児童文化についてのエッセイ 08・06・18記 明治期の小学校の風景 ☆本稿は、明治時代の素読・暗誦の教育を調べていく中で副産物として生 まれた文章です☆ 明治5年に新学制が発布された。江戸時代の寺子屋や漢学塾とは異なる 新しい学校体制が明治政府の施策として着々とすすめられていった。教員を 養成する師範学校も各県に作られた。明治19年の小学校令では保護者に 「就学セシムルノ義務」を負わせ、授業料を徴収し、教科書は検定制度と なった。 一方、明治時代になっても、江戸時代の漢籍の素読教授は民間の教育機 関においてさかんに行われていた。小学校の放課後、子ども達は漢学塾へ 通うこともさかんに行われていた。家庭内で祖父や父から漢籍の素読を受け た子供達もいた。そうした素読教授が明治期になってからもずっと続いてい た。 また、明治になってからも連綿と続いていた寺子屋にも子ども達はさか んに通っていた。新学制によってできた公立小学校の教育内容はいささか日 常生活の実用とはかけ離れた欧米の翻訳物が多かった。それで寺子屋の「読 み書きそろばん」という実用教育は重宝され、一般民衆に歓迎された。 本稿では、明治期に子ども時代を過ごした英傑たちの自伝・自叙伝の中 から小学校の勉強のこと、小学校の生活や学習内容のことを書いている文章 部分だけを選んで、以下に引用している。これらを読むことで、彼等の小学 校生活が実際どのようであったかを知ることができる。 さて、平成の世である現在の小学校の様子と、明治の世における小学校 の様子と、どこが違っているでしょうか、そんな期待を持ってお読みいただ けるとありがたい。 下記は、松村直行『童謡・唱歌でたどる音楽教科書のあゆみ』(和泉書院、2011)かなの引用である。 明治五年(1872)九月には師範学校が東京に設置されて、設置初年度の学 生募集に志願者は三百人を超え、明治六年には師範学校付属小学校も設置さ れて、全国各地の教員を参観させるなど、「学制」の実質的な準備はこの師 範学校と付属小学校を中心に推進されるyうになった。次いで大阪、宮城、 長崎、愛知、新潟に師範学校の設置が続き、明治八年(1875)五月にはわが 国最初の官立の女子師範学校が発足するに至り、それに伴って東京女子師範 学校をはじめ、大阪府、鹿児島県そして全国各地にと、幼稚園・保母養成の 必要性から保育練習科も設置され、幼稚園設置へと学令未満児童の教育が輪 を広げていった。 明治六年(1873)から八年の間に全国各地に師範学校の設置が続き、寺子 屋がそのまま小学校として発足して、その教員は寺子屋の師匠が当たってい るところもあったが、不足する教員の補充には、講習を実施してその受講者 に資格を与えて教員とした場合もあった。また教員は徴兵制度からはずして、 子どもの教育に専念される配慮もした。その恩恵を受けて、古くから続く家 業に携わる者や、田舎の篤志家などの中には、自分の子どもに召集令状を回 避させて自分のあとを継がせるために、子どもを師範学校へ進学させて教師 にした場合も多かった。 学制発布時の学校の建物と設立状況 【坪内逍遥十一歳】(明治2年) 「明治初年頃には、教育制度の不備な時代であったから、都会でも寺子 屋組織は弛廃し、さうして新教育制度はまだ成立たないという時代であっ た。尾張が藩でなくなって、名古屋県が新学令によって、先ず旧藩の明倫堂 といふ皇漢学本位、撃剣本位の中等教育機関を廃して、寺院や旧学館等を仮 に小学校に当てて、新時代の教育に着手したのは、明治四年七月以後のこと であったからでる。 それが出来るまでの初等教育機関は、不備を極めた旧寺小屋の残骸の 外にはなかった。」 坪内雄蔵『逍遥選集 第十二巻』(第一書房、昭52)より 【片山潜十四歳】(明治5年) 山之上の漢学校への通学はホンの一時であった。間もなく小学校なるも のが設立された。誕生寺の一建物を利用して成立小学校という名の下に設け られ数か村の子弟を収容して教育した。予は年齢からいうともはや小学校の 生徒となるべき者ではない。また家でも農事を手伝わせねばならないから何 時までも学校へは遣れないというし、予も学問はサッパリおもしろくない 却って苦しみであるから別に望みもしなかった。しかるに巡回指導(今の視 学官)がわざわざ予の家に来て羽出木から一人も生徒がないというては政府 向きが悪いから、ぜひ出してくれと頼まれた。 それゆえ予は小学校の生徒となった。十四、五の少年が小学校の一年生 となって糸、犬、猫と単語を習うたものである。予等の級は一級で十四、五 から十七、八の青年がいた。しかし習う事柄も教育の方法もまったく新規で あったから皆一時は熱心に勉強した。内藤、長井という先生が教えていた。 内藤先生は一青年であったが非常に算術が上手であった。我々は両先生に頼 んで夜学をはじめ算術だとか『輿地誌略』だとかを教わった。そこうしてこ の夜学では予は洋算の分数の初歩まで習った。予は小学校へ行ってはじめて 学問の興味を感じた。教わることは皆わかって、非常におもしろ味を与え た。 片山潜『自伝』(日本人の自伝8、平凡社、1981)より 【若槻礼次郎十六歳】(明治14年) 「松江から三里ばかり離れた所に大谷村というところがある。そこの 小学校で教員が要るというので、世話をする人があって、私は間もなくそこ の代用教員となった。私の十六歳の時である。食事つきで月給一円五十戦で あった。小学校とはいっても初めは百姓屋の座敷のような所で教えておった が、後には牛小舎の二階が小学校になった。下には牛がモウモウとなく。上 では生徒がドヤドヤ騒ぐ。この牛小舎の持ち主が校長で、村一番の豪家で、 村では親方々々と云われていた。(「古風庵回顧録」) 唐沢富太郎『日本教育史』(誠文堂新光社、昭28)より 【天野貞祐八歳】(明治25年) 私の生まれた村は大へんな山の中です。相模の国の形を三角形にたとえ ると、底辺は海岸で頂点のあたりは山国ですが、私の村はその頂点にあたり ます。戸数は二百ほどで、文字通りの僻村でした。時計のある家も新聞を とっている家も一、二軒にすぎなかったと思います。村の旧家で、暮らしも おそらく一番よかった家の子供の私でさえ、帽子もかぶらず、袴もはかず、 もちろん洋服など着たこともなく、草履をはいて学校へ通うのでした。 校舎はもと寺院だった建物をそのまま用いたものでしたが、土地が高く 裏に森があり、校庭も広く、ひろびろしていました。ある夏の日に教室用の 大きなそろばんにまきついていた、たくましい青大将がいまもはっきり私の 目がしらに浮かんできます。先生はひとりです。教科書を家へもって帰るこ ともなく、持ち帰るにしても読本だけでした。その読本も家で予習や復習を した記憶は全くございません。