音読授業を創る そのA面とB面と           03・09・26記




 
「かさこじぞう」の音読授業をデザインする




●「かさこじぞう」(岩崎京子)の掲載教科書……東書2下、教出2下、
                                    学図2下、日書2下、大書2下



             
教材化の視点


  現行教科書にある「かさこじぞう」は、岩崎京子さんの再話です。昔か
ら日本各地に「笠地蔵」民話として語り継がれてきた話を、岩崎さんが再話
(書き直す)したものです。地蔵は庶の民間信仰として生活の中に生きてお
り、庶民を災厄から守り、庶民に慈悲を与えると信じられています。
  この物語の中から「昔のことの話だと分かるところ」を探し出させま
しょう。
「かさこ、もちこ、おら、町さ、できんの、おらんのう、いらんか」などの
方言をあげる児童がいるかもしれまん。これは方言ですが、現在ではテレ
ビ、ラジオの普及によって日本全国が共通語化しているので、二年生児童に
は昔の言葉として理解してもよいでしょう。
  児童たちは、「大みそか、お正月、もちこのようい、大年、正月買いも
ん、年こし」などの言葉から、自分たちの今の年こし・正月行事と対比して
考え、この物語は昔の話として理解していくことでしょう。今では、餅つき
をする家庭は少なくなり、大都市ではみられなくなりました。
  昔の年越し・正月行事について教師が補説を加えると、この物語がいっ
そう深く理解できるでしょう。昔は地域ごとに種々の年越し・正月行事(風
習、習俗)がありました。大みそかは大掃除も終わり、新しい気持ちで新年
を迎える準備完了の日です。正月に神仏に供える鏡餅の餅つきをします。餅
はおめでたいときに出る供え物でもありました。
  正月は、親にとっては多忙と出費が重なるが、子ども達にとってはうれ
しいことが重なります。お年玉がもらえます。新しい衣服・衣類が買い与え
られます。年一回しか口に入らない豪華なご馳走の正月料理が出ます。着
飾っての年始まわりがあります。頭も身なりもさっぱりとします。大みそか
から正月には、すすはらい、年越しそば除夜の鐘、初詣、門松、鏡餅、鏡
き、初売り、書初め、どんど焼き、羽つき、すごろくなど、いろいろな行事
や遊びがあります。年始回り、大家族(親戚一同)が年一回集まる楽しい行
事もあります。
  前述した「昔のことの話だと分かりところ」のほかに、この物語の中か
ら「じいさまとばあさまが貧乏な生活をしていることが分かる文章部分を探
そう」、「じいさとばあさまとの仲のよが分かる文章部分を探そう」と問い
かけます。
  じいさまとばあさまは極貧かつ無一物の生活をしています。それでも、
底抜けに明るく生活しています。子ども達に貧乏な文章部分を冒頭部分から
探させると「たいそうびんぼうで、その日その日をやっとくらしておりまし
た。」、「お正月さんがござらっしゃるというに、もちこのよういもできん
のう」、「(売るものは)見回したど、なんにもありません。」などをあげ
るでしょう。


           
庶民の見果てぬ夢


  じいさまとばあさまとの仲のよさは、二人の会話や行動から見出せま
す。冒頭部分でいえば、「もちこの用いもできんのう」、「ほんにのう」、
「売るもんでもあればええがのう」、「何にもありゃせんのう」、「かさを
売りにいったら」、「そうしよう」など。
  終末部分で探すと、「もちやごんぼ、にんじんをしょってくるで」と約
束して出かけたのに、じいさまは空手で帰ってきます。それに対してばあさ
まは、いやな顔ひとつしないで「ええことしなすった。さあ、じいさま、い
ろりの当たってくだされ」とあたたかい言葉で迎え入れます。そして二人で
「ひとうすばったら」と、ほほと笑いながら餅をつくあいどりのまねをしま
す。ここには貧乏な生活をしていながら、貧乏を苦と思わず、明るく、力強
く生きている二人の姿を見出すことができます。
  二人の仲のよさについては、彼らの会話「もちの用意もできんのう→ほ
んにのう→売るもんでもあればのう→何もありゃせんのう」と、相手の話し
内容(提案)をすべて最大限に素直に受け入れて、相手に反発するところは
少しもありません。ほんにのう、ほんにのうで語り合いが進行します。じい
さまが「もちやにんじん、ごんぼも買ってくる」と約束して出かけたのに、
空手帰ってきます。それでも、ばあさまは怒ったり、がっかりしたり、非難
したりしません。「さぞ冷たかろうもん、さあ、いろりに当たってくださ
れ」とあたたかい言葉で迎え入れます。
  二人は、貧乏な生活を苦と思わず、貧乏の負荷をゼロにし、貧乏な生活
をそれなりに明るく楽しん暮らしています。ばあさんがあいどりで「ほほ」
と笑うところなどそれが見られます相手の考えや行動をすべて受け入れ、
「ほんにのう」、「そうだね」とお互いに応答してすべてを受け入れるとこ
ろに二人の仲のよさを見出すことができす。そうした語り合い(行動)で二
人の日常生活のリズムと呼吸が身体奥深くまで合致し、浸透しており、これ
が二人の仲のよさの基底となっています。こうした二人の語り合い(行動、
思想)が世の中を生きのびるうえでの安全で有利な方法だという、封建時代
における長年の生活からの知恵として生まれ出たものでしょう。
  結果、善良で無欲な二人は地蔵へのやさしい行為が思いがけず報われる
ということになります。封建時代、民衆はこうしてかなえられない見果てぬ
夢を想像世界にて、明るく生活ていたのでしょう。


