音読授業を創る そのA面とB面と    06・1・25記




 「作家へ質問、感想文を送る」について(2)




                 
はじめに


  児童文学作家たちは、児童達から手紙がくることについてどう思ってい
るのでしょうか。前編(1)においては、お二人(あまんきみこ氏、古田足
日氏)のご見解を紹介しました。それに、わたしの拙い見解も加えさせてい
ただきました。わたしはそこで作家に手紙を書くことが何か悪いことである
みたいに書いたと受けとられたら、それは誤解です。作家たちの多くは読者
から手紙(感想・意見)が来ることを喜んでいる、歓迎しているのですか
ら。

   
先日、日本児童文学別冊「児童文学読本」(1975・1)を開いてい
たら、ほかの児童文学作家たちのご見解が掲載されている文章を目にしまし
た。
  わたしたち教師は国語授業で文学作品をどう読み解き、児童たちに与え
ていけばよいか、児童文学作家たちは教師や児童達に作品をどう読んでほし
いと思っているか、児童文学作家たちは、自分の作品についてどう思ってい
るのか、作家への手紙(感想文)には、どんな内容を書いてほしいと願って
いるのか、などについて参考になる記事が書いてある文章を目にしました。
  その文章の中から学校教師がぜひ知っておいた方がいい、これは参考に
なるぞ、という文章がありましたので、一部を以下に引用させていただきま
す。一部分の抜粋引用であることをお断りしておきます。
 出典は、すべて日本児童文学別冊「児童文学読本」(すばる書房盛光堂
1975・1)によります。やや古い資料ですが、わたしにはたいへんに参
考になりましたので、以下に紹介します。引用後に、わたしの簡単な感想・
コメントを付記しておきました。

  前掲書「児童文学読本」から引用した児童文学作家たちは六人です。六
人の簡単な紹介として、彼らのたくさんの作品の中から三冊だけを記してお
きます。
≪前川康男≫
  「はじめてであうシートン動物記」「鳥怪人探偵になった日」
  「千石船漂流記」
≪寺村輝夫≫
 「ぼくは王さま」の王さまシリーズ。「寺村輝夫童話全集」(全20巻)
  「寺村輝夫のおばけ話・とんち話」
≪斉藤隆介≫
  「ベロ出しチョンマ」「八郎」「モチモチの木」
≪石森延男≫
  「コタンの口笛」「みがきニシン」「ねむの花」
≪まど・みちお≫
  「まど・みちお詩集」「てんぷらぴりぴり」「だいすきまどさん」
≪中川李枝子≫
   「いやいやえん」「ぐりとぐら」「そらいろのたね」



          
前川康男氏のご見解


  私は、いつも小さい読者から手紙を貰うと、どう返事を書いたらいいの
か困ってしまいます。うまく返事が書けなくて困ってしまうのです。
  一体、子どもは、どんな気持ちで、読んだ本の作者に手紙を書くので
しょうか。もちろん物語を読んで面白かった、愉快だった、感動した、その
気持ちを率直に作者に伝えたい、そういう気持ちからだとは思います。面白
くなかったら、手紙なんか書かないでしょうから。疑問やまちがいの指摘の
場合もあると思います。また、何となく、本を書いた作者に手紙を出してみ
たいという子どももいるかもしれません。
  私は、沢山本を出していませんが、読んでくれた子どもから何十通か手
紙を貰いました。十数年前、はじめて読者から手紙を貰った時は、もうそ
れこそゾクゾクして、今まで経験したことがないような、飛びあがらんばか
りのうれしい気分を味わいました。たしかに自分の作品を子どもが読んでく
れた、わざわざ感想を寄せてくれたという喜びです。一生縣命、長いお礼の
手紙を書きました。
  ところが、その後、何通か子どもの手紙を貰っているうち、うれしい気
持ちと同時に、何となく奇妙な、おそろしいような感じがしてきました。お
そろしいというと大げさですが、とまどうような感じです。というのは、私
の場合、ほとんどの手紙が、「面白かったよ」「これからも頑張って面白い
本を書いてね」式のもので、どこがどう面白かったのか、どこがどう面白
くなかったのか、気に入らなかったのか、あるいは、主人公の生き方や気持
ちについての突っ込んだ批判を書いた手紙はほとんどありませんでした。も
し、誤りや物語の欠陥を指摘されたのでしたら、申しわけありませんとか、
実はあれはこんなわけでと弁解を書けるのですが、「面白かったよ」という
手紙には、「はい、ありがとう」と書くしか、ほかにどうも書きようがあり
ません。
  とまどう気持ちというのは、果たして本当に面白いと思ってくれたのだ
ろうか、小さい読者の胸の中に、ごくごく小さい波紋でも起こし得たのだろ
うかという不安です。童話とか、子どもの小説というものは、大人の小説と
ちがって、読者が遠い感じがします。非常に身近かなようで、年齢の感じが
遠い感じにさせます。読者の反響というものが、おとなの小説のように直接
的ではありません。
  子どもから手紙を貰った時は、その遠いと思っていた距離が一瞬消えて
しまったような気がするのですが、手紙の文面を読むと、やはり遠いなあと
いう気持ちが戻ってきてしまうのです。そんなところが、とまどいの気持ち
というやつなのです。
  子どもの文学の場合、読者と作者の距離が、遠い感じがして、奇妙な不
安におそわれるのです。子どもが物語を読んで感じたことを、くわしく、
そっくりそのまま知ることができにくい遠さ。子どもはいくら年齢が小さく
て、子どもなりの批判をしているはずですが、その批判をはっきり聞き出す
ことは難しい、そういう遠さを感じます。夜間飛行をしているような気持ち
です。