家に帰ると雨に日のほかはほとんど例外なく 毎日釣りをしたり冬になると小鳥を捕らえたりしていました。 天野貞祐『忘れえぬ人々』(細川書店、1949)より 【荒畑寒村六歳】(明治26年) 私は姉とともに旭小学校に入学した。名古屋出身の伊藤という先生が校 長で、木造の粗末な二階建ての校舎の一部を校長の住居にあてていた。階上 と階下の板敷きの広間を、大きな木製の衝立で仕切った教室に各学年の生徒 を収容して、校長をはじめわずか二、三名の先生がこっちの教室で読本のひ とくさりを教えると、すぐ隣りへ行って算術を教えるという風であった。 習字の時間には、校長の奥さんが生まれたての赤ん坊を背負ったまま、 墨汁で真黒になった竹筒の水入れから生徒の硯に水を注いでまわったり、双 紙に爪で手本の字を印しておいてから書かせたりして手伝っていた。こうい う教室では生徒が静粛である筈はなく、先生の姿が衝立の陰に消えるが早い かすぐ騒ぎが起こり、喧嘩が始まり、まるで芝居の寺子屋の涎くりを一堂に 集めたような光景を現出する。 荒畑寒村『寒村自伝・上巻』(岩波文庫、1975)より 【西尾実七歳】(明治28年) 文化の欠如地帯ともいうべき純農村長野県帯川にも、明治の新教育制度 の実施は、和合小学校帯川分教場を設置させた。 わたしが帯川分教場尋常科一学年に入学したのは、明治二十八年で、入 学した時の先生は高松清人という三十くらいの先生らしい先生で、いつも紋 付の羽織を着ておられた。時々、咳払いをして、チョークの粉が肩にかかる のを気にして、絶えず右肩を吹き、左肩を吹くことが気になった。先生一人 が、一教室で、尋常科四学年と補習科二学年の全生徒二十人足らずを教えな くてはならなかった。いつも、一人の先生で、六学年を教えてくださってい た。その後、毎年のように先生が変わって、わたしは六年間で十九人の先生 に教えられた。もちろん代用教員で、それも中学や農学校を出たものは一人 のいない。みな、村の高等科を出て、少しできのいい青年をむやみに頼むほ かなかったとみえる。 帯川分教場で学んだ六年間、毎年三月の終業式その他で、本校であった 和合小学校へ、分教場の先生に連れられて行った。その当時の本校は、林松 寺を借りていて、いつの、あの長い急な坂道をもぼって校庭になっている寺 の庭に出ると「分校のやつらがくる」と思って見ているらしい本校の生徒の 威厳の押されるような気がしたものです。本校の校長は、仲義庸先生で、多 分、林松寺の住職をしておられ、校長を兼務されたにちがいありません。 が、わたしの記憶には僧侶としての義庸先生は全然なく、古フロックコート 姿の校長としての印象しかありません。いまも、暗い式場(本堂)の正面に 立って、卒業証書を授与してくださった仲先生の輪郭が心の中に刻まれてい ます。 【西尾実十五歳】(明治36年) 頼まれて和合尋常小学校の代用教員(月給五円)になり、校長丸山才太 郎先生が尋常科全体(四十人くらい)を教え、わたしが補習科一、二年(十 数人)を教えることになった。家から通ったけれども、「話の坂」があるの で、母の実家である宮下家に泊まったり、校長住宅に泊まったりした。その 頃の校舎は、林松寺から、いまの校地へ移ったばかりで、平屋建ての校舎一 棟と体操場一棟だけでした。校長住宅が、すぐ近くの田の中にあって、丸山 先生は奥さんを南安曇郡高家村に置き、ひとり身で自炊生活をしていられま した。。『西尾実国語教育全集第二巻・第十巻・月報2』(教育出版、 昭和49)より 【荒木のコメント】 若槻礼次郎氏や荒畑寒村氏や西尾実氏らの学んだ小学校の様子は、平成 の世の小学校とは随分ちがっています。西尾実氏の学んだ分教場は、荒木が 学んだ分教場の学校体験と同じであることに驚きます。違うところは担任教 師が六年間にわたり、わたしは一度も変わらなかったが、西尾氏は十九人も 変わったというところです。荒木は、明治時代と同じ貴重な分教場の学校体 験をしたわけです。もし現在の世だったら学力低下がどうこうと大騒動にな ること間違いなしです。荒木の分教場体験については、荒木のホームページ のプロフィールを参照のこと。 唐沢富太郎氏は自著『日本教育史』の中で学制発布時の学校の建物と設 立状況と、就学率について次のように書いています。 明治5年に新学制が発布される。「当時の校舎は江戸時代の寺子屋とほ とんど変わりはなく、その大部分は新築でなくて寺院や民家を借りたもので あり、明治8年の小学校に関する統計によると、小学校校舎のうち一割八分 が新校舎で、その他は全部借用、そのうち寺院を使用したものが四割、民家 借用が三割三分、その他官庁、会社、神社、倉庫、旧藩邸などを借用したも のが九分である。すなわち全国小学校の七割以上が寺院または民家を借用し て開放したものである。もちろんその後次第に新築校舎が増加するに至って いるが、当時借用校舎はきわめて不完全であり、ガラス窓は無く採光は悪く 通風も不良であり、運動場は無いというごとくであった。 明治6年の実態について就いてみるに、就学率はわずかに二十八・一% にすぎなかった。女子の就学数は男子の三分の一以下であり、また就学の生 徒数は全国の人口の二十四分の一、すなわち四・二四%に当たっているに過 ぎない。しかして就学率の男女平均が五十%を越したのは、学制公布後十九 年の明治二十四年である。もちろんそれ以前に明治十六七年には五十%を越 してはいるが、十八年には五十%以下になっている。 なお、これを三十年後の実情に照らしてみれば、八大学区の理想に対し て、実情は二大学、二百五十六中学の理想に対して二百二十二、五万三千七 百六十小学校に対して二万七千七十六校で約半数に過ぎない。 唐沢富太郎『日本教育史』(誠文堂新光社、昭和28)より 明治期の学校生活の様子 【河上肇五歳】(明治17年) 私は明治十七年三月、満四年五ヶ月で小学校へ入学した。その頃はまだ 入学年齢に制限はなかったし、それに父は村長として小学校を管理していた ので、そんなことも自由であった。 私は入学した年の八月十二日に、小学初等科第六級卒業という証書を もらい、翌々年の三月十六日には、第三級修業(証書は修業となってる)と いう証書をもらった。多分、その時だったろうと思う。私は小さな袴を着 け、父に伴われて、その頃すでに臨終の床に就いていた母方の祖父を訪ね、 その証書を見せに行った。祖父はひどくわたしを寵愛してくれ、孫の中では 私が一番その愛に浴したものだが、この時も大変に喜んで、ご褒美だといっ て私に十銭銀貨十枚をくれた。 学校へ通うといっても、私は毎日おんぶされて往復したのである。そ の頃村役場と小学校とは同じ構内にあった。