            
二つの語り口


  冒頭文の終わりが「ばあさまがありましたと。」、最後尾文が「よいお
正月をむかえることができましたと。」と、「…と」で終わっています。
「…と」は、「…という話だ」とか「…だったとさ」という意味で、典型的
な語り口文体です。昔話の語り口文体「…と」がついた文は、この物語では
冒頭文と最後尾文の二文だけです。ほかはすべて「…ました。」で書かれて
います。
  「かさこじぞう」の「…ました。」文の個所はすべて、三人称客観の視
点で描かれています。語り手は登場人物たちの言動のすべてを外から後ろか
ら対象化して語っています。つまり、語り手や登場人物の目や気持ちがひっ
こんで、語り手が作品世界の外から、後ろからながめて紹介する(差し出
す)だけの語られ方になっています。語手の主観的な気持ちを入れないで、
じいさまとばあさまは、こういうことを話したよ、こういう行動をしたよ
と、事実をそのまま読者の前へポンと差し出す文体の語り口で語っていま
す。
  「かさこじぞう」の冒頭文と最後尾文は、読者を意識し、読者に向かっ
て語りかける口調で読みます。ほかの大部分「…ました。」の個所は、じい
さまとばあさまはこういう会話をして、こういう順序で行動し、結果はこう
なったと、読者の前へ事実(行動の経過)を、主観を入れずに、客観的に差
し出し、淡々と紹介するだけの音声表現にします。


          
会話文はやりとりの感じを

●文章範囲
次の会話文だけを取り出して役割音読をやります。
 「ああ、そのへんまでお正月さんがござらっしゃるというに、もちこの用
いもできんのう。」
 「ほんにのう。」
 「何ぞ、売るもんでもあればええがのう。」
 「ほんに、何にもありゃせんのう。」
 「じいさま、じいさま、かさここさえて、町さ売りに行ったら、もちこ買
えんかのう。」
 「おお おお、それがええ、そうしよう。」
 「帰りには、もちこ買ってくるで。にんじん、ごんぼもしょってくるでの
う。」


●指導のねらいと方法
  はじめの三つの会話文は誰が話したかはっきりしません。じいさまとば
あさま、二人の配役を決めなければ役割音読ができません。しようがありま
せん。役割音読では二人のせりふの数ができるだけ均等にしたいという配慮
から、ば→じ→ば→じ→ば→じ→じ、の順番にしたらどうでしょう。このほ
うがうまくつながるみたいです。
  ここの会話文は、じいさま、ばあさまがお正月の餅の準備について語り
合っています。会話文の音声表現で重要なことは、やりとりしている雰囲気
の感じが音声に出ることです。相手に、ある意図をもって話しかけている口
調、その意図の話しかけ内容に他方がどう応答しているか、応答の雰囲気
(表現意図)が出るしゃべり口調、対話のやりとりしている感じが出るこ重
要です。お互いに相手の話し内容を受け、それに反応し、自分の意見や感想
を言葉にこめて相手に話す、こうしたやりとりしている感じ(しゃべり口
調)が音声に出ることです。
  二人のやり取りの感じが出るように表現できたら、次には一人でニ役を
演じ、自分ひとりでニ役の会話文を読み、やりとりの感じを出して読めるよ
うにします。それもできるようになったら、地の文も入れて自分ひとりで読
むようにします。


