音読授業を創る  そのA面とB面と          04・7・21記




「作家へ質問、感想文を送る」について(1)

                            


           
作家へ質問文を出す


  わたしたちは文学作品を読んでいると「この作品の主題はなんだろう
か」、「なぜ、この人物はここでこんな行動をとったのか」、「この人物の
行動意図はAもBもCも考えられる。どれが正しいのだろうか」、「この事件
の因果関係はAもBもCも考えられる。どれが正しいのか」、「結末はしり切
れて終わっているが、最後はどうしたかったのか。つづきを知りたい」「善
か、悪か、どっちを書こうとしたのか」、「この作品で子ども達に何を訴え
たかったのか」など、いろいろな感想や疑問を持ちます。それを作品の書き
手である作家個人に直接に質問してみたくなります。その回答によって児童
に接してみたくなります。こうした感想や質問は、教師だけでなく、父母
も、児童も、一般社会人も、持つことでしょう。
  こういうことについて作家の人たちはどう考えているのでしょうか。作
家の人たちのご意見を聞いたら、どんな答えがくるでしょうか。


      
作家へ読書感想文・授業報告文を送る


  わたしたち教師は文学作品や説明文を学習したあと、読書感想文を書か
せることが多くあります。授業後、教師は児童達がこの作品を学習して、ど
んなことを学んだのかを知りたくなります。読書感想文には児童たちが熱心
に文章に反応したこと、読みとったことがしたためられています。授業中、
子ども達はどんな発言をし、どんなことが話し合われたのか、こどもたちは
どんな内容(価値)を学習したのか。
   どんな疑問や感想や意見や批判を持ったのか。どんな生きる知恵を得た
のか。日常生活や人生・人間について理解の広がりや深まりは得たのかどう
か。などが読書感想文に書かれています。
  これを、作家(文学作品)や筆者(説明文)に、あなた様の文章を学級
全員で楽しく話し合い、学習しました。こんな感想をもちました。こんな質
問や疑問が出また。と知らせたくなります。
  教師の中には作家や筆者へ、こうした感想文綴り、寄せ書き、手紙、紙
芝居にしたもの、文章から触発された研究物のレポートなどを送付する方も
いるようです。
  わたしがかつて勤務していた小学校でも、わたしの隣の同学年担任だっ
た先生は、あまんきみこさんの文学作品を学習すると、あまんさんは遅れて
も返事をくださるからと、あまんさんに学級全員の手紙形式の感想文綴りや
寄せ書きを送っていました。あまんさんからの返事がくると、それを教室内
に掲示したり、コピーを学級通信にのせたりしていました。
  ある時、教育雑誌の授業報告でこんな記事を読んだことがあります。あ
る児童文学作家に送った学級全員の手紙(感想文)がきっかけで児童文学作
家と学級児童達との交流ができ、その児童文学作家が小学校の教室までいら
してくださった。
    子ども達は大喜びして拍手で迎え、楽しい時間を過ごした、と。
  わたしはこうした感想文の送付はやったことがありません。作家の方に
お読みいただくほどの感想文内容でないのと、それを作家の方が読んだり返
事を書いたりするのが大変だろうと思ったからです。正直な話、大切な時間
をさかせて迷惑をかけると思ったからです。もし、日本全国の学校にそれが
日常化したら恐ろしいこと……と思ったからです。
  作家の大切な時間を、その分、次の素敵な作品作りの熟考の時間や執筆
に当てていただいたほうがよっぽど大勢の子ども達のためになるだろうと
思っからです。

  さて、こうしたことについて作家たちは、どう考えているのでしょう
か。
   これについて、二人の児童文学作家のご見解を下記に引用させていただ
きます。あまんきみこ氏と古田足日氏の二人です。
  
  

