先輩教師は語る 10・08・28記 わたしの教師論 (本稿は、児童言語研究会編集の隔月刊誌『国語の授業』編集部から「先輩 教師は語る」というテーマで、「今の若い教師に贈るメッセージ」を書くよ うにという依頼を受けて書いた文章です。『国語の授業』(07年4月発行) に掲載された原稿に若干の補筆を加えています。) 長年教師をしてきて、わたしがあこがれた理想的な教師像をここに書い てみたい。老けた元教師の、酒を飲んで気が大きくなった酔っぱらいの与太 話として聞いていただきたい。若い教師たちに少しばかりの元気を与えるき っかけとなればうれしい。 小役人教師になるな 教師を類別すると、「役人型教師」と「人間型教師」とがある。前者は 小役人教師のことだ。四十五分の時間内をこぎれいにこなす教師だ。後者は 自分の教育実践に安住することなく、より高い教育実践を求めて絶えず研究 開発に努めている教師だ。後者については本稿全体で詳述するので、ここで は小役人教師について書く。 小役人教師とは、いまの立場に安住し、自分の教育実践には問題をお こさず、火事を出さず、さしさわりのない発言で、型通りに仕事をこなす教 師だ。与えられた仕事を器用に、賢くこなしていれば安全かつ楽であり、い いかげんさに寛容で、長年に覚えた自前のボート(技術)で安穏に航海する ことをめざしている教師だ。使い慣れた教育技術を何年も固守して、それを 繰り返している教師だ。旧来のやり方をつつがなくこなして、みんなで渡れ ば怖くないを至上の楽しみとしている教師だ。 小役人気質とは「成功はしなくてよい、失敗はしてはいけない」にある。 わが志の貫徹を望んではいけない、仕事で失敗することを一番に恐れる、に ある。小役人教師とは、現状への懐疑精神が枯渇し、自分の教育実践のどこ に問題があり、どう変革していけばよいかの努力が皆無か希薄な教師だ。権 力への服従という制度化された組織の中にうまく適合して、型通りの手続き で仕事を進めるだけの、そこに生きがいを見出している教師だ。 人間教師たれ 人間教師とは、教えること、伸びる能力高めに信念をもって当たる教師 だ。子どもの可能性を掘り起こすことに熱心な教師だ。知の快楽、労働の快 楽を教える教師だ。子どもの知を刺激し、生きる活力を与え、嬉々として取 り組む仕掛けをつくる教師だ。子どもが人なつっこく寄ってくる教師だ。 人間教師とは、自分の指導技術に満足していない教師だ。自分の教え方 にとまどう教師だ。分からないことを気軽に同僚教師に質問する教師だ。ま た教委主催の各教科研究会、近隣の教育サークル、全国規模の民間教育団体 に積極的に参加し、そこで学んだことを自分の学級に取り入れることに熱心 な教師だ。 小役人教師とは、教委主催の官制研究会にはしかたなしに参加する。官 制研究会は自分のポケットから参加費を支払うことないし、学校から旅費や 参加費が支払われる、行きたくないが研修義務としてあるから義務で仕方な しにただ参加するだけという教師だ。だから研修に身が入らない。本来、研 修とは問題意識を持って積極的に参加するべきもの、身銭を切って参加する べきものである。自分の日常実践のどこに問題の所在があるかを探す、気 づく、知るためある。 小役人教師とは、旧来のやり方をつつがなくこなして、みんなで渡れば 恐くないを至上のやり方と心得ている教師だ。自主的な民間研究団体の研究 会への参加は端から相手にしない教師だ。民間研究会の参加は、身銭を切っ て自分の小遣いから参加費を支払い、旅費を支払い、休日を返上して参加す ることになるから、民間研究会の参加には見向きもしない。 わたしは長年、民間研究会に継続参加し、そこで育てられてきた。身銭 を切って自主的な民間研究会に積極的に参加しよう。研修とか研究とかは、 本来、自主的主体的な実践行為であり、必要にせまられての意欲的積極的な 参加であるべきものだ。自腹で参加すれば、意気込みが違ってくる。自分の お金を払えば、払っただけの収穫を得ようとする。自腹を切れば、元手をか けた分ぐらいは取り返そうとするようになる。食を減らしてやっと捻出した 自腹の金なら、効果は絶大だ。自分の教育技術に満足していない教師なら、 自分が必要とするテーマの研究会には身銭を切っても積極的に参加するはず だ。