          
二つの呼びかけを区別する


  次の会話文は呼びかけです。町の通り(道路)に品物(商品)を並べ、
通行人に向って「いらんかね。買ってください。」と大声で呼びかけていま
す。
 
「ええ、まつはいらんか。おかざりのまつはいらんか。」
 「ええ、かさや かさやあ、かさこはいらんか。」

  二つの会話文とも大きな声での呼びかけです。「じいさまも、声をはり
あげました。」とあります。じいさま「も」声をはりあげ、です。二つとも
「声をはりあげ」です。思い切り大きな声で、力強い声で通行人に呼びかけ
る口調で読ませます。遠慮はいりません。ばかがつくほど大声でやらせるぐ
らいで、ちょうどよいでしょう。
  次の二つの会話文も呼びかけです。じいさまがじぞうさまに向って呼び
かけています。
 「おお、お気のどくにな。さぞ つめたかろうのう。」
 「こっちのじぞうさまは、ほおべたにしみをこさえて。それから、このじ
ぞうさまはどうじゃ。はなからつららを下げてござらっしゃる。」
  呼びかけは呼びかけでも、じいさまのつぶやきとしてのじぞうさまへの
語りかけです。じいさまの独り言であり、つぶやきとしての語りかけ、声か
けです。実際は声に出ていないのかもしれません。無言では会話文の音読に
なりませんので、じいさまのつぶやき声、小さく、低く、じぞうさまへの語
りかけ(声かけ)口調で読みます。
  吹きっさらしの野っ原で雪にうもれる地蔵様に心を痛め、あわれに思う
じいさまのやさしい気持ちが語りかけ口調に感じられるならすばらしい表現
となります。


           
明と暗との変化をつけて

●文章範囲
  「町には大年の市がたっていて、正月買いもんの人で大にぎわいでし
た。」から「ええ、かさや、かさやあ、かさこはいらんか。」まで。この文
章部分を仮に「(1)場面」とします。
  「けれども、だれもふりむいてくれません。しかたなくじいさまは帰る
ことのしました。」から「風が出てきて、ひどいふぶきになりました。」ま
で。この文章部分を仮に「(2)場面」とします。

●指導のねらいと方法
  (1)場面は、町には大年の市がたっていて、正月買い物の人々で賑
わっています。通り(道路)に店を出している人々が正月買い物している
人々に向って「…はいらんかね」、「安いよ、まけとくよ」と呼びかけてい
ます。通り(道路)には元気のいい声があちこちから聞こえています。活気
のある町の通りですから、読み手は明るい声、高い声、元気のいい声で読み
ます。こうして活気ある賑わいある通り場面を読み声で造形するようにしま
す。
  (2)場面は、かさは1こも売れず、じいさんはがっかりしている場面
です。じいさんは背をまるめて暗い気持ちでとんぼりとんぼり村に帰ってい
きます。(1)場面が「明」ならば、(2)場は「暗」です。場面に応じて
音声表現の雰囲気を変化させる必要があります。
  (2)場面の冒頭「けれども」からあとは、「明」から「暗」に変化さ
せて読みます。(1)場面の「明るい声、高い声、元気のよい声」、(2)
場面は、(1)とは逆に「暗い声、低い声、元気のない声」となります。じ
いさまのがっかりした気持ち、気落ちした気持ちをこめて読み、スピードを
落とし、ゆっくりめに読みます。


          
あいどり、かけごえ、うた


 「あいどり」とは「物事を共にすること、共にする人」(広辞苑)です。
この場面でははじいさまが杵で餅をつき、ばあさまがじいさまのリズムに合
わせて餅をこねたりひっくりかえしたり、水をつけたりすることです。じい
さまが「こめのもちこ ひとうすばったら」と言いつつ、杵で餅をつく代わ
りにいろりのふちを手で軽くたたき、ばあさまは「あわのもちこ ひとうす
ばったら」と言いつつ、じいさまのリズムに合せてあいどり(動作)のまね
をしたのです。
  ですから、じいさまの言葉と同じリズムでばあさまの言葉も読まれるべ
きでしょう。二人の言葉は、ただのずらずら読みでなく、節のついた喋り言
葉で音声表現されるべきでしょう。さらに難易度を高めることを求めると
「ばあさまは、ほほとわらって」ですので、ばあさまの喋り方には明るく、
ほほと笑っている声の表情が含まれているならすばらしいです。
  「じょいやさ じょいやさ」は、六人の地蔵がそりをひいて歩いている
ときのかけ声です。そりを六人でひいている力強さとそのリズムが必要で
しょう。
  「六人のじぞうさ かさことってかぶせた じさまのうちはどこだ ば
さまのうちはどこだ」は、「歌っているのでした」と書いてあります。歌だ
からといって、実際に歌にしてうたう必要はありません。楽譜も記述されて
いません。ただずらずらと棒読みにするよりは、軽くリズミカルな調子をつ
けて読むのがいいでしょう。歌という感じが読み声の中にそれちなく出るよ
うにします。六人の地蔵が力を合わせてそりをひいているときの歌ですか
ら、力強い歌にするとよいでしょう。