≪荒木の感想≫
  前川さんが次のように書いていることが、教師の読書感想文指導にたい
へん参考になります。
 【ほとんどの手紙が、「面白かったよ」「これからも頑張って面白い
  本を書いてね」式のもので、どこがどう面白かったのか、どこがど
  う面白くなかったのか、気に入らなかったのか、あるいは、主人公の
  生き方や気持ちについての突っ込んだ批判を書いた手紙はほとんどあ
  りませんでした。もし、誤りや物語の欠陥を指摘されたのでしたら、
  申しわけありませんとか、実はあれはこんなわけでと弁解を書けるの
  ですが、「面白かったよ」という手紙には、「はい、ありがとう」と
  書くしか、ほかにどうも書きようがありません。】
前川さんは、子どもの手紙の場合、読者と作家の距離が遠い感じがする・
奇妙な不安におそわれる、とも書いています。
  これは、子どもは言語表現力が未熟で、そのつたなさがすべて「面白
かったよ」のひとことで括ってしまう表現になるからだろうと思われま
す。子どもなりの感想・受け取りを細かに聞き出す指導・くわしく書き表
す指導・その手立て与えの指導が教師に必要なことが分ります。



          
寺村輝夫さんのご見


  まったく私にとって、子どもからの手紙ほど困るものはありません。と
くに私は、幼児童話の作品がほとんどで、手紙の書ける読者は五歳〜八歳ぐ
らいが大部分です。六歳の子どもから、
「どういうわけで、しゃぼんだまのみがなるのですか?」(名古屋市、なか
がわ・みのる)などと聞かれると、もう答えようがないのです。
「川にすてた宝石が、ぎゃくに流れるなんて、おかしいと思います」(葛飾
区、川のゆみ)
------そう、たしかにおかしい。作者もおかしいと思ったから書いたので、
もしあなたが川にささ舟をうかべても、けっしてぎゃくには流れません。で
も、流れたらゆかいだななどと考えたことはありませんか。科学的にいった
ら絶対にまちがってはいることではあるけれど、一応科学を否定してみる
と、その裏側に意外な真実があるはずなのです。------
という「作者の意図」は、子どもへの返事にはならないのです。
「王さまが、めんどりに、ひみつなことをしゃべったら、めんどりがうんだ
たまごが、そのことばを、おぼえていたんですね。めんどりのおなかにテー
プレコーダーが、はいっているんですか、おしえてください」(国分寺市、
とみた・ゆずる)
  こうなると作者はきりきりまいです。----
そうかもしれないね。超小型高性能直径1ミクロンの不可視物体”テレコー
ド”が地球上のあらゆる生物の染色体に移植され、その親が秘密として発言
できなかったコトバを録音し、新しい生命に遺伝するのです。----
とたんに、おもしろくもおかしくもならなくなります。
ーーそうではありません。テーピレコーダーが録音するなどと、それは”常
識”というもの。どうも、現代は常識の毒されていて、その核の中に逃げ込
もうという人間が多すぎます。常識とは何ですか。勝手に誰かが言い出し
て、それを信じさせ、現代の道徳にまで高めようとしている。すくなくと
も、きみたち幼児は、常識にとらわれてはいけませんよ。そんなもの、クソ
くらえ!
  一日じゅう卵焼きばかり食べてる王さまがいたっていいじゃないか。国
をおさめない王さまがいたって、ふしぎじゃないよ。うそはだれだってつく
ぜ。だいたい、今の世の中なんて、うそつきが支配してるじゃないか。うそ
はいけない、とおしえている大人が、うそをつくっていうのは、どういうこ
となんだ。うその中に真実があるのか、いや真実といいふらされているもの
の中に、うそがあるんだ。だから、川に落とした宝石箱が、逆に流れる方が
真実なんだよ。ここのところを、よおく考えて、おじさんの作品を読んでほ
しいな、たのむよ。
  まったく子どもからの手紙ほど心を痛めるものはありません。子どもの
疑問に子どものことばで答え、子どもの好意に応えるのは、さらに作品を書
くこと意外に方法はないのです。