        
あまんきみこ氏のご見解


ーーーーーーーー引用開始ーーーーーーーーーーー

  この夏、子どもの字で分厚い手紙がきました。
  「あたしは夏休みにあまんさんのことをしらべることにしました。それ
でしつもんをつくりましたので、こたえをくわしく書いて、できるだけ早く
おくってください。」
  手紙はそれだけで、分厚かったのはその質問を書いた二枚の用紙でし
た。……
  質問には、1、2、3、4……10まで番号がつけられ、「『白いぼう
し』ではなにをつたえたかったのかくわしく書いてください。」とか「『ち
いちゃんのかげおくり』ぜんたいの主題(ちゃんと漢字で書いてありまし
た)を書いてください」などと難しい問題ばかりで、びっくりしたり感心し
たりしました。
  けれど感心ばかりしておられません。なにしろこの子は返事を待ってい
るのですから。
  私は二枚の質問用紙を前にして、何日もため息をつきました。
  ーーどうしてこんなことを思いついたのかな。自分で考えたのかな。几
帳面な字だな。でも、「調べる」って、こんなことかしら?
  困り果てて、結局、文章をべつに書きました。
 「いろいろなしつもんをつくりましたね。かんしんしましたよ。
  ところで、『白いぼうし』について、『ちいちゃんのかげおくり』につ
いて、あなたはどう思いましたか。どう感じ、どう考えましたか。
  作品は、もうあなたのものですよ。あなたが読んで感じること、あなた
が読んで考えることが、この質問のように深め、ひろげられたら、とてもう
れしい。これがこたえですよ……。
  どうぞ、元気でたのしい夏休みをおくってくださいね」
  何日も返事を遅らせたので速達にしてだしました。その返事はないの
で、どのようにあの子が受けとったのかはわかりません。いみもわからなく
て困ったかもしれません。………
  内心忸怩のつらさが、いつまでも胸に残りました。
           (中略)
  ………教科書に作品をのせていただいたおかげで、教室の子ども達から
手紙が届くようになりました。
  それはたいてい薄茶色の大きな封筒に入れられています。中は、実に多
様です。
    読みやすいように手紙をリボンでとじてあったり、表紙がつけられた
り、絵が入れられていたり、数人だったり、全員だったり、可愛い模様の封
筒に、それぞれの手紙が入っていたりします。ビデオレターが出てきて、
びっくりしたこともありました。
  その殆んどに、担任の先生のおたよりが添えられています。授業のよう
す、日頃のようす、町のようすなど書いてくださったり、全員、笑顔の写真
が入っていたりすることもあります。
  封筒に書かれた学校の住所で、その地の季節の移り変わりなど思いめぐ
らせながら読むと、教室の雰囲気が不思議なほどはっきり立ちのぼってくる
思いがします。
  それといっしょに、子ども達の賑やかな笑い声や話し声が聞こえてくる
ようで、私はじっと耳をすます豊かな時間をもらいます。これを作者冥利と
いうのでしょう。
  私は、時をおいて返事を書きます。けれどその時、子ども達の質問の
「こたえ」は書かないようにしています。書かないというより、書けないの
です。例えば、「この女の子はチョウですか」「おにたは、豆になったので
すか」などの質問に、私の思いを書けば、それが「正解」になる怖れを感じ
てしまいます。女の子はチョウだと思う子には、チョウだし、おにたは豆に
なったと思う子には、豆になったのだし、夢かな、とか、豆をおいて出て
いったのかな、と思う子は、それもまた、いいのですから。
  作者は、人生のありったけで作品を書きます。読者もその人の人生で作
品を読むのでしょう。大人は大人の生きてきた道すじに立ち、子どもは子ど
もの生きてきた道すじに立ち、それぞれ多様な読み方があるはずです。その
両方の思いが響きあう時、作品の世界はひろがり深まるのではないかと思わ
れます。作品の前に出て説明をすると、そんな大切なものを壊すようで怖い
のです。………       
      『日本児童文学』 2002年1・2月号より抜粋引用

