹で作った平棒でこそぎ
取る方法だった。この棒のことを「ちゅう木(ぎ)」、「くそべら」とも呼
ばれた木片で、その使い方は
「正法眼蔵(しょうほうげんぞう)」という仏教の本の中の僧侶のトイレ内
作法を説明するくだりに詳しく書いている。
  今では用便後にトイレットペーパーを使うのが常識だし、最近ではお尻
を洗って、しかも乾燥までしてくれる有り難い便器も登場している。
  昔から江戸っ子がサッパリした気分を表すのに「大川でケツを洗ったよ
うだ」と言ったようだが、衛生上からも洗う方が一番よい方法なのだ。



                関連資料・録音


 本ホームページの第18章第3節「表現よみ授業におけるいろいろな指導技術例2」
の「モチモチの木」の読み声録音を聴取してみよう。
 また、第19章第1節「モチモチの木」の群読録音1〜9の読み声録音を聴取してみ
よう。すべて荒木学級の読み声録音です。


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