≪荒木の感想≫
  寺村輝夫さんの作品は、子どもたちの日常生活というリアルズムからか
け離れた、奇想天外なお話が多いです。現実には起こりえない話をおもしろ
く、おかしく書いている作品が多くあります。
  寺村さんが子どもたちの手紙内容を紹介しているように、子ども達から
寺村さんへの手紙内容は大体が予想できます。でも、子どもたちはそのお話
をたいへんに喜んで、からだごとで喜びをあらわして寺村さんの作品を読ん
でいるのです。文学作品に難しい理屈は必要ないのです。子どもたちは、た
だ面白いから、ひたすら熱心に、のめりこんで、時間の経過を忘れて、読む
だけです。
  ただ面白いから読む、それでいいじゃないですか。寺村様、そんなに気
にかける必要はないと、わたしは思います。
  寺村輝夫さん、そんなに弁解しなくてもいいのよー、と言いたいです。
寺村輝夫さんは最後に、こう書いています。
 【まったく子どもからの手紙ほど心を痛めるものはありません。子ど
  もの疑問に子どものことばで答え、子どもの好意に応えるのは、さ
  らに作品を書くこと意外に方法はないのです。】
 寺村さんが書いている通りです。これからも子どもたちがお腹を抱えて
喜ぶ面白いお話をたくさん書いてください。



         
斉藤隆介氏のご見解


  内村恭平君、ぼくの短編集「ベロ出しチョンマ」を読んでくれたそう
で、どうもありがとう。
  君は、作者というものに手紙を書いたのは初めてだそうで、それが良い
ことか、悪いことかって聞いているけど、ぼくは良いことだって思う。
  作者は、君たち少年少女がこう読んでくれてるんだなあってわかって、
次のものを書く時の勉強になるからさ。
  ぼくは、今まで作者に手紙を書いたことがないんだ。まず、勇気がな
かったんだ。
  それから、「作者に説明を聞いたってしようがないや、作者が言いたい
ことはその童話にみんな書いてある。みんな書けないような作者の説明なん
か聞いたってしようがないや」−−こう思っちゃったんだね。
  ちょっとなまいきだね。だけどね、自分ひとりで二度、三度読んでく
と、だんだんわかってくることもあるんだ。そのときはうれしかったぜ。
  ニ度も三度も読むきのしないような本は、「たいした本じゃないや」っ
て別の本を読むことにしてたんだ。

  でも、君は勇気があって、作者に手紙を書いて質問してくれたんだから
答えます。
  表紙に、「父母へおくる童話集」って書いてあるのは、ぼくは、自分の
童話をおとなにも読んでもらいたいからなんだ。
  おとなはね、だんだん年をとるとね、世の中に負けてしまうことがある
んだ。汚れたり、負けちまいそうなおとなが、ぼくの童話を読んで元気に
なってほしい、と思ったんだよ。
  「お子様用」に書いたおはなし、なんて、ニセ物だ、ってぼくは思うん
だ。「お子様ランチ」なんて、みみっちくてうまかあないやね。子どもだっ
て、おとなとおんなじおすしや、ちゃんとしたチャーハンを食べたいやね。

  題にした「ベロ出しチョンマ」の主人公、長松の住んでいた花和村とい
う村は、いくら千葉県の地図を見てもありません。まつった木本神社という
ものもありません。そういう名の人形も売っていませんから、送ってあげら
れませんよ。お金は返します。
  あれは、ぼくが作った話だからです。……(略)……ないことが、まる
であったように思えたら、ほんとにあったことよりももっとほんとなんじゃ
ないかしら。
  あれは、ぼくが四年まえに千葉へ越してきた時、みんなのためにハリツ
ケになって殺された佐倉宗五郎とその子どものことを考えて作ったんだ。
  佐倉宗五郎も、架空の人物である、なんて研究を発表している学者もあ
るんだよ。それでも宗五郎は、今でも「宗五様」って呼ばれて、物語になっ
たり芝居になったりしてみんなの胸にほんとの人よりほんとに生きてる。
  なぜそうだろうか君も考えてくれないか。