ーーーーーーーー引用終了ーーーーーーーーーー

  なお、本ホームページの、四年生教材〈「白いぼうし」の音読授業をデ
ザインする〉、の参考資料を参照してください。そこにも、こことは異なる
同じ内容の、あまんきみこ氏の文章が引用されています。

《あまんきみこ》。児童文学作家。作品として、『白いぼうし』、『名前を
見てちょうだい』、『きつねのおきゃくさま』、『おにたのぼうし』、『お
はじきの木』、『ひつじ雲の向こうに』、『ちいちゃんのかげおく
り』,『車のいろは空のいろ』など、多数。



          
古田足日氏のご見解


ーーーーーーーー引用開始ーーーーーーーーーーー

  この文章の趣旨だが、編集部からの依頼状によれば、「自分の作品に対
する教育現場の取りあげ方についての考えを書く」ようにとのことであり、
その例として「こう読んでほしい等」ということがあげられていた。
  しかし、ぼくは「こう読んでほしい」という注文を出す前に確認してお
かなければならないことがあると思う。それは、どの作者のどの作品につい
ても読者の読み方は自由だということである。読み方に枠をはめることはで
きない。どう読もうとそれは読者の勝手であり、権利なのだ。
  さらに「読む」ことについていうと、この「こう読んでほしい」のうし
ろには作者には自分の作品がわかってでもいるという見方がかくれていはし
ないか。しかし、作者のわかり方はその作品のわかり方の一つ(相当有力な
わかり方だが)にすぎず、ここに研究とか評論の成り立つ理由の一つがあ
る。
  しかし、今あげた二点はふつうの作者・読者の関係であって、「教育現
場の取り上げ方」には「教育」がはいりこみ教師が介在しているから、「読
む自由」とは反対に読みを一つの方向に向けようとしているものではない
か、という考えもあるだろう。
  そこで、もう一ついうと、公表された作品は社会的存在であってそれが
どう使われようと(もちろん作者の人格権をおかさないという一定の限度は
あるが)、作者にはそれを阻止する権限はない。つまり読者には「読みの自
由」だけではなく「利用の自由」もある。その作品で漢字の学習をするのは
「利用の自由」で、それに目くじら立てることはないだろう。主題だとか段
落だとか読む教材として使うのも「利用の自由」である。
  しかし、「読みの自由」「利用の自由」という原則は何も作者の意見を
封じることではない。その意見を採用するかどうかはこれまた読者・利用者
による。…………作品を読み、扱う際作者の意向を特別視する必要はないの
である。
         『日本児童文学』 1991年9月号より抜粋引用

ーーーーーーーー引用終了ーーーーーーーーーー

《古田足日(ふるたたるひ)》。児童文学作家。作品として、『モグラ原っ
ぱのなかまたち』、『ロボット・カミイ』、『水の上のタケル』、『ぼくの
たからもの』、『大きい1年生とちいさな2年生』、『宿題ひきうけ株式会
社』、『海賊島探検株式会社』など、多数。



           
参考資料(1)


  ちなみに今、現行教科書(2003年)に採録されている文学作品がいちば
ん多い作家・詩人を調べてみましたところ、作家では、あまんきみこ氏、詩
人では、まどみちお氏でした。あまんさん、感想文、どっさり来たら、お喜
びになるのかどうか、上の文章からでは確かなことは不明です。

 あまんきみこ作品
   ひつじ雲のむこうに     学図2上
   きつねのおきゃくさま    教出2下
   名前見てちょうだい     東書2下
   おにたのぼうし       教出3上
   白いぼうし         光村4上、学図4上、日書3上、
   ちいちゃんのかげおくり    光村4上
   おはじきの木        教出5上

 まどみちお作品(詩)
   「かき」 「ぼくがここに」 「ともだち」 「てつぼう」
       「ポポン」「よかったなあ」 「あいうえおのうた」
       「がぎぐげごのうた」「きゃきゅきょのうた」
       「ニンジン」 「ケムシ」「ミミズ」
       「イナゴ」