            
参考資料(1)


 作者・岩崎京子さんは、「かさこじぞう」について次のように書いてい
ます。

  「かさこじぞう(原題笠地蔵)」から推察すると、民衆のほとんどは、
「たいそうびんぼうで、その日、その日を、やっとくらして…」いました。
働いても、働いても楽にならないのに、その労働の上前をはねる村役人がい
ました。更にその上には、村役人を追い使い、召し上げた年貢でのうのうと
暮らす代官領主がいました。民衆にとってみじめで暗い生活であったことを
私たち忘れてはならないと思います。
  民衆はこの暮らしの中から、「笠地蔵」を作りあげました。何とも健気
なひとたちではありませんか。この人たちは「笠地蔵」に何を托したかった
のでしょうか。子や孫に何を伝えたかったのでしょうか。それをよみとって
いきたいものです。
  さて、もうひとつ、民話がもてはやされた大きな原因は、無条件なおも
しろさでした。民話はいろりばたで、おじいさん、おばあさんが語ってきか
せた、口から耳へ、耳から口への文学です。何代も何代もかかってかたりつ
がれる間に、無駄なものはきりすてられていきました。練られ、みがかれた
完璧な構成や展開になっています。つまりほんとうにおもしろい話しにみが
生き残っているといえます。

  私はなぜこの話しをとりあげて再話したかというと、「笠地蔵」が好き
だからです。今でも、好きな民話はときかれると、まず第一番にこの話しを
あげてきました。
  雪にぬれてる地蔵さまを見て、心をいため、笠をかぶせて帰ってきたじ
いさま。自分だって、正月がくるというのに、もちひとつ買えないでいるく
せに、他人の不幸を見すごしのできないあわれみの心をもつじいさまが、私
にはおどろきでした。
  こんな逆境にあるとき、人間は卑くつになったり、無気力になったり、
あるいはうまく立ちまわって、小ずるくなっても当然でしょう。「貧すれば
鈍す」というではありませんか。どうしてこうも朗らかに、おおらかにして
いられるにか、私にはふしぎでした。
  もっとびっくりしたことは、じいさまのすることに文句ひとついわず、
「いいことをすなすった」というばあさまでした。
  私だったらどうでしょう。もし、夫が笠を売っても、もちを買ってきて
くれるどころか、石の地蔵(石ですよ)に、笠をやってきたといったら。
「ああ、いいことをしなすった」というでしょうか。どういたしまして、目
を三角にして、また雪の中に追い出しますね。
  「もちを持ってこなかったら、今夜うちにいれません。」
  じつは、そういう「笠地蔵」もあります。栃木県の「笠地蔵」は、ばあ
さまがじいさまに悪態をつきます。私はこれもリアリズムでいいなあと思い
ました。

  そこで私もひとつ思い出すことがあります。地蔵さまがそりにのせて運
んできたおくりものを、大概の「笠地蔵」は、大判、小判の俵になっていま
すが、私は再話する時、私のほしいものを並べました。米のもち、あわのも
ち、みそだる、おかざりの松なんかでした。

  「笠地蔵」のばあさまも、雪の中に出ていったじいさまの姿がしきりに
目に浮かび、多分もちなんかどうでもいいから、早く帰ってと思ったでしょ
う。私だって、かつてこういう日々があったのに、今はどうでしょう。夫に
悪態をつき、雪に追い出す鬼の女房とは……。
  私は、自分の日常とあまりのも違う「笠地蔵」のばあさまに感心した
り、反省したりしてこの話しを書きました。
  大体ものかきという人種は、自分にないものを作中の主人公に求め、自
分にできないことをさせるようです。
      『国語の授業』(一光社)1977年8月号より抜粋引用


            
参考資料(2)