  あの短編集の最初にのっている「八郎」は、なぜ読みにくい秋田弁で書
いたのか、って質問だけど、ぼくは、秋田弁っていうのは詩みたいに美しい
ことばだなあ、って思ったからだ。
  ぼくは学校を出ておとなになるまで東京で育ったんだけど、東京は「ふ
るさと」って感じがしないんだよ。
  東京でも下町は少し違うけど、ぼくの育った山の手なんて、子どもは
「よい子」お母さんは「オホホホ」の「ざあます奥様」で、ぼくはそんな暮
らしがうそっぱちに思えて、いやでいやで仕方がなかったんだ。それで秋田
へ行って十一年も暮らしてしまったんだ。秋田はよかったぜえ。
  日本全体にわかってもらえる共通語もひつようだけど、その土地土地の
ことばや、その中にあるほんとの暮らしの感じをもっと大切にしなくちゃい
けないと思うんだ。
  
  一緒に読んだ伊藤君がね、「八郎の髪の中に住んだ小鳥が、ピチピチチ
イチイチュクチュクカッコーって鳴いた所がおもしろい」って言って、その
鳴きまねをしておもしろがってるのを、君は「ダメだ」って言ってるけど、
そうかしら。
  君の言う通り、「八郎が村人のために高波を防いで八郎潟に沈んだこと
が大切だ」っていうのは確かにほんとうだ。
  だけどね、ただそれだけじゃ「お修身」だぜ。小鳥の鳴き声が美しいと
思い、その小鳥を髪の中に住まわせてやって朝もソーッと起きる八郎をやさ
しい大男だなあ、と感じ、その八郎がみんなのために死ぬからグッとくるん
だよ。
  「お修身」や「道徳」でなく、美しさや喜びを感じて、魂の底からほん
とうにみんなために働いたり、たたかったりできるようになるのが、ぼくは
ほんとだと思うんだ。
小鳥の鳴きまねをしている伊藤君にも、どうかよろしく言ってくれたまえ。

≪荒木の感想≫
  斉藤隆介さんは、冒頭で、「ぼくには勇気がなかった。ぼくの童話を読
んで元気になってほしい。」と書いています。斉藤隆介さんが作品の中で一
貫して追求してきたテーマが、勇気とか元気とか献身とかですよね。文学作
品の中に、そういう語いは使いませんが、おお、手紙の文章にははっきりと
テーマを書いているぞ、本音を出しているぞと、わたしは何かを発見した気
持ちになり、嬉しくなりました。
  物語を読む意義は、「ほんとにあったことより、もっとほんとに思える
のが物語というものです。作品の中の人物は、ほんと(現実)の人物より
も、ずっとずっと心の奥深くに長期間にわたって生き続けるものです」とい
うお話の趣旨、よく分かります。
  うその話が、ほんとの話より、ずっと心の奥深くにいつまでも印象深く
残る、それだから人々は物語・小説が大好きなんだよね。
  わたしは「ベロ出しチョンマ(長松だったなか)」というおもちゃの現
物を見せてもらったことがあります。胸を突くと、ベロがぐっと出てくる人
形です。これは斉藤隆介さんのお話が有名になりすぎて、あとになって制作
され、売り出されたおもちゃだったんですね。
  斉藤隆介さんが、秋田弁は詩みたいに美しい、と書いていますね。方言
のことで、わたしは思い出すことがあります。わたしが東北の田舎から出て
きて、初めて神奈川県川崎市にある日吉小学校へ新卒で勤務したとき、そこ
の教頭先生であられた筒井喜代蔵先生から「東北弁は、汚ない言葉だ。教
室の中で担任教師が東北弁を使うと、子どもたちが東北弁を覚えて、汚い東
北弁で話すようになる。教室では、東北弁を使わないように。」というご指
導を受けたことがあります。
  新卒で勤務したばかりの新米教師が教頭先生に、しらふで、その場で直
接には文句は言えませんでした。が、新旧職員と全職員参加の歓送迎会にお
ける、わたしの着任挨拶の中で、斉藤隆介さんと同じような文句の言葉を申
し上げたことがあります。方言は、日本古来からの各地方人たちの生活の知
恵や美しい魂が身体化・信号化されている精神的血液としての言葉である。
各地方人たちの慈愛や人情や思いやりや温情がこもっている気品のある美し
い言葉である。けっして「汚い言葉」でないことをどうか知ってほしいと。
斉藤隆介さんの文章を読み、そのことを思い出しました。
  文学作品を、「修身」や「道徳」として教えるのでなく、「文学」とし
て教えること、とっても重要なことです。しかし、今のすさんだ、ただれ
た、頽廃した日本文化の中にあって「今の学校教育に道徳教育がもっと必要
だ。失われた日本の伝統文化を回復せよ。過去の日本にはすばらしい道徳文
化があった。今の学校教育には道徳教育がたりない、欠けている。もっと道
徳教育を重視せよ」と主張する大きな声にかき消され、安易な「修身の道徳
教育」が跋扈しつつあることはとても残念なことです。そのほうが安直に指
導できるし、世間うけがするし、分りやすいからです。