          
荒木の見解


  文学作品は、作家の手を離れて、ひとたび読者の手に渡ってしまえば、
一人歩きを始めます。登場人物たちは独立独歩して、文学作家の手の届かぬ
ところにいってしまいます。読者からの受け取り方は十人十色であり、作家
は、「どうぞご自由に、ご勝手に。わたしの知ったことではありません。」
なのです。古田足日さんは、これを「読みの自由」と「利用の自由」と言っ
ています。文学形象から表象を作り上げるのは作者ではなく、読者なので
す。
  谷川俊太郎(詩人)さんは、次のようなことを語っています。
  「印刷された詩は、楽譜みたいなものだ。指揮者や演奏家によっていろ
いろ解釈されて、いろんな形で音になる。
  作者がいるだけではだめで、読者・聞いている人がいないとだめだ。作
者と受け取る人の間で詩は成立するから、詩集の中には詩はなくて、誰かが
読んでくれて感動してくれたとき、つかの間、詩が立ちあらわれる。」と。

  立ちあらわれ方は、読者一人ひとり、みな違ってきます。「詩集の中に
詩はない」のです。読者一人ひとりの中に詩はあるのです。作家は読者が鑑
賞享受する素材を提供しているだけなのです。作品は、まさにテクストにす
ぎないのです。
  作家の立場から言えば、この作品をこのように受け取ってほしいという
願いはありましょう。作家が主題化した理念や感性そのままに受け取る読者
もおるでしょう。
    すばらしい内容のテクストを紙くず同様に捨ててしまう読み取り方をす
る読者もいることでしょう。作家よりも豊かに創造して読み取るすぐれた読
者もいることでしょう。作家が全く意識(主題化)してなかったことを創造
して読み取る読者もいることでしょう。作品(テクスト)は、作家の意図を
裏切って思いもよらない方向性をもって増殖していくものなのです。誤読
で、すばらしい創造力を発揮した読み取りをする読者だっているのです。
  作家自身は、自分の手から活字となって離れていった作品が多くの読者
たちにどのように受け取られているか、知りたいものだ、と思っているので
はないでしょうか。
  作家のコントロールのきかなくなってしまった作中人物たちが多くの読
者たちに読まれて、いろいろな方向に拉致されて生きていく生きざまを知り
たいものだと思っているでしょう。読者からの読後感の手紙や感想文や評論
文を、期待の強弱差はあるでしょうが、どんな作家でも持っているのではな
いでしょうか。
  だからといって、読者が作家に、主題は何か、ここで何を書こうとした
のか、どう解釈すべきか、という質問をするのはいかがなものでしょう。質
問が感想だったら、許されます。質問の大多数は作家にだって分かってない
のです。作家はすべてが分かって書いているわけではないのです。読者から
質問を受けて「そんなこと、考えてもみなかった」「なぜだろう。どうして
かな」と、改めて立ち止まって考えざるを得ない内容が大部分ではなかろう
か。
  そうした質問内容は読者の想像力で主体的判断で創造的に読み取ってい
くべきものなのです。あまんきみこさんの文章から読み取れるあまんさんの
「とまどい」が、わたしにはとってもよく分かります。あまんさんの「内心
忸怩のつらさ」が痛いほどよく分かります。

  説明文の書き手を「筆者」と呼び、文学文の書き手を「作家」と呼ぶと
するなら、文学文には「作家の死」があると主張する人々がいます。ポスト
モダン思想といわれている一群の人々、ジャック・デリダやロラン・バルト
などがそうです。
  彼らはこう言います。
  説明文の言語は伝達の手段にすぎず、その価値は透明・中性であること
を求められるが、文学文はそうした制度化された基本的なコードから外れて
おり、コードの混交、論理の崩壊、意味のずれや転回や移行、対話、パロ
ディといったものの積極的引き受けがあると言います。これはバルトの見解
ですが、これをデリダは脱構築という概念で主張していることは広く知られ
ているところです。デリダは、エクリチュールのさまざまなテクストのなか
に差異と差延の際限のない戯れを見出します。
 