そして父は村長として小学校の 管理をも兼ねていたので、役場の小使いに命じて毎日私をおんぶして学校の 送り迎えをさしたのものである。私はまた学校へ行くの嫌で、毎朝その小使 いを困らした。学校の方へ向けていくと、背の上で暴れて仕方がないので、 小使いは後向きになって後退りながら、やっとのことで私を学校まで運ん だ。弟も一緒に通学するようになってからでも、二つ年上である兄の方の私 がおんぶされ、弟の方は歩いた。書いておくのも恥ずかしいが、私はそんな 我侭をして育ったのである。 【荒畑寒村六歳】(明治26年) 実際、それは学校というより寺子屋に近かった。『菅原伝授手習鑑』 の寺子屋の場で小太郎が寺入りする時、下男が重箱と机をかついで供をして 来るが、私たちの学校でも新入生の親はきっと煎餅か何かの大袋を持参した もので、その学級の全生徒は帰りに中味の分配に与ったものである。習字の 手本は半紙を細長く折って綴じたのへ、先生がいちいち書いてくれたもので あって、私たちはそれを買わなければならなかった。正月の書初めにも金が いったし、冬になると階上と階下に一個ずつの大火鉢が出たが、それにも炭 代と称して金をとられた。甚だしいのは畳替えまで生徒に費用の分担を仰せ 付けたが、教室はもとより板敷きであって畳の敷いてあるのは校長先生の居 宅にすぎなかったのである。 諸事このように金銭ずくなので、試験の成績なんかどんなに悪くても落 第の心配は絶対にない。現に私の如きは生家の家業柄、宵っぱりの朝寝坊が その頃からの癖で、私がノコノコ登校する時分には他の生徒がみんな帰って くるのは常であった。その上、雨が降るといっては休み、芝居見物だといっ てすら休み、それでいてなお学年ごとに進級したのでも凡そ想像がつくであ ろう。学校ばかりではない。家庭でも学業に関しては全然放任で家庭教育な ぞは楽にしたくもなく、私も姉も父母と一緒に食事することさえ稀で、親子 はまるで別の世界に住んでいるようなものであった。 荒畑寒村『寒村自伝・上巻』(岩波文庫、1975)より 【荒木のコメント】 当時は、進級も卒業も、随分とルーズだったことが分かります。子ども 達はおおらかで、のびのびとした学校生活を送っていたことが分かります。 また両親のわが子に対する教育要求も過大でなく、のびのびしていたことが 分かります。河上肇のわがまま勝手放題は父親が村長兼小学校管理者という 特殊な家庭環境だったことからできたのであろう。これについての詳細は後 述しています。 教師たちの生活の様子 【横山大観十二歳】(明治12年) 私は一家とともに上京して、東京・湯島霊雲寺の境内にあった湯島小 学校に入った。明治十四年の春、そこを卒業した。小学校在学当時の教師が 誰であったか、私はつい忘却してしまって、今日はどうしても思い出せない が、私はその受持の教師から非常に可愛がられたことはよく覚えている。な んでも遊びに来い、といっては私をその下宿に連れて行った。それだけでは 足らず、泊まって行けといっては、無理矢理に私を引き止めた。私は先生の いわゆる下宿で、先生の床の中の抱かれて、幾度も寝たことははっきり憶え ている。 横山大観著「大観自叙伝」(日本人の自伝19、平凡社、1982)より 【荒畑寒村六歳】(明治26年) 諸事このように金銭ずくなので、試験の成績なんかどんなに悪くても落 第の心配は絶対にない。現に私の如きは生家の家業柄、宵っぱりの朝寝坊が その頃からの癖で、私がノコノコ登校する時分には他の生徒がみんな帰って くるのは常であった。その上、雨が降るといっては休み、芝居見物だといっ てすら休み、それでいてなお学年ごとに進級したのでも凡そ想像がつくであ ろう。学校ばかりではない。家庭でも学業に関しては全然放任で家庭教育な ぞは楽にしたくもなく、私も姉も父母と一緒に食事することさえ稀で、親子 はまるで別の世界に住んでいるようなものであった。そしてまた、先生もこ の生徒に劣らないズボラで、伊藤校長は職員と一緒にしばしば遊郭に登楼し て、よく馬を引いて帰るので有名であったが、それに昂じた末に奥さんはつ いに里へ帰り、私が尋常科を卒業して転校すると間もなく学校は閉鎖され、 伊藤校長は生徒の家を廻って餞別を集めて故郷に帰ってしまった。 荒畑寒村『寒村自伝・上巻』(岩波文庫、1975)より 【荒畑寒村十歳】(明治30年) 私は毎夜、学校の唱歌の先生のところへ通って、学課の予習を受け た。先生は奥さんと二人で二階借りをしていたが、ある時、先生が「おい、 また醤油が高くなるそうだよ」と言うと、奥さんが「じゃあ、塩を使うより 仕方がありませんねえ」と答えられたのを耳にして、私は子供心にも同情に たえなかった。そんなに苦しい生活でありながら、先生は私が謝礼を持って いくと「生徒からお金を貰っては、いけないことになっているのだよ」と 言って、どうしても受け取らなかった。今ではお名前を忘れてしまって思い 出せないがl、赤い大きな口髭を生やした先生のお顔だけは覚えている。 荒畑寒村『寒村自伝・上巻』(岩波文庫、1975)より 【荒木のコメント】 横山大観の先生のようなことは今はできなくなってしまいました。荒木 が中学生だった時は、学級担任教師や各教科担当教師の自宅や下宿先に、先 生から「遊びにおいで」と言われて、友だち数人と何度かお邪魔したことが あります。遠慮をわきまえない腕白どもがどやどやと先生の家の中で騒い で、先生も奥様もたいへんだったことでしょう、また迷惑だったことでしょ う。宿泊まではしたことがなかったが。 私が新卒教師だった昭和30年代の頃は、学校の休日には学級児童を、 都合がつく希望者を引き連れて近くの公園や野原や、ちょっと遠出して遊園 地へ遊びに行ったものです。これがいつの頃か、数年後でしょう、「もし、 事故が起こったらどうだ、こうだ。責任は教師にある」ということが職員室 で話題になり、それで止めざるをえなかったという事情があります。その頃 から、少しずつ教師の雑務雑用の事務作業が多くなっていきました。また職 員同士の会議会議が多くなって、児童と接する時間がなくなっていきまし た。放課後になると、児童をさっさと教室から追い出すように帰宅させるよ うになりました。「今日の放課後に運動場でドッチボールをするから、都合 のつく人は残って」というようなことは、教師の多忙によりできなくなりま した。また、教師がサラリーマン化したということが社会問題として言われ だしました。 荒畑寒村氏が書いてる伊藤校長と唱歌の両先生、対照的ですね。コメン トはいらないでしょう。 ちなみに江戸時代の寺子屋にさかのぼってみよう。寺子屋の師匠と寺子 との師弟関係は濃密なものでした。寺子と師匠との関係は、親子の関係にな ぞらえられ、いい意味の親分・子分の関係にあったということです。 