          
石森延男氏のご見解


 
 わたしの書いた作品は、今までに三十冊ほどになりますが、子どもたち
からいちばんたくさん手紙をもらったのは、「コタンの口笛」です。
  そのもらった手紙をスクラップブックに、はりつけてありますが、それ
がもう十四、五冊にもなってしまいました。いまでも、ときどき手紙をもら
うので、まだふえるのではないかと思います。
  手紙を送ってくれるのは、多くは、中学生です。それから小学生、とき
には高校生といった順になります。はがきがほとんどですが、封書もかなり
あります。
  書かれてあることがらの大半は、アイヌ種族についてであって、もっと
よく知りたいとか、どんな書物を読めばわかるかとか、北海道の風景が美し
いと思ったとか、今でも、アイヌ人は、和人からいじめられているかとか、
わたしたち和人は、もっとアイヌ人たちを理解しなければならないとか、−
−いかにも子どもらしい率直な感想が述べられています。
  わたしは、子どもから手紙をもらったときは、その返事を書いてだすこ
とにしています。いちども会ったことのない、見知らぬ子どもですが、あの
長い物語をよく読みとおしたものだ、その上、よくも感想などを書いて送っ
てくれたものだと考えると、ついその返事を書いてしまうのです。
  わたしのやった返事を読んで、また手紙を書いてよこす子どもも、たま
にはいますが、もうそれきりになってしまうのが、ほとんどです。

  「コタンの口笛」がだんだんひろく読まれはじめたとき、いち早く映画
化しようとする動きがありました。わたしは、「コタンの口笛」は、なんと
しても映画にするのはお断りしようと思いました。その理由は、この物語に
出てくる登場人物すべてが、わたしの心の中で育てたのです。五十人ばかり
の人物があらわれてきますが、そのひとりひとりに対する顔つきから動作の
癖から、声や、服装、その背景にいたるまで、わたし自身の中にぴったりと
調和したものなのです。
  書きづつけているうちに、それら人物がしだいに生長して来て、息づい
てきて、もはやただの他人ではないようになってしまいました。それぞれに
独立して存在する人間の群像が、わたしの胸中にできあがってしまったので
す。
  ときには、あまりこみいってくると、人物同士の関係や会話や環境がい
りまじってしまいます。それでは、はっきりとした場面が書けないので、人
物を絵に描いて、それを切り抜いて、机上に並べて、それを見ながら文章を
書き進めたこともありました。このようにして文章に仕上げた懐かしさとた
のしみが、わたしなりにかけがえのない心象となり、胸に抱いていたわけで
す。
  それを映画にされては、もともこもなくなってしまう。文学はあくま
で、文字を通して味わうべきものであって、映像などによって、いきなり外
部から人物や風景が押し付けられては困る。そう考えていました。


≪荒木の感想≫
  子ども達からの「コタンの口笛」の感想文の中味は、アイヌ種族につい
ての質問・疑問が多かったみたいですね。質問・疑問を感想文に書く、そう
したことも感想文の内容の一つになるわけです。これは、文学作品から総合
学習がスタートする題材の一例ですね。
○アイヌ人を、もっとよく知りたい。
○どんな本を読めば分るか。
○アイヌ人は、いまも和人にいじめられているか。
ほか
○北海道の風景が美しく描かれている。
○もっと、アイヌ人を理解しなければ、に気づいた。
  石森延男さんは、映画化を望んでいない、と書いています。作者と登場
人物たちは、一心同体で、切ったら血が出るように離れられない情況にある
ということがよく分かりました。映画になったら、題名は同じでも、全くと
いってよいほど違った内容の作品、別の作品になってしまいますものね。思
い入れの深さがよく分りました。 
 