  説明文から文学文へでは、「伝達」から「表現」へ、「シニフィエ」
(意味されるもの)から「シニフィアン」(意味するもの)へと比重の移動
があり、文学文は「作品」でなく「テクスト」であり、シニフィアンの際限
のない自由な戯れがあり、意味付与という意味作用から独立している意味の
多義性、多様な解釈の可能性が成立している、と言います。デリダはテクス
トの一義的な了解を撹乱させ爆破させる脱構築的な読み方をすべきと主張し
ます。

  バルトには『作家の死』『物語からテクストへ』という題名の小論文
(『物語の構造分析』みすず書房に所収)もあります。これら題名がバルト
の主張を端的に表しているといえましょう。

  竹田青嗣(文芸評論家)さんは、次のようにその背景も含めて書いてい
ます。

  彼ら(荒木注、デリダとバルト)の作品理論に共通するのは、テクスト
の「意味」の「意」への還元不可能性(意味の起源の拒否)、作品解釈の原
理的多様性と多数性、解読の一回性(その都度の解読の地平が成立するこ
と)などの主張である。こうした「テクスト論」が担った新しい意味の中心
は、たとえば古典的文芸理論やマルクス主義的な文芸理論における、表現に
ついての「作者=神」理論や作品の現実的反映への反措定という点にあっ
た。バルトやデリダの世代にとって、これらの古典理論は、芸術に現実や社
会認識の機能を担わせようとする圧迫的表現理論となっていた。テクスト理
論はなによりも表現者の自由を解放する意味をもっていたのである。
ーーー『言語的思考へ 脱構築と現象学』(径書房)82ぺより引用ーーー

  デリダやバルトらのポストモダン思想は、ヘーゲルやマルクスやフッ
サールらの哲学への反措定、ポスト構造主義などの形で生まれた現代思想だ
と言われています。
    もっとも、デリダにとってはプラトンのパルマコンに言及していること
から考えるに古典哲学から現代思想まで、全てを批判の対象にして脱構築し
ている哲学だと言えましょう。
  竹田さんの前掲書は現象学の立場からデリダやバルトを徹底批判して竹
田言語理論を構築している本です。竹田さんと同じくデリダやバルトにかみ
つき喧嘩を売っている人に加藤典洋さんがいます。加藤典洋さんの最近刊
『テクストから遠く離れて』(講談社)、『小説の未来』(朝日新聞社)の
二冊がそれです。特に、雑誌『群像(2002・10、2003・2)に初出していた
『テクストから遠く離れて』は、デリダやバルトと四つに組んで徹底批判し
ている本です。
  ポストモダン思想に賛成の人、賛成でない人、立場が未定の人、いろい
ろでしょう。いずれにせよ、「作家へ質問をだす」ということは笑止千万な
話であることだけは知っておくべきでしょう。これは読み手の主体性の放棄
であり、バルトの言い方をもじれば「読み手主体の死=読者の死」であると
言えます。デリダやバルトは、「作品は作家のもの、テクストは読者のも
の」と言います。つまり、作家と読者の断絶を主張しています。読者は主体
的に創造力を発揮して読書を堪能すべきだ、と言っています。このすぐれて
読者に与えられた心からの快楽を存分に楽しむべきものなのです。読者こそ
がテクストを生産する自由と支配力をほしいままにしている悦楽を与えられ
ているのです。