石川松太郎氏の著書の中に、これについて次のように書いています。 「寺子と師弟との関係は、寺子在学中ばかでなく、退校してのち一生つ づくものと考えられた。盆や暮に手土産をもって師匠を訪れるのはもとよ り、冠婚葬祭はじめ師匠に何かことがあると、かけつけて奉仕したのであ る。 こうしたところから、師匠が没すると、門弟たちのすべてがつどい、記 念碑をたてて感恩をあらわし、後世につたえようとしたことがよく行われ た。この記念碑を「筆子塚」という。たいていは墓石のようなかたちにつく り、師匠の姓名を表に大書し、裏にはその生涯や事績について記す。さらに 門弟一同の名を台石に彫りつけておいた。 筆子塚は全国各地にみかけ、たとえば秋田市の八幡神社の境内には付近 の私塾や寺小屋の塚が数十もたちならんでいて壮観なありさまを呈してい る。」 石川松太郎『藩校と寺子屋』(教育社、1978)より また、山中恒氏の著書の中に、明治5年の学制発布時に教師だった人が次 のように当時を回想しています。 「当時の教師は、父兄からは神様の様に尊ばれ、財産家などでは自分の 家に居て貰うことを名誉の様にしてよく世話してくれたので、今のように生 活には困難ではありませんでした。尚当時は実に自由なもので、何時休みに しても旅行しても平気で、明日からは盆であるから三日間休みだとか、何処 の村に芝居があるから休みだとか、校長の独断専行で何処からも指揮を受け るでもなく、認可を願うわけでもなく、実に教師独尊時代とでも云う有様で した。」 山中恒『御民ワレ ボクラ少国民第二部』(辺境社、1975)29ぺより 学校の設置・廃校が自由に出来た 【山川均十二歳】(明治24年) 尋常小学校は倉敷一の学校だったが、高等科は、倉敷ほか六か村の組合 学校で、高等精思小学校と呼んだ。いままでは、それぞれの村の空気のなか で育ってきた子供の群れがつきまぜられ、新しい要素で新しい学級が形作ら れた。これは私に大きな刺激を与えた。どの村にも、きっと一人か二人は成 績のすぐれた子供たちがいたように、すぐれてワンパクな子供たちもいた。 そこでどのような意味ででも、集団の水準が高まった。この新しい私たちの 組が二年三年と成長していくうちに、手に負えないワンパク組になり、しょ っちゅう先生を手こずらせた。『山川均自伝』(岩波書店、昭36)より 明治二十年の春には高等小学の1年だった次のほうの姉も、家庭で裁 縫を習わせるという理由で退学させた。しかし二十二年の秋には岡山の山陽 英和女学校に入れている。この学校も、安部磯雄さんが少しのあいだ教えて いたことのあるミッション・スクールだったが、これも二年くらいで辞めさ せて、一時は活花や茶の湯のけいこをさせていた。私は茶の湯の宗匠の、あ のわざとらしいへんな手つきなど真似て、みなを笑わせていた。こういうふ うに子供の教育についてはかなりでたらめで、定まった方針などなかったよ うに思う。しかし家庭の中には、子供たちを強く支配している一定の空気が あった。昔の家風というようなものはすでに崩れていたが、剛直で気位の高 い父の気質と、武士道的な厳格な父の道徳観とが、これに変わっていた。二 人の姉も、私も、家庭のそういう空気を呼吸して大きくなった。 明治二十一年の三月、上のほうの姉は、十六歳で、私の家と真向かい の林家に嫁入りした。 『山川均自伝』(岩波書店、昭36)より 【河上肇五歳】(明治17年) 私は明治十七年三月、満四年五ヶ月で小学校へ入学した。その頃はまだ 入学年齢に制限はなかったし、それに父は村長として小学校を管理していた ので、そんなことも自由であった。 私は入学した年の八月十二日に、小学初等科第六級卒業という証書を もらい、翌々年の三月十六日には、第三級修業(証書は修業となってる)と いう証書をもらった。多分、その時だったろうと思う。私は小さな袴を着 け、父に伴われて、その頃すでに臨終の床に就いていた母方の祖父を訪ね、 その証書を見せに行った。祖父はひどくわたしを寵愛してくれ、孫の中では 私が一番その愛に浴したものだが、この時も大変に喜んで、ご褒美だといっ て私に十銭銀貨十枚をくれた。 学校へ通うといっても、私は毎日おんぶされて往復したのである。そ の頃村役場と小学校とは同じ構内にあった。そして父は村長として小学校の 管理をも兼ねていたので、役場の小使いに命じて毎日私をおんぶして学校の 送り迎えをさしたのものである。私はまた学校へ行くの嫌で、毎朝その小使 いを困らした。学校の方へ向けていくと、背の上で暴れて仕方がないので、 小使いは後向きになって後退りながら、やっとのことで私を学校まで運ん だ。弟も一緒に通学するようになってからでも、二つ年上である兄の方の私 がおんぶされ、弟の方は歩いた。書いておくのも恥ずかしいが、私はそんな 我侭をして育ったのである。 小学校では二度賞を貰った。父は小学校の管理をしていたので、教員 の任免はその裁量に一任されていた。当然、教員たちは長男に悪い点を付け る事を遠慮したものに違いない。悪い点を付けたので教員を取り変えたとい うようなことすら、私は小耳に挟んだことがある。その頃、盆や年の暮れに は、村役場の雇たちは勿論、小学校の教員たちも、みなうちへ贈り物を届け ていた。それは酒、素麺、砂糖、菓子などであった。父も祖母も酒を嗜んで いたので、その贈り物が一番多かったが、素麺や砂糖なども相当にあって、 それが一つの蓄えとなった。 河上肇『自叙伝(一)』(岩波文庫、1996)より 【高浜虚子十四歳】(明治31年) 中学校は愛媛県中学校といったように記憶しています。その時分、県会 は極めて乱暴なもので、経費削減のため中学校を廃止にしてしまいました。 私が入って半年ばかりで廃校になったので、やむを得ず遊んでおりました。 地方の人々が心配して、今度は私立の中学校を、僅かの経費で経営するよう になりまして私はそれにようやく入ることができました。それが今日の松山 中学の前身で、その頃は伊予尋常中学校といっていました。 その時分には回覧雑誌をこしらえたり、演説会を開いたりすることは 学生仲間の流行でした。私も回覧雑誌を出しておりましたが、特にその頃文 筆の傾向があったわけではありません。演説会を開くということも、その頃 の学生の一部の流行でありました。夜になると一銭か二銭の会費を出し合っ てお寺を借りて蝋燭を立てて、聴衆もいないところで演説会を開いて子供の くせに天下国家を論じたこがもありました。 高浜虚子『定本高浜虚子全集』(第十三巻、毎日新聞社、昭48) 【荒木のコメント】 山川均氏は、「高等科は、倉敷ほか六か村の組合学校で、高等精思小学 校と呼んだ。」と書いています。河上肇氏は「それに父は村長として小学校 を管理していた」と書いています。