人間教師は、官制研究会にも民間研究会にも積極的に参加する。 人間教師とは、自分の指導技術を高めることに嬉々とした楽しさと遊び を見出している教師だ。指導技術の習得に熱心なことはもちろん、指導技術 の習得の仕方や方法論を身につけようと努力している教師だ。自分の指導技 術の未熟さを自覚し、創造的実践の継続的な獲得に熱心な教師だ。小役人教 師の、さしさわりのない、制度化された長年の教育技術、そこから常にはみ 出そうとする、知の白熱した渦巻きの中に自分を置いて実践している、どこ か幼児性の刻印を帯びた意欲的な教師だ。自分の実力を高く買って背伸びし た行動をする、なまいきさを含んだ教師だ。 欠損感を持とう 毎日の授業の中には、うまくいくところ、うまくいかないところが出て くる。うまく いったとしても、更によい方法があるのを知らないこともあ る。種々の方法でやってみても、どうもうまくいかないこともある。ひっか かるところ、気になるところ、 これでいいのかという自分の教育技術に欠 損感や不全感をもつことがたくさん出てくる。 うまくいかないなあ、これはいかんなあ、という実感をもつことはとて も重要だ。こんな指導でいいのだろうか、何だか分からないが腑に落ちない、 何か割り切れないところ、学級児童がうまくのってこないところ、それを自 問自答したり、同僚教師たちに語りかけたり問いかけたりしてみよう。また、 同じ問題意識で探究している論文(著書)を探しもとめ、彼らからも教えを 受けよう。自分の教室実践を反省し、新たなヒントを得て明日の実践をふく らましていくようにしよう。 気軽に同僚教師に質問してみよう。質問するとは、自分から主体的に思 考することを開始した証拠である。同僚教師に質問を投げかけて、行動を 起こすこと、これからスタートしなければ、何も始まらない。担任教師一人 で抱え込まないことだ。一人で抱え込むと、孤立感を深めるだけ、教師崩壊 へと向かうだけだ。これは生徒指導だけでなく、教科指導でも同じことだ。 自分の身体から内発してくる不確実な、ぼんやりした不全感、欠損感の 体験の意識の流れをありのままに、正直にコトバに出してみよう。欠損感に こだわって、それを執念深く、コトバで紡ぎ出してみよう。コトバを生むこ と、これ、とってもとっても重要です。いま、何か自分が紡ぎ出したコトバ に欠損感のリアリティがなくてズレてるって気がすることも多くあるだろう。 そこにこだわっていると、二週間ぐらいもこだわると、ハッと気がつくこと も出てくる。 何かうまくいかないという実感をどれだけ強く深く意識するか、そのま ま放っておかないことが、小役人教師と人間教師との分かれ目だ。自分の教 育技術に問題があるのに、問題を問題と意識しない教師がいる。これがいち ばん手に負えない教師だ。どうにもしようがない困った教師だ。 もう一度書こう。小役人教師と人間教師との分かれ目は、自分の教育実 践に欠損感、不全感を感じているかどうかだ。自分の普段の実践に不全感や 欠損感をもち、自分の教育実践批判的にとらえる力、これをパワーに自らを 奮い立たせて自己開示と企投行動を積極的に起こすかどうかだ。自分の慣的 な教育実践の枠組みを内破しようとする強い意志をもって子どもの指導に当 たっているかどうかだ。学校社会という官僚組織の忠実な歯車となるよりは、 流浪の詩人としての教師をめざすかどうかだ。どちらを選んでも給料は変わ らない。小役人教師は安易な道を選択する。 すぐれた教師は、自分の授業の欠損・失敗を隠蔽しない。知らんぷりし てほっぽっておかない。真正面からはりついて執拗に向かい合う。欠損・失 敗の事例をこまかに報告して知り合い教師に相談する。「なぜ」と問い「ど うすれば」を求め、衝突・転換・創造をつねに生み出して努力する。アイデ ンテティを撹乱することが、新しいものを生み出すエネルギーとなるのだ。 こうした多様性を求めることが、あなたの教育実践の活性化とアイデアを生 む。 (本HPのエッセイ「読書からの落穂ひろい」の最後尾、有吉佐和子『夕陽ヶ 丘三号館』の引用会話文を参照のこと) 硬直化のもたらすもの わたしたちは母体から誕生してこのかた、親から学校から社会からあら ゆる固定観念を、長い年月を経てかけられた催眠術のように知らずのうちに 身につけて生きている。