  さきに「読者の受け取り方は十人十色である」と書きました。同じ作品
でも、昨日の読み取り、今日の読み取り、その読み取り内容はちがってきま
す。同じ作品でも、一年生時の読み取り、三年生時の読み取り、六年生時の
読み取り、同一人物でも勿論ちがってきます。同じ作品でもその現われ方は
みなちがってきます。児童一人ひとりのこれまでの世界経験の網の目の身体
化した内容がちがっており、一人ひとりの感受性がみなちがっているから受
け取り方はちがってくるのです。
  「これは私だけの感じ取りなのかもしれしれませんが」という個人的な
読み取りがあり、そう読み取ったなら、他人はそれをむげに否定することは
できません。「深読み」もあれば「浅読み」もあります。作家にとって、い
い「深読み」もあれば、好ましくない「深読み」もあります。「浅読み」に
も同じことが言えます。読み取り内容によって、「この作家は、いい読者を
得た」という場合もありましょうし、「好ましからざる読者を得た」という
場合もありましょう。「好ましからざる読者」にとっては、結果として本人
にとっては「いい読者」になる読み取りをしたことになる場合だってあるで
しょう。

  テクストには多義性があり、読みは一回限りの固有の体験であるとは
いっても、恣意的かつアナ−キーであってよいというものではありません。
児童ひとり一人のこれまでに沈殿しているさまざまな世界経験(ことばの網
の身体化)と付き合わせつつ、他児童たちとの意見交換(読み取りの話し合
い学習)をとおして、共同主観的な承認される共通する表象へと接近するこ
とは当然に可能です。でないと、学校教育の国語(読解)授業は成立しなく
なります。普遍的表象はフィクションでしかないとはいっても、自分の感受
性と他児童の感受性を交換し、お互いの差異性を語り合い、その誤差を埋め
合わせて、お互いに間主観的に了解しあうものを見出していく、こうして独
我論的な読み取りを変容させ、しだいに普遍化したものへと接近していくこ
とは当然に可能です。


         
ここからが音読の話


   以上、書いてきたことは音読授業デザインと関係ないことのように思わ
れがちですが、そうではありません。これまでは音読授業デザインについて
の前座の話でした。
    ここで、やっと音読授業について書くことができます。
  エクリチュ−ルからは声が放逐されています、消失されています。音声
表現するとは、声を蘇生させることです、立ち戻らせることです。音声表現
することによって、読み手一人ひとりの感性はくすぐられ、揺さぶられ、個
人的な地熱の読み声となって発現してきます。読み手一人ひとりの実存を基
盤とする極めて個人的な読み声として発現してきます。文字という普遍性・
一般性から、音声という特殊性・個別性をもった音声として発現してきま
す。つまり、一律ならざる読み声、ポリフォニーとして発現してくるので
す。
  だからといって、音声表現はアナ−キーなカーニバルであってよいとい
うわけではありません。学校という教育機関ではそれを洗練させる指導が期
待されているのです。子ども一人ひとりの個人的で粗野な読み声をより洗練
した音声表現に変容させていく、これが学校教師が教室で果たすべき重要な
役割だといえます。ここに国語授業での音読授業の意義の有効性があるので
す。
   もちろん、学校で教師が児童一人一人の読み声を洗練指導するといっ
ても、それは洗練されたモノフォニーに収斂させていくということではあり
ません。洗練されたポリフォニーにしていくということです。つまり、洗練
することによって、没個性化とか疎外化とかの主体性の喪失にしてしまって
はいけないということです。
    音声表現の洗練学習は主体性の壊乱を共起しますが、それが逆に限りな
主体性の多様化と生成の動因となっていくのです。そのように指導していく
ことが重要な教育的配慮事項なのです。それが音声表現の個性化教育につな
がっていくことになります。
  ラングを作品(テクスト)とすれば、パロールは音声表現(音読、朗
読、表現よみ)に当たります。ラングを曲(楽譜)とすれば、パロールは演
奏に当たります。メルロー・ポンティーは制度化され惰性化された「語られ
た言葉」から、パロールは新しい意味を産出する「語る言葉」であると言い
ました。
  ラングは語られた言葉のフォルムの物質的形態であり、パロールはエク
リチュールの堅苦しさから開放させ、語る主体のいきいきした生命をよみが
えらせるフォルム化活動(意味産出活動)なのです。
  次に、わたしなりのパロール機能の荒削りなスケッチを書いて終わりに
します。
・声は思考スタイル(人格、個性)を反映する。
・声は人格、個性、人柄、知性を顕にする・しぼりだす。
・声は過去の生育歴(すんでいる世界)に規定される。
・声には、野卑な、下品な声(表情)と、高貴な、典雅な声(表情)とがあ
 る。
・声に出さないと、自己を隠蔽する。
・声による他者との通じ合いは、他者との同調のありように左右される。
・声による多種多様な表情づけは、エクリチュールの内容を多種多様に彫琢
 し、変化に富むものにする。時に分からなくし、時に分かり易くし、時に
 情感性(芸術性)豊かにする。
・声は心と体を一つにして表現する。
・声は現在の気分、心理感情に支配される。
・声は自己(他者)の行動を調整し、制御し、発奮させる。
・声は視覚的、触覚的、聴覚的など、五感全体を使って表象を現実化する。
・声は五感全体を使って他者との親密なコミュニケーション関係をつくる。
・声は感情の高揚感を生む。時には催眠(トランス)状態をも生む。
・声にすることで他者との関係ができ、社会的責任が生ずる。
・声はエモーショナルに他者に働きかける。
・声の表情は呼吸(息づかい)に根をもつ。
・声は身体に根をもつからだ言語である。
・声は、語義としての普遍性よりか、体験の固有性を特立させ浮き立たせる。
・ラングはイデアであるが、声(パロール)は多様であり、発話者の数だけ
 の表現性(パフォーマンス)がある。
・バルトは「エクリチュールは、あらゆる声(起源)を破壊する」という。
 再考を要す。
・目で読んで、体に感じて、声に表す。