        
まどみちお氏のご見解


  私に来た詩集「てんぷらぴりぴり」の読後感も二歳の幼児から八十歳の
おばあさんに及んだ。とはいっても勿論児童文学関係の大人が大半で、ここ
で問題にする小学生以下の子どもは十名にすぎなかった。その十名の声もた
だ好きな作品をあげたのみで、殆んどがその好きな理由も不明。逆に嫌いな
作については何の意思表示もないという不備なものだ。だがその自発性は信
頼してよいふしもあるので一応これをもとに好評作の表を作ってみよう。

  学齢期前の子どもたちの支持作五編を調べてみると、その中の四編は擬
音を生かした作である。詩集全体で擬音使用の作品は五編だが、その中の四
編を彼らは選んでいるのだ。しかも彼らが選んだ残りの一編は擬音こそ使っ
ていないが、「遊んでいるようで、働いているようで」というような「よう
で」の繰り返しが十二回も耳にひびく作品なのだ。
  予期されたことだがこれらのことは、幼い子どもたちがことばをひびき
として捉え、審美的にするどくこれに感応することを物語っている。あの幼
い心のまん中に、ひびきの流れそのものと、まばらにきらめくことばの意味
とが構築するイメージとは一体どのようなものなのか。
  とまれ彼らがこのように「ひびきの快感」として詩を享受するのは、年
齢なみのすばらしい受けとり方に違いない。そしてそのイメージは、彼らが
新たにこれらの詩を読み返すたびに繰り返し修正されていくだろう。それは
長期的には、幼年なみから少年なみへ、少年なみから青年なみ大人なみへと
だ。詩は一度きりでなく、繰り返し読まるべきものだし、それに堪えうる泉
でなくてはならない。
  ここに教室に張り出された「てんぷらぴりぴり」の詩の前で小学四年生
たちが取り交わした会話のメモがある。(「ぺんぎん」16号)
「てんぷらあげる時、ぴりぴりっていうのかな」「魚がぴりぴりって小さく
なるからな」「でもなんだか読んでいると、ぴりぴりいっているような感じ
になる」「においもしてくるみたい」「おばあさんやおかあさんや子どもた
ち仲がいいみたいね」「みんなおたがいに懐かしがっているみたい」「おと
なが書いたのに子どもが書いたように感じるわね」「調子がついていて歌っ
ているみたい」
  この四年生たちの詩の受け取り方は、幼年なみの「ひびきの快感」の上
に的確鮮明なイメージを造型して申し分なく少年なみになっている。
  今ここに小学四年生の女児のことばがある。この詩集の中の「シマウ
マ」についだが「てせいのおりにはいっている」というだけの詩では意味不
明として、「シマウマはいつもシマがある。手製のおりにはいっているよう
だ」とした方がよく解ると思う、というのだ。詩的省略に当面して困惑して
いる。年齢が進むにつれて子どもたちは詩に対して、「感じる代わりに説明
を求める」ようになる。ことばの価値をその意味にのみ認めようとする日常
会話の生活に習熟してくるからだ。
  六年男児が「クジャク」の詩について、「まわりにまいてすてた宝石を
見てください」の「宝石」のところが強く心にに残りました。ぼくなら「き
れいなもよう」と書いたかも知れません。という手紙をくれた。前の四年女
児の困惑は、つねにこの六年男児の驚きと喜びへの道に繋がる。そして困惑
が大きいほど喜びも大きいのだ。
  中学三年の女児がこの詩集では「地球の用事」がいちばん面白かったと
いった。これはおとなの支持が多い詩だが、少女が特に面白いのはどういう
訳かと理由を聞くと、今学校で地球の引力のことを習っているからだと答え
た。ニュートン以来万有引力の存在を知らぬものはないが、では何が故にそ
れは存在するのだろう。その「存在の不思議さ」に彼女が気づいてくれたの
ならこの詩の理解は大人なみなのだが……。