  作者・岩崎京子さんは、ほかのところで次のようなことも書いていま
す。

  教育出版の教科書を使っている学校に、転校してきた子があった。前の
学校では光村の教科書を使っていたそうだ。その子が、「この『かさじぞ
う』は違っている」というので、先生はその子に前の学校の教科書を持って
来させて、つきあわせてみたら、なんと違うところが五か所もあった。「同
じ作者の、同じ話のはずなのに、どうしてこうなるの?」と、先生にいわ
れ、はじめて私は言われると直ぐその気になる主体性のなさに愕然とした。
なんとか全文統一して決定稿をださなくては……。それを頼みに教科書会社
をまわった。いろいろあって、ちっともうまくいかない。なかには、「統一
するのは賛成です。でも、うちのをもとにして、他社のを直させたら?」と
いわれたこともあった。
  そうだ、原本はポプラ社の「むかしむかし絵本」だから、それを直し
て、それに準じてもらえばいい。
  ところがポプラ社にいわれた。
「うちは商業出版で、教科書とは違うんです。絵本を直す必要はないんじゃ
ないですか。」
  こういうことは時間がかかるものだ。同じ作者の同じ話が違うのはおか
しいことはわかっていると皆思っているのに、ちっとも話が進まない。その
年の改訂には間に合わなかった。ところがだんだん機が熟してきて、ようや
く「原典のまま」の方向に流れてきた。今年度から、他の児童文学者のも統
一されたはずだ。
  つまり文学教育では問題にならないことが、言語の教材となると、こう
いう次第にならざるを得ない。
  大体、児童文学の書き手は、いろいろな問題に出会うと、それを書きな
がら悩み、書いてははじめて解決を見つける。だからもやもやはそのまま文
体に出る。主語行方不明、形容詞のあいまい、すべて書き手の心の状態であ
る。
  そのもやもやを文法的に正しく、きちんとした文に直したら、すっきり
するだろう。通りはよくなる。たて板に水。言語の教材には完璧でも、さっ
と読まれて、何も相手に残さないは……。もやもやのところで読者はひっか
かって考えてくれるのではないだろうか。たとえ悪文で、文法上不備でも、
書き手のもやもやがそのまま出ているような文こそ、文学といえる気がして
くる。文学って、アンチ教育のところで成立しているような気がする。
  正しい日本語にするために、お行儀をよくし、体裁をととのえ……。で
も、その代わりおもしろくもなんともなくなる。これが悪いといっているわ
けではない。教科書のもつ宿命と思う。それをのりこえることが課題だろ
う。
                  『日本児童文学』 1991年9月号より引用



             参考資料(3)


  西郷竹彦(文芸学者)さんは次のように書いています。教材の一つの見
方として参考になります。

  貧しいじいさま、ばあさまの生活は、語り手であり、聞き手である民衆
の生活そのものの反映です。
  このじいさま、ばあさまは、貧しいのに明るく、やさしく思いやりあっ
て生きている、ととらえてはなりません。貧しいからこそ、お互いいたわり
合い、思いやり合っているのです。それが、この民話の思想です。じいさま
や地蔵さまに笠をかぶせる行為は、同情ではありません。同じく厳しい状況
(寒さ)に生きるもの同士の思いやりなのです。
  正月も人並みに迎えられる極貧の百姓が最後には、豊かな贈り物を受け
るという形で語りおさめられます。現実にはおよそありえぬ結末でありなが
ら、そこには語り手であり聞き手である民衆の願いが反映しています。
  この民話でも、それぞれの人物の胸のうちはほとんど語られません。人
物の言っていること、していること(様子という)が具体的に、かつ反復し
て語られています。聞き手、読者は、その反復から、それら人物の思いやり
あう関係、やさしさをしっかりとらえることが出来るのです。
  たとえば、「さぞ、つめたかろう」という言葉が、くりかえされていま
す。じいさまが、地蔵さまにたいして、また、ばあさまが、じいさまに(そ
して、地蔵さまも)たいして、「さぞ、つめたかろう」という科白が反復し
ています。そして、この言葉と見合った行動ももちろんくりかえされていま
す。ここに、これら人物の本質〔思いやり、やさしさ〕が強調されているの
です。
  じいさまが笠を売れずに吹雪の中を帰っていく場面で〈とんぼり とん
ぼり〉というオノマトペが使われています。力なく歩む様子を表現したもの
です。これは、売れなかったから力を落とした,とだけとるべきではありま
せん。むしろ、期待して家で待っているであろうばあさまが「さぞがっかり
するだろう」と思いやることで力を落としているじいさまのやさしさが現れ
ている〈とんぼり とんぼり〉なのです。    
    「小学校 国語教育相談室bP9」光村教育図書より引用
      
          

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