固定観念は自動化し、見えなくなり、気づかなくな っている。 慣れとは恐ろしいもので、いつのまにか平気になってしまう。しまいに は、これがないと寂しくなってしまう。学校という業界の中で長い経験を積 んでいると、学校という業界体質がしだいに身体に染みついてしまう。ある 一定のステレオタイプのパターンでしか考えなくなる、行動しなくなる。も ちろん、その体質は制度化した効率としての行動パターンであり、多数派が 常識となり、障碍や隘路や危険をあらかじめ回避された行動となっており、 仕事や作業はスムーズに安全に過ぎていくでしょう。が、これに不感症にな っていることが最大の問題なのだ。従来の枠組みを捨て去り、新たな視点か ら今までとは違った光を見出すことできなくなってしまう。事なかれ主義を モットーに日常の教育実践を安全にこなすことだけに生きがいを見出す小役 人教師であってはいけない。自分の実践がまちがっているんじゃなかろうか と、もたもたしながら、そこに明るく楽しく喜びを見出すている教師であり たいものだ。 慣例化し、オートマチックに手垢のついた言葉と行動しか使われなくな った紋切型の硬直化と狭小化は、学校体質や教育技術だけではない。これら のことは、教委主催の各教科研究会、近隣の教育サークル、全国規模の民間 教育研究団体にもみられる体質だ。各研究団体の「長年こうやってきたから、 こうあるべきだ」というしきたり、思い込み、思い入れが自閉化現象をもた らすことになる。知らず知らずのうちに慣れてしまった業界のしきたり、慣 習、業界言葉と行動は恐ろしい。柔軟性や融通性を狭め、新しい枠組作りの 足かせとなり、結果的には本質を大きくはずす落とし穴となってしまう。 業界の慣例、業界言葉(その学校・研究会・サークル・学会の内部だけ に通用している独自な業界用語)が自明化されると、自らの過去を廃棄する ことに臆病になり、コード転換を恐れ、「このしきたりがわが業界(学校、 研究会、サークル・学会)の伝統だ」となり、更新の手続きをおこたった劣 化が長じた陋習となってしまう。こうした仲間内のムラ社会の陋習にどっぷ りとはまり込んでしまうしまうことは、個性ある人間教師のすることではな い。 語り合う仲間をもとう 語り合う仲間をもつことはとても重要だ。語り合う仲間は、あなたの職 場にいるはずだ。自分から教えを乞うための語りかけをしない教師がいる。 あの同僚教師に質問してもよい答えは返ってこない、と初めから決めてかか って教えを乞うことをしない教師がいる。同僚教師に質問することに臆病に なる、これはいけない。学級児童の問題行動の出現や指導方法、学級の生活 指導上の経営方針、学級崩壊の萌芽や兆候などはもちろんのこと、各教科指 導上の心配事や悩み事も、自分一人で問題を抱え込まないことだ。自分一人 で孤立しないことだ。一人で抱え込んだら、自分だけで問題を背負いこんだ ら、精神的苦悩で追い詰められ、あなたは不登校教師になってしまうだろう。 やがて病気休職者や依願退職者への道を進むことになるだろう。校長や教頭 にも気おくれせずに気軽に相談しよう、質問しよう。校長や教頭や同僚教師 に報告し相談するだけで半分は気が楽になる。自分一人だけで問題を抱え込 まないことだ。 自分の学級内で問題行動をもつ児童への対応の仕方は、まず同学年の教 師たちに相談しよう。問題行動のありのままを同学年教師に報告し、同学年 教師の連携と協力と積極的な支援、そして協働によって対応していくように しよう。必要によっては学校全体の教師たちの報告し、協力を得ることも重 要だ。問題行動をもつ児童は、その行動が目立つから、学年全体や学校全体 で目立っており、同学年教師だけでなく、学校全体の教師たちもそれとなく 感ずいていることが多い。他教師が担任教師の先を勝手に指導したり、学校 全体がばらばらな指導になってはいけない。 担任一人で抱え込み、悩まないことは生徒指導だけでなく、教科指導に おいても同様だ。教科指導で分からないことは、同僚教師に質問することだ。 質問するとは自分から思考することを開始した証拠である。ちょっと気 軽に同僚教師に質問してみよう。