≪荒木の感想≫
  感想文の内容には、その作品が、なぜ好きか、なぜ嫌いか、その理由を
書く、これが、一つの内容としてあることが分りました。
  学齢期前の子どもたちだけでなく、小学校低学年、中学年の児童たち
も、擬音を生かした詩、同じ繰り返し言葉が重なって何度も出現する詩がと
っても好きです。単純な言葉の繰り返しで、言葉調子の響きが快いリズムを
きざむ、口当たりのよい快感を感じるからなのでしょうか。
  まどみちおさんは、これについて「幼い子どもたちがことばをひびきと
して捉え、審美的にするどくこれに感応する」「ひびきの流れそのものと、
まばらにきらめくことばの意味とが構築するイメージ」「ひびきの快感とし
て詩を享受する」と理論づけています。なるほど、そうだ、全くその通りだ
と思いました。
  「てんぷらぴりぴり」についての小学四年生の子どもたちの反応は、自
由な思考で飛翔している想像力豊かで、屈託のない、素直な反応の言葉を語
っていて、ほほえましいと思いました。常識で凝り固まった、ステレオタイ
プの思考でないところが、すばらしいです。
  まどみちおさんは《年齢が進むにつれて子どもたちは詩に対して、「感
じる代わりに説明を求める」ようになる。ことばの価値をその意味にのみ認
めようとする日常会話の生活に習熟してくるからだ。》と書いています。こ
れは、詩人的感性によるするどい指摘で、全くその通りだと感心しました。
  やはり、小学校四年生あたりから、理屈で筋道をつけて考える・説明を
つけて意味を考えるようになる、飼い慣らされた伝統思考に汚染されて考え
始める、という事実は、フランスの心理学者・ピアジェも同じようなことを
指摘しています。子どもの発達段階からいって、全くその通りだと思いま
す。
  六年生になると、ぼくならこういう言葉で表現すると、代替の言葉を見
出すようになるという気づきも、詩人的感性による鋭い本質直観の指摘で、
教えられました。


         
 中川李枝子氏のご見解


  1年一組のみなさま
  お手紙を、どうもありがとうございました。いっぺんに三十通もいただ
 いたのは、生まれてはじめてです。私がどんなにびっくりしたか、そうぞ
 うしてください。
  ふうをきるときは、むねがドキドキしました。
  お手紙、とてもおもしろくて、たのしくて二度ずつよみました。ですか
 ら、ぜんぶで六十かい、よんだことになります。すごいでしょう。
  お手紙をよみながら 一年生はたいしたものだと かんしんしました。
  なにしろ 私は十五年間も ほいくえんにおりますので 一年生がりっ
 ぱにみえてしかたがありません。
  こどもたちは どんどん大きくなって 小学校・中学校・高校とすすん
 でいくのに 私だけは いつになっても ほいくえんです。
  このまえ、小さい子が とても気のどくそうに、
「どうして学校へいれてもらえないの。ずーっとほいくえんでかわいそう
 ね。」
 といってくれました。
  その子は 私が三歳のときから ここにいるとおもったのでしょう。
「あら、私もちゃんと学校へいって べんきょうしたのよ」
 といったら、その子は目をまるくして、
「よかったね。−−」
 と あんしんしてくれました。
  ほいくえんの子も たまに 手紙をくれます。
「いいもの あげようか………なにか、わかる? テのついたもの………テ
 マミだよ。ぼくが かいたの。」
  なんていいながら かばんから かみきれをだしてくれます。
  ところが よむのがたいへん。
  だって、字が左から右へかいたり、上から下へかいたかと思うと、つぎ
 は 下から上へいく………というぐあいで、とびとびになることもあり、
 まるで 字のこびとが空中サーカスをしているみたいです。
  それが 一年生になると このとおり。
  こんなにきちんと手紙をかくのですから 学校ってすばらしいところで
 すね。
  学校の先生は、まほうのつえを もっていらっしゃるのでしょうか。
  先生が「いやいやえん」をよんでくださったそうで、私は ちょっと 
 はずかしくなりました。
  アア、つまらないーーと、そっぽをむかれませんでしたか。へんな
 話ーーと きらわれませんでしたか。
  あくびがでて こまった人はいませんでしたか。
  でも、お手紙で 三十人がいっぺんにゲラゲラわらったときいて、すこ
 し あんしんしました。
  私は あの話をいっしょうけんめい、大まじめでかきました。
  しっぱいすると、けしゴムでけしてかきなおします。それでもうまくい
かないと、えんぴつのうえから赤えんぴつでかき、それも気にくわないと 
クシャクシャにまるめて 紙くずかごにほうりこみ、もう一度はじめからか
きなおします。
  あまり 何度もかきなおすと、そまいには自分がバカじゃないかと い
 やになってきます。
  みなさんのように いっぺんで すらすらかけたら どんなによいで
 しょう。
  チューリップほいくえんは私の理想です。
  クローバーやレンゲのさく原っぱにポツンとたっている小さなほいくえ
 ん、原っぱじゅうが あそびばで ちかくに小川がながれ、森や林があっ
 て、山もあります。
  こどもたちは 木のあいだで かくれんぼをやり 草の上ですもうをと
 り、おにごっこをします。
  おてんきのよい日は、そとでおべんとうをたべ、気のむくままにさんぽ
 をし、うたったり、おどったり、たんけんしたりします。
  こうして、毎日、毎日、おひさまのしたであそびくらせたら、どんなに
 すばらしいでしょう。
  チューリップほいくえんとは、そういう ほいくえんなのです。
  それから「いやいやえん」のようなのも ひとつぐらいあってもよいで
 しょう。
  だれでも たまには ものすごくわるい子になってみたいですもの。
  みなさんは、「いやいや学校」へいってみたいと思いませんか。
  さて、お手紙に、かなしいお話と、 こわいお話がだいすきとありまし
 た。私もすきです。
  つぎは、どうなるかしらと、ハラハラするのがたのしみで………。