高浜虚子氏は「県会は経費削減のため中 学校を廃校にした。今度は私立の中学校ができた」と書いています。 明治時代は、学制によって設立された公立小学校と、従来の寺子屋から 受け継いだ私立小学校との二つの種類の学校がありました。公立小学校は欧 米の教育制度や教 育内容や方法をまねた学校で教科書には翻訳物が多くありました。一般民衆 はむしろ従来からの「読み書きそろばん」の寺子屋式な教育を歓迎しまし た。明治学制の新教育体制は、従来の寺子屋から内在的連続的に発展した学 校ではなく、まったく非連続的に発生した学校制度でありました。 唐沢富太郎『日本教育史』には次のように書いている。 「私立小学校の方では組合を作り、組合長副組合長などの役員を置いて一 致団結して公立と対立するようになった。かくて東京府においては、明治 11年学校全数829のうち684校におよび、教員の全数が1914のうち1197名の 多きに達し、小学生徒全数66539のうち46553名は私学生徒である。すなわち 児童の66%はみな私学において教育を受けている割合である」 唐沢富太郎『日本教育史』(誠文堂新光社、昭和28)より これで山川均氏の学んだ小学校は私立小学校ということが分かります。 高浜虚子氏が学んだ廃止になった中学校は公立中学校であり、後でできたの が私立校であることが分かります。河上肇氏の学んだ小学校は私立小学校で あることも分かります。これで河上氏の父親が村長で、小学校の全体管理者 であり、わがまま放題ができたことの理由も理解できます。というわけで、 当時はかなり自由に学校を設立したり廃校にしたりできたことが分かりま す。 これは関係ない話ですが、山川均氏の姉が十六歳で結婚したとは驚きで す。昔は結婚は早かったようですね。 河上肇の父親は村の村長で、学校の管理者と書いています。私立学校は 村々の有力者が大きな発言権を持ち、学校を自由に支配していました。有力 者の恣意で教師の任免、教育内容、管理運営が自由に取り仕切られていたと 言われています。 最近、日本の政治論議の中で「地方に権限を分権すべきだ」という地方 分権の主張がさかんです。 しかしです、河上肇氏の父親の例のように地方ボスに地方教育が牛耳ら れ、恣意的に地方ボスの権力が介入し支配してくるようではいけません。そ うしたことがないような組織運営にしていくことがとっても重要となってく りでしょう。地方民主主義の成熟が重要となってきます。 これについては玉城肇が次のように書いています。 「明治の資本主義社会では、村々の有力者というものが地主であり、或いは 高利貸的な資本家であり、町の有力者は商人の上層であり、問屋的な或いは 高利貸的な資本家であって、それらのものが学校教育に対して大きな影響力 をもっていた」(玉城肇『近代日本教育史』昭和26、刀江書院、30ぺ) 明治期の女子教育 【山川均六歳】(明治18年) 私は姉が小学校へ通うていたことは少しも覚えてないから、あるいは寺 子屋の私塾で読み書きを習ったのかもしれぬ。当時はいっぱんに、女はせい ぜい手紙でも書ければたくさんとされていて、父も姉の教育について、はた してこれ以上のことを考えていたかどうかは疑わしい。もっとも私の五つ六 つの頃、懇意の漢学の先生がおりおりやってきて、二人の姉に、今から思え ば『論語』かなにかだろう、素読を教えていたことがあった。私は聞きかじ りに「シノ、タマワク」「シノ、タマワク」と口まねしていたが、おそらく 姉たちにしても、「シ、ノタマワク」という意味は分からず「シノ、タマワ ク」と覚えていたろうと思う。『山川均自伝』(岩波書店、昭36)より 【山川均十三歳】(明治25年) 小学校の八年間を通じて、男女共学だった。しかし共学といっても、お なじ教場でおなじ受持ちの先生におなじことを教わるというだけの共学で、 男生と女生とのあいだには、なんの交渉もなかった。遊歩場は、ここからこ こまでが男生といった定めがあるだけで、べつだん境界物はなかったが、因 襲がはっきりと見えない線がを引いていたから、男生と女生とが入り乱れて 遊ぶというようなことはなく、双方のあいだの交渉といえば、たまに遠方か ら悪口を言い合うとか、女生徒のほうから転げてきたマリを、意地悪く、見 当違いの方角へ投げ返すぐらいのことだった。こういう男女共学だったか ら、五年間の共学のあいだに、私は好きだった少女とも、言葉をまじえたこ とは一度もなかった。 まだそのころは、子供を高等小学までやる家庭は少数で、ことに女の 子の場合はそうだった。入学当時は六、七人いた女の子が、一学年ごとに一 人へり、二人へり、四年になる、たった一人になってしまった。 『山川均自伝』(岩波書店、昭36)より 【荒木のコメント】 明治の学制によって、儒学(朱子学)の教育体制から欧米の教育体制へ と変わりました。当然に「人間ノ道男女ノ差アルコトナシ。女子男子ト等シ ク教育ヲ被ラシム」となりました。 学制発布当時、日本国は一体いかなる教育施策をとるべきか。教育の施 策を欧米諸国とくにアメリカの教育施策にのっとるべきか、従来の漢学塾や 寺子屋の教育施策(女子教育は女大学など)にのっとるべきか、問題となり ました。欧米化教育に対して漢学者や国学者および保守的な人々から大きな 批判がありました。結局は、欧米諸国の教育施策となりましたが、しかし明 治後期になると世間の人々からの実用教育の要望により女子に特別に裁縫科 などが加えられることになっていきました。 これについて、深谷昌志『増補・良妻賢母主義の教育』の中に次のよう に書いてあります。 「明治9年には、30県中、65%の20県で男女同一教則が採用されている。し たがって、学制の男女同一教則が現実に生かされたことになる。しかし、明 治10年、11年と、年度を追って男女同一教則が減少し、明治12年には40%に すぎなくなる。男女同一教則から男女別教則へと移行が認められる。」「女 子固有の意図するところでは、儒教女訓的な婦徳の涵養と母親としての役割 の重視が掲げられているが、現実に、女子のみに与えられた教科書名をみる と、育児、家事関係が多く、儒教女訓はほとんど姿を消している。」「学制 を契機として、中央では母としての機能を重視しながら、実際には男女共通 教育の方針がうちだされる。江戸期からの延長として性差を考慮した教育を 意図するものの、教員、設備の不足で、結果として共通教育を行わざるをえ ない。そして、江戸以来、女子に対する教育期待が高く、設備の恵まれた東 京、大阪などで、学制とは方向の異なる性差を考慮した教育が行われた。そ の後、公教育制度が軌道に乗るにつれ、他の県でも、東京、大阪型に教則を 移行し、学制の男女共通教育の理念は、現実にはほとんど実現されないまま に、後退することになった。」 