質問魔となることだ。十分な答えが返って こないかもしれない。しかし、質問した同僚教師と深い人間的きずなが生ま れることうけあいだ。どこに問題の所在があるかを話し合い、一緒に資料 (方法)探しを始めればよい。後日「こんな方法があったよ」と知らせ合う ことにもなる。後日、彼からあなたに質問してくるかもしれない。分からん ことは分からないと答え、二人でそれが分かる資料がどこにあるか、資料探 しの方法から語り合うようにすればよい。 語り合う仲間は、近隣の教育サークルや全国規模の民間教育研究団体 の仲間にもいる。彼らとは距離は離れているが、メールや電話で話すことは 容易にできる。彼らは同好の同志たちである。気安く、真剣に語り合いに応 じてくれるだろう。こうした仲間と語り合うことで、あなたの教育実践の問 題点のかなりの部分は解決できるし、最良のヒントを得ることだってあるだ ろう。目の前の子どもの実態・実感からスタートして語り合おう。欲しいの はありのままの児童実態であり、実感である。指導方法のどこに問題がある かを語り合っていき、しだいに汎用性の高い技術や局面の打開を見出してい くようにしていくことだ。 語り合う仲間をもつことで、あなたの勉強・思索は飛躍的に前進するだ ろう。「聞くは一時の恥、聞かぬは一生の恥」ということわざがある。よけ いなプライドを捨てることがスタートだ。自分の教育実践の切実な問題とし て真剣に語りかければ、単なる付和雷同の無駄話とはならず、お互いに切磋 琢磨する語り合いとなるだろう。真の語り合いは、オープンマインドと精神 のディスクロージャーから始まる。語り合うことで導き出される答えや結果 も大切だが、語り合うことを求めるそのことがあなたの教師変容に大きな効 果をもたらすはずだ。 一匹狼の精神をもとう 教育実践というものは、所詮、究極的には自分一人だけの学級児童との 格闘である。自分一人だけの孤独な思索や実践や試行である。優れた実践家 から教えられた指導方法であっても、自分の学級児童に適用した場合にうま くいくとは限らない。それぞれの学級児童の特殊性があるからだ。児童が違 えば、一人ひとりの反応が違ってくる。授業組織や焦点化や整理の仕方が違 ってくる。研究というものは、われ一人の思索や実践を一般化していくこと でしかない。 「師をまねるな。師が見ていたものを求めよ」という言葉がある。師を 模倣することだけに腐心するようになれば、あなたの教育実践は劣化し、堕 落していくだろう。師のなぞりではなく、師の視線や欲求や感動、師が実現 しようと希求していた情熱とその追求の仕方を学ぶようにしよう。師から教 えられる知識なんて30%だ。あとの70%は常日頃、師が語るコトバの端 端、行動の端端から盗み取る追求の仕方、論理の組み立て方、思考操作方法 、偏屈なまでのくいつきのしつこさ、まとめ方などを、師の雰囲気から自分 の身体を通して身につけていくことである。ここでの師とは、直接に教え を受けた恩師、同僚教師というだけでなく、これまでに読んだ他研究者たち の諸著書、論文も含む。惚れこんだひとりの研究者の諸著書、論文を徹底し て読みこむことは効果大である。 師を否定すること、つまり師を乗り越えることをめざそう。新しい地平 へと飛び出そう。構えず、気負わず、われ一人だけの道を、ゆっくりでよし、 愚直に正直に前進していこう。「継続は力」である。 偉大なる創造者は、すべて異端者、一匹狼、無頼漢であった。仏教では 法然や日蓮、科学者ではコペルニクスやガリレオ、心理学者ではフロイドや ラカン、近い政治家では小泉純一郎がそうであった。物分かりのよい常識べっ たりではいけない。融通の利かない頑固一徹さがあったほうがよい。何も好 きこのんで頑固一徹である必要はないが、ずるずると業界内部の慣行(空気) にどっぷりとつかって満足し、そこに生きがいを見い出しているだけではい けない。 異端の道は白眼視され、感情的な反発を買い、孤独で厳しい道であるが、 この道を進むしか方法はない。孤独への覚悟ができているならば何も恐れる ものはない。ひたすら自分の信ずる道を歩めばよい。賛同者もたくさんいる。 わたしの言いたいことは、偏屈かつ偏狭な独立自尊人間たれということでは ない。吉本隆明がいう「自立の思想的拠点」にしかと立脚して教師生活を送 ろうということである。 越境する知の重要さ 子どもは何か面白いことはないかなあと、いつもキョロキョロしていて 好奇心の固まりだ。ひとっところにじっとしていなくて、ポンポンと横へ跳 ぶ身軽さがある。露悪な意志を充満させているいたずら小僧たちだ。このフ ットワークの軽さを、子どもから真剣に学ばなければならない。未知のもの へと気軽に手を伸ばして自分を投企する好奇心旺盛な行動力を学ばなければ ならない。好奇心過剰で、気軽で浮気性の行動力を学ばなければならない。 組織人は、組織の画一化、制度化に固執していれば安穏かつ安全だ。教 師という職業は、とかく常識を破る非常識には脆弱である。しかし、研修や 研究を深めていくには、はみだし心、やくざな心、ならず者の精神、放浪癖 のようなものがなければならない。浮遊感に肯定的で、横断的かつ遊牧民的 思考に魅惑的なスリリングを見出し、越境的思考を楽しむ教師でありたいも のだ。フットワーク軽く、常に授業に楽しみを見出す、気楽な教師でありた いものだ。 人類の知の遺産は、もっともらしい理論と物語でしかないと考えたほう がよい。戦略的に他領域へ大胆に侵入して自分の考えを絶対化させないこと だ。旧套を墨守するのでなく、領域の境界をはみだすことで多様な創造の萌 芽を見出すことが大切だ。自分の守備範囲とは全く関連しない他領域からの 視点で思考してみよう。新しい視点からの副産物に興奮を覚え、快楽を味わ う楽しみは何とも言えない。角度を変えた見方、裏から見る、斜めから見る、 すねた見方、やくざな見方で、ゆらぎの中に今まで見えなかった新しい萌芽 と地平を見出すことができるようになるだろう。 こうして制度化された身体を逸脱し、通常では結びつかない異種交配に よって自明性をつきくずすことだ。これが硬直化した思考に流動性をうなが すことになる。 偏執狂となってこだわろう 自分の身にひきつけて考えたり、言ったり、子どもと接すことが重要だ。 自分の顔をもった教育実践や発信をしていくことだ。実践課題は自分の学級 児童の授業実態から見出すことだ。子どもの実態にこだわって自分の指導技 術を開発していくことだ。 自分の授業実践に不満感をもつこと、疑うこと、十分だと思わないこと が大切だ。この不全感、欠損感をずうっと引きずって、それにこだわって思 考すること、他教師に質問したり書物を読んだりすることも大切だ。自分の 指導技術を自身の枠組みから脱皮すること、相対化させることだ。無限の差 異化と拡散する異質なもののポリフォニーの声を常にお祭りのように楽しむ 態度で毎日の授業に生きがいを見出すことだ。未熟さがあって当然と、毎日 の授業を楽しむことだ。 他教師の実践論文を読むとき、インタラクティヴな遊び心にあふれた読 みをして楽しもう。異議申し立てをしつつ、自分なりの創造力を加えた新た な指導技術の再構成・再発見をしようという積極的な態度で楽しんで読み進 めていこう。 今の自分の実践課題は何か。問題設定から逃避しないことだ。何が欠け ているか。問題の所在はどこにあるか。自分の実践課題を掘り起こし、失敗 授業に固執して、そこにこだわって、徹底的に執着して、偏執患者のように マニアックに取りつかれて、失敗授業を通した実践データーを集めて、理論 構成していくようにしよう。安易な型通りの解決法でなく、あくまでも学級 児童の実態に即して自分なりのアイデアを見い出すことにこだわって継続思 考をしていくようにしよう。それを苦痛と思わすに、ゆとりと楽しさと喜び の気持ちで遊び戯れつつ継続思考していくようにしよう。そのことを気楽に 楽しむことだ。 自分の実践課題を回避して、他人事として受け流し、面倒なことは故意 に避けて、適当にとりつくろって毎日の授業をしていくだけの教師は、最も 軽蔑すべき教師だ。偏執狂となってこだわってはみたが、すぐ断念して、あ っさりさばさばしてしまう教師も同類教師だ。 資料は磁場のように集まってくる 自分の教育技術の向上は、教師経験の年月を重ねるだけで身につくもの ではない。長年にわたる研鑽継続が必要である。うまく教えられないなあ、 子どもが分かってくれないなあ、どう指導したらよいものか、という