          
参考資料(2)


  下記は、ロラン・バルトの小論文『作家の死』からの抜粋引用です。ロ
ラン・バルト著、花輪光訳『物語の構造分析』みすず書房、1979年よ
り。

  エクリチュールは、あらゆる声、あらゆる起源を破壊する。エクリチュ
−ルとは、われわれの主体が逃げ去ってしまう、あの中性的なもの、間接的
なものであり、書いている肉体の自己同一性そのものをはじめとして、あら
ゆる自己同一性がそこでは失われることになる、黒くて白いものなのであ
る。(79ぺ)
  
  われわれは今や知っているが、テクストとは、一列に並んだ語から成り
立ち、唯一のいわば神学的な意味(つまり、「作者=神」の《メッセージ》
ということになろう)を出現させるものではない。テクストとは多次元の空
間であって、そこではさまざまなエクリチュ−ルが、結びつき、異議をとな
えあい、そのどれもが起源となることはない。テクストとは、無数にある文
化の中心からやってきた引用の織物である。(85ぺ)
  
  ひとたび「作者」が遠ざけられると、テクストを《解読する》という意
図は、まったく無用になる。あるテクストにある「作者」をあてがうこと
は、そのテクストに歯止めをかけることであり、ある記号内容を与えること
であり、エクリチュ−ルを閉ざすことである。(87ぺ)
  
  一編のテクストは、いくつもの文化からやってくる多元的なエクリチュ
−ルによって構成され、これらのエクリチュ−ルは、互いに対話をおこな
い、他をパロディー化し、異議をとなえあう。しかし、この多元性が収斂す
る場がある。その場とは、作者ではなく、読者である。読者とは、あるエク
リチュ−ルを構成するあらゆる引用が、一つも失われることなく記入される
空間にほかならない。あるテクストの統一性は、テクストの起源ではなく、
テクストの宛て先にある。(88ぺ)


           
最後におまけ


 最後に笑話を二つ、書きます。

   一つめ   「正解は いろいろあると 首相 言い」(首相=小泉さん)

   二つめ   「お化け屋敷の 正体見たりと 国民 言い」



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