深谷昌志『増補・良妻賢母主義の教育』(黎明書房、昭和41)より 明治期の作文教育 【山川均七歳】(明治19年) 私の尋常小学時代には、イト、イヌ、イカリではじまる単語を並べた読 方の本いがいには、教科書というものはなかったと思う。習字のお手本も、 紙を持ってゆくと、先生が書いてくれた。このお手本をなくしたりしわく ちゃにして、よく先生に叱られたものだ。それで読本のことを「イトイヌ」 といっていたばかりでなく、学校にあがってイトイヌを習うといったふう に、「イトイヌ」が小学教育の代名詞みたいになっていた。 やや上級になって、算術と作文を習った。作文は「梅見に人を誘う文」 だとか「婚礼に人を招く文」「金子借用を依頼する文」「同返事」などとい う、おもに手紙の文例を教わった。祭礼に招かれた返事に「当日は豚児めし つれて御邪魔仕るべく」という文句があったのを今でも覚えている。手紙の ほかにも「机の記」などという題で「机は木にて造り読み書きの時用いるも のなり……」といったような、記事文というようなものがあった。 それから行儀作法の課目があった。フスマのあけ方、しめ方だとか、 来客へのお茶の出し方、食膳の運び方、ご馳走の食べ方、など教わった。 『山川均自伝』(岩波書店、昭36)より 【西尾実二十二歳】(明治44年) 三月、長野県師範学校を卒業し、飯田尋常高等小学校訓導として赴任し た。女子部高等科一・二年生を担任した。この教師生活の第一年は、私に とっては、綴り方の重大な教育的意義に目覚め、ひいては文学の人生におけ る意義深さを最も深く体験した一年であった。私は当時綴り方の教師たるこ とによって、生徒の教師たり得ようとさえ思われる。また、以後、国語国文 の教師として世に立つに至ったのも、当時の経験に由来するところが多かっ たように思われる。ここにまず綴り方教授の体験を回想して、私の国語国文 教育考察の端緒としようと思う。 私が教師として踏み出した当時の綴り方といえば、まず教授細目によっ て一学年間の文題が予定されており、更に各文題毎に指導の要領が列挙され ていて、生徒達は綴り方の時間になれば、まず模範文が与えられ、須要な語 句は黒板上で授与されて記述にかかるというような状態にあった。従って、 彼等はただ義務的に心にもない美辞麗句をつづり合わせる技術家として養成 されていた。教師は生徒に、病気見舞いであろうが、時候見舞であろうが、 いささかも心情に根ざした文字を記述させようとはしないで、ただ形式的に 語句を尤もらしく並べさせることに努力して何の疑う所もないような有様で あった。これが何よりも若い教育者には腹立たしかった。果たしてこれが教 育であろうかという一種の人間的憤激が、われわれを新しい出発点に導いた のであった。 従って、われわれの綴り方は革新的熱情を帯びざるを得なかった。文は あくまで自己真実の表現でなくてはならぬ。故にこれは他から動かされて強 いられて綴るべきものでなく、自己の思想を、自己の言語によって、自発的 に自由に綴るべきものであるという信念から、そういう本義を生徒に説き、 その蒙を啓くと共に、その方法を極めて自由に大胆に実行し始めた。そして ついに時間割における綴り方の時間の設定にさえ懐疑の眼を向けざるを得な くなった。 西尾実『国語国文の教育』(古今書院、昭和4)より 【荒木のコメント】 山川均氏の受けた作文教育を読んで、これは江戸時代の寺子屋での往来 物の流れをそっくり受け継いでいるなあと思いました。 江戸時代の寺子屋では、作文教育といえば先ず「いろは」の手習いを学 ぶ。次に数字から漢字の手習いを学ぶ。それから短句、短文に入るのだが、 これは日常会話でよく使われる、または手紙文でよく使われる慣用句や短文 や文言でありました。日常慣用の一定の決まり文句と言ってよいでしょう。 それから「元旦祝状」「花見への招待状」「婚礼歓状」「安産歓状」「死去 をいたむ状」「金子借用の文」「病気見舞い状」といった一定の書式の学習 へと進んでいきました。 山川氏の作文指導は明治19年の頃の話ですが、もっと前、明治5年の 学制発布当時の作文指導はどうだったのでしょうか。これについて山中恒の 著書の中で当時教師だった人は次のように語っています。 「作文などは記事文で、漢文直訳体であります。例えば、猫の題ならば 「猫は人家に飼わるる獣にして能く鼠を捕う」紙鳶という題ならば「紙鳶は 竹と紙にて作り、糸をつけ人のあぐるものなり」と云う様な類でありました ので、或学校の先生が教師と云う題を与えて作らせたら「教師は骨と皮にて 作り、人を教うる道具なり」と作りましたので、実に穿った名文だとて大い に喧伝されました。 山中恒『御民ワレ ボクラ少国民第二部』(辺境社、1975)29ぺより 寺子屋を受け継ぐ作文は実用主義であり、新学制の作文は欧米の翻訳に ヒントを得たものでした。西尾実氏が作文教育について語っていますが、こ の論の流れは大正初期になると、当時の自由主義教育思潮の影響もあって芦 田恵之助の随意選題へと受け継がれていきます。そして、一方の友納友次郎 の課題選題との論争へとすすんでいきます。自由随意選題は子どもの個性や 創造表現、内部からの開発的に綴る力育てに重点を置いた指導方法ですが、 一方の課題選題は社会生活に求められる広い領域の練習課題作文に重点を置 いた指導方法です。 これは戦後になっても生活綴り方と練習作文・スキル作文・コンポジ ション作文となって主張が繰り返され、現在は潜在化しているが解決をみて いません。わたしは、これは対立すべきものでなく、総合統一すべきものだ と思う。 明治期の幼稚園 【山川均八歳】(明治20年) 私は遅生れのため、数え年八つになって、小学校にあがった。ほんの僅 かのあいだ、そのころはじめてできた幼稚園に通うた。村の人たちは「ヨー テン」といっていた。神崎先生という小学校の先生の背の高い美しい奥さん が、たった一人で五、六人の子供たちに、そのころはオルガンもなにもな かったので、手拍子で歌など教えていた。私はこの「ヨーテン」で、 「蝶々、蝶々、菜の葉にとまれ」をおぼえた。しかし村人たちは、まだ 「ヨーテン」の必要を感じなかったので、まもなく立ち消えになった。 『山川均自伝』(岩波書店、昭36)より 【吉川英治一歳時の父母のこと】(明治25年) ぼくの生まれた当時の両親は、横浜の根岸に住んでいた。その頃はま だ横浜市ではなく、神奈川県久良岐郡中村根岸という田舎だった。家の前か ら競馬場の芝生が見えたということである。(中略)この辺りの地主で、亀 田某という人の借家に住み、それが縁で、亀田氏のすすめから、ぼくの両親 は、一つの生活にありついていたらしい。