≪荒木の感想≫
  中川李枝子さんって、なんて童話風なあたまの構造の持ち主なのでしょ
う。中川李枝子さんの文章を読んでいると、わたしはいつのまにか童話の世
界の中に引き込まされてしまっています。中川李枝子さんのあたまの中には
可愛らしい童話の小人が幾人も住んでいるみたいで、その世界の中にいつの
まにか拉致されてしまっている自分に気づきます。
  中川李枝子さんがこの文章を書いた当時(1975・1)、中川さんは保育
園に勤務していたとあります。荒木が注目したのは、中川さんが書いている
保育園児の書字実態についてです。
  保育園児は、文字を右から書いたり、左から書いたり、上から書いたか
と思うと、下から書き、とびとびに書いたりと、文字の小人が空中サーカス
をしているみたい、と書いています。こういう書字実態があることに荒木は
新鮮な知見を得て、驚きを覚えました。
  保育園児たちは、多分、鉛筆の持ち方もでたらめなのでしょう。腹ばい
になって書いたりと姿勢もでたらめでしょう。鉛筆で書いた線の方向や長短
や強弱もいろいろと変化に富んでいることでしょう。鉛筆の線はくにゃく
にゃ、へなへなで、みみずがはったような、遠くへとんだりダンスをしたり
しているであろうような線描であることは容易に想像できます。
  中川李枝子さんも書いているとおり、それが小学校一年生になると、夏
休みには絵日記が上手に書けるまでに成長するのです。作家に手紙を出すほ
どにもなるのです。その発達の速さには驚かされてしまいます。
  荒木が、なぜ、こうした保育園児の書字実態に注目したかというと、わ
たしは今、一年生入門期の国語学習「もじのおけいこ」「ことばのおけい
こ」を主題とした入門期国語の学習作業帳・コピー資料集を、出版社の依頼
で作成しており、それの原稿書きのまっ最中だからです。
  一年生の現行国語教科書は、その場その場でのつまみぐいで、あれこれ
と内容の一部分を教えていけばやがていつかは身についていくものだ、出た
とこ勝負の内容配列、非体系的な指導内容の配列になっています。
  これではいけません。わたしが今、作成中のワークシートは、入学した
ばかりの児童たちが生き生きと、楽しく取り組めて、すらすらと書き込め
る、体系的科学的な指導内容の配列にしよう、それの原稿化に真っ最中だか
らです。イラスト豊富、見て楽しく、短い時間で無理なくできるコピー資料
集を作ろうとがんばっている最中です。

  中川李枝子さんが書いている保育園児の書字実態の報告がとても参考に
なりました。中川李枝子さんが書いている書字実態から、ここから小学校一
年生の入門期国語の指導を開始しなければならないことは当然です。
  鉛筆の選び方や持ち方、鉛筆の運筆の仕方と効果的な練習方法、正しい
姿勢、清音の読み・書き、長音表記の仕方、拗音表記の仕方、拗長音表記の
仕方、助詞は・を・へ表記指導、上位概念と下位概念や同じ音節数の言葉な
どの語い指導、これらを体系的、科学的な題材配列にして指導していくこと
が必要なのです。
  中川李枝子さんが書いている保育園児の書字実態から出発して、小学校
の入門期国語の指導手順を計画し、ここからふくらませて指導の内容配列を
していかなければなりません。

 この書籍の書名は、荒木茂監修

「はじめてのこくご」5分間練習プリント(民衆社、CD−ROM付き)
 1400円+税
です06年4月10日に発刊されました。



             
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