寺子屋、幼稚園まがいの、小さい 学校を自宅でやっていたのである。元よりたくさん子供を預かったわけでは なく、相沢の子供等が対象だった。ところが、近所に住む外国人の子供たち も来るようになり、思いがけないでそれは成功であったらしい。 吉川英治「忘れ残りの記」(日本人の自伝15、平凡社、1980)より 【横溝正史六歳】(明治41年) 明治41年ごろのことだが、その時代にも幼稚園(荒木注、場所神戸) というものは存在していた。しかし、幼稚園へ行くのは金持ちの子弟と限ら れていて、わが家みたいな貧しい家庭では幼稚園などにはやってもらえな かった。 そのかわり私は小学校へ入る前、一年間寺屋というのへ通わされた。思 うに姉の指導よろしきをえて、そのころの私はすでにアイウエオやいろはは いうに及ばず、漢字もそうとう読み書きできたし、算術なども二桁ぐらいな ら足し算、引き算、掛け算、割り算なども可能であった。したがって父が私 を寺屋へ通わせたのは、幼稚園などではあまりにも幼稚すぎると思ったのか もしれない。 しかし当の本人としてはそうは思えなかったとみえ、わが家から寺屋へ かよう途中に幼稚園があったが、そこで嬉々として遊び戯れる同年輩の子ど もを見ると、私は幼な心にも劣等感のこりかたまりみたいになり、幼稚園の 反対側の道を顔をそむけて走りすぎたものである。寺屋へ通っているのは私 より年長の子どもばかりであった。思う にそれはいまの塾みたいな補習教育場であったろう。塾生は二、三十人もい たろうか。家はふつうの仕舞屋(しもうたや)づくりになっていて、二階が 六畳と四畳半くらい、そこに私より年長の子どもがひしめき合っていた。そ こでは読み書き算術とお習字を教えるのだが、成績によって進級自在であっ た。 横溝正史『横溝正史自伝的随筆集』(角川書店、平成14) 【荒木のコメント】 明治20年代には、れっきとした「幼稚園」という名称の教育機関が あったことが分かります。横溝正史氏は「幼稚園へ行くのは金持ちの子弟と 限られていて、わが家みたいな貧しい家庭では幼稚園などにはやってもらえ なかった。」と書いています。山川均氏は「私はこの「ヨーテン」で、 「蝶々、蝶々、菜の葉にとまれ」をおぼた。」と書いています。幼稚園は、 富裕家庭の子どもが行くところで、寺子屋風の教育内容とは違っていたこと が横溝正史氏の文章から推察できます。 下記は、松村直行『童謡・唱歌でたどる音楽教科書のあゆみ』(和泉書院、2011)からの引用である。 「学制」による小学校の発足と同時に小学校未就学学齢児童まで小学校に 入れる保護者も徐々に増えて、文部省も地方官も当分これを見逃していたが、 指導する教員の数に限界がきたこともあって、明治六年(1873)十月には< 幼児教育のために絵画玩具を配布>の布達を府県にだしている。田中不二麿 文部大輔は、遣欧使節で渡欧の際に、各地の幼稚園も視察したことから、幼 稚園の必要を急務として、明治八年(11875)九月十三日にわが国最初の国立 幼稚園が東京女子師範学校に設置されることになった。それに必要な保母の 育成のために東京女子師範学校で生徒を募集した。 明治期の通知表・成績評価 【松本重治九歳】(明治41年) 「神戸の諏訪山小学校へ入学する。成績は五段階評価で、1が最もよかっ た。私は二年生の二学期から「オール1」に。ちなみに一年生の一学期では 算術が1で、国語が2.けれど体が弱かったせいか、体操はヘタだった。 諏訪山小学校時代、週に二、三回、授業が終わったあと英語と漢学、そ して書道などを習った。小学校二、三年の頃だ。いまの子供たちなら普通の ことだが、明治の四十年代だけに「塾通い」のハシリだったかもしれない。 英語は、自宅から一丁ほど離れた「深沢英語塾」に、姉の朝子と通っ た。先生は二十七、八歳で、アメリカ人との混血女性だという話であった。 生徒は私たちも含めて十人もいただろうか。英語の歌から始めて会話へ。発 音に力を入れてもらったが、上達したかどうか記憶にないのに、姉の朝子よ りよくできたことだけは覚えている。 漢学と書道の先生は、八木という名前で、南画家のおじさんだった。確 か英語を習うより早く小学校二、三年のときに八木先生の所に通っていたよ うに思う。三、四年生のころには「詩書」の素読、六年生のころに「詩経」 の抜粋、さらに神戸一中の時は『十八史略』まで進んだように思う。そのお かげか、神戸一中の漢文の授業がバカみたいにやさしく、居眠りを決め込ん だこともある。 父は漢籍を白文で読み、父の述懐によると、十八歳でアメリカに留学す るころには頼山陽『日本外史』などを自由に読みこなしていたという。アメ リカでの愛読書のひとつが『唐詩選』だといっていた。」 松本重治『わが心の自叙伝』(講談社、1992)より 【長谷川伸六歳】(明治23年) 二十一歳以前の新コ(荒木注、「新コ」とは「長谷川伸」のこと。つま り自分を三人称人物に仕立てて物語っている自伝)を語る物とては、今いっ た目鼻も口も消えてない写真と、三通の書付だけである。書付のうち二通 は、横浜公立・吉田学校の尋常小学科第一学年と第二年とを、「稼業ヲ履修 ス」とあるもの、残る一通は七歳の尋常小学科の試験成績報告(明治二十三 年十一月二十日付)である。そのころの学期は十一月だったとみえ、一年生 の時の課業履修証は十一月二十日付、二年生の時は十一月二十二日付になっ ている。 新コの学校歴はこれだけであるから成績といえば、七歳の時のこれの一 ツだけしかない。習字が一番悪く六十五点、唱歌もよろしからず七十五点、 作文と修身が九十五点ずつ、算術と読書(よみかき)が百点ずつ、課目は六 ツでそれぞれ百点が定点(満点)だから六百点、それに対して七十点不足の 五百三十点しかなく、平均点は八十八・三点で七十二人中の二十五番と書い てある。秀才とは縁のない、そしてビリの方へもいかれない児だったのだ、 新コは─── 。 長谷川伸『ある市井の徒』(日本人の自伝、平凡社、1980)より 【荒木のコメント】 明治時代にも通知表があり、五段階の相対評価があったことが分かりま す。また、唱歌が七十五点、修身が九十五点、習字が六十五点とあります。 この三つの評価については「優、良、可」とか「花丸、二重丸、一つ丸」と かなら評価できるでしょうが(できないという論者もいること知っている が)、はっきりした、こまかな数字の点数で評価していることには驚きまし た。 明治期にもいた教育ママ 【小川未明六歳】(明治21年) 私は明治二十一年、小学校へ入りました。小学校へあがらぬうちから私 塾へ行って漢学とか数学の勉強をしたのですが、小学校へ行ってからは其の 帰りに剣術を習っていて、もう暗くなるのに、それから私塾によって論語と 日本外史を習って、夜おそく家へ帰ります。そうして夕飯を食べると炬燵に 入るのですが、もう眠くなってしまいます。それでも私がその日の学課の復 習をするまでは、母は決して寝せてくれません。その勉強も炬燵にあたって するのはいけないので、起きて机に向かってやれというのです。疲れている ものですから、つい居眠りするのですけども、よく母に叱られました。私が 勉強が終わるまで、母はランプのそばで仕事をしていたことを、今もうれ しく思います。 『小川未明』(作家の自伝103、日本図書センター、2000)より 【荒木のコメント】 明治も、大正も、昭和も、平成も、いつの世も、こうした猛烈な教育マ マがいるものだということが分かります。 明治期の読み聞かせ 【天野貞祐八歳】(明治24年) 祖母は物語をよむのがすきでした。しかし自分でよむのは良い老眼鏡の ない時代のことですから、目のつかれもあったのでしょう、毎日私は読む役 をいいつかりました。平家物語、太平記、八犬伝、弓張月、三国志、漢楚軍 談などのようなものでした。読み役をつとめているうちに三国志がたまらな く面白くなり学校から走って帰って読んだりしました。家にあった三国志は 和綴五十冊のものでした。 天野貞祐『忘れえぬ人々』(細川書店、1949)より 【荒木のコメント】 天野貞祐氏が、明治24年当時を想起して書いた文章です。明治20年 の就学率は男子60%に対して女子は28%だったとある(前田愛『著作集第二 巻・近代読者の成立』(筑摩書房、1989)125ぺより)。天野氏の祖母は文 字が読めて読書を楽しんでいたようですが、明治の多くの祖母・母親たちの 識字率は成人男子や女子供に比べてごくわずかだったと推察できます。です から、平安時代では源氏物語を誰かが読み、その読み声を周囲の人々が聞い てみんなで楽しんだように、明治になってからも父親や子供が音読する、そ の読み声を家族全員が耳にして楽しむ読まれ方が普通だったと思われます。 前田愛の前掲書によると、明治10年4月の読売新聞に、「小学校に通 う子供に新聞を読んでもらったことが刺激になってが新聞をとって読みはじ めた」そういう記事が一種の美談として新聞を賑わしていた、と書いていま す。天野貞祐氏が祖母に物語を読んで聞かせたという、子供が両親に、祖父 母に書物を読んで聞かせることは普通のありさまだったと推察できます。こ うしたことは識字率の向上と活版印刷術の普及によって次第に消えていくこ とになります。 明治期にも修学旅行があった 【菊池寛十一歳】(明治32年) 私の家は、随分貧しかった。士族らしい対面を保っているために、却っ て苦しかった。(中略)修学旅行などは、いくらねだってもやってくれな かった。病気でもないのに修学旅行に行かれないなど云う子供心の情けなさ は、また格別である。私はあるとき、泣いて父に修学旅行に行かせてくれと 強請したら、父はうるさがって寝てしまった。寝ても、私は強請をつづけて いると、父はガバと蒲団の中で起き上がって、「そんなに俺ばかり、恨まな いで、兄を恨め! 家の公債はみんな兄のために、使ってしまったんや」と 云った。公債など初めからいくらもなかったのであるが、しかし公債でもあ れば、いくらか楽だと父は思っていたのだろう。 菊池寛「半自叙伝」(日本人の自伝15、平凡社、1980)より 【荒木のコメント】 今野敏彦著『昭和の学校行事』の中に次のように書いています。 「江戸時代の寺子屋や明治10年代前後は、「花見」「初詣」舟遊び」と いった野外活動が実施されていたという記録がある。また、近くの山に登る とか、野原に兎狩りに出るとか、寺社に参詣するとかの校外活動が行われて いた。こうした校外活動は明治17年ごろを境にして新しい形態に変化して いく」 (荒木注。菊池寛十一歳は、明治32年である。同じ年代の)明治33年実 施した東京のある高等小学校の修学旅行の概要は次のようだと前掲書に書い ています)参加生徒数は男子62、女子22。校長と教員4名。二泊三日の 日程。学校より品川で汽車。高輪泉岳寺、丸山公園、芝増上寺、貴衆両院、 二重橋、楠公銅像、靖国神社(以上第一日)、工業学校付属徒弟学校、東洋 硝子株式会社、浅草公園、花屋敷、水族館、4パノラマ(以上第二日)、第 一・第二連隊参観、上野公園、動物園、南州翁銅像(以上第三日) 今野敏彦『昭和の学校行事』(日本図書センター、1989)より引用 明治期の大学教育 以下は、明治期の小学校でなく、大学の風景です。金田一春彦『日本語 新版上』の中に次のように書いてあります。 明治の日本に初めて大学が出来たころは、ヨーロッパやアメリカからいろ いろな学者が来て授業したものだった。たとえば、最初はフルベッキという アメリカの学者が、大学南校(現在の東京大学の前身)で明治2年に歴史を 教えた。次に、グリフィスという人が3年に来て、理学・化学を、それから チェンバレンという、これはイギリス人であるが、東京帝大で言語学を教え た。実は言語学のみならず国語学の授業まで、「きょうは日本語の後置詞の 働きについてお話しする」というような授業を外人の身でしたという。 それからベルツ。ドイツ人で医学を明治9年から教えた。次はアメリカか ら来たクラーク。「少年よ大志をいだけ」で有名な学者で、札幌農学校で教 育学を教えた。このあと、モース(アメリカ)が生物学、ダニエル(イギリ ス)が工学、哲学と美術学のフェノロサ(アメリカ)、それから明治の中期 のなると、文学のラフカデオ・ハーン(イギリス)とか、哲学のケーベル (ドイツ)というような有名人が授業をした。 こんな時には当然、授業は日本語以外の言語で行われたにちがいない。明 治13年に大学総長という役職にあった加藤弘之は、『東京学士院雑誌』に こんな文章を書いている。 東京大学ニ於イテハ方今専ラ英語ヲ以テ教授ヲナスト雖モ、此事ハ決シ テ本意トスル所ニアラズ。全ク今日教師ト書籍トニ乏シキガ為シバラク ヤムヲ得ザルモノニシテ、将来教師ト書籍トトモニ漸漸具備スルニ至レ バ、遂ニ邦語ヲ以テ教授スルヲ目的トナス……。 こんな風であったから、講義の教科書はすべて英語、ドイツ語、フランス 語で書いてあったが、こういうことはだいぶあとまでつづいたようで、夏目 漱石が何かに思い出を書いてあったが、自分の大学時代の教科書は、すべて 外国語で書かれていたと言っていた。明治の末ごろから日本語による授業が 一般になり、現在では日本の大学では全部の講義が日本語でできるようにな った。これはすばらしいことだと思う。 金田一春彦『日本語 新版上』(岩波新書、1988)より引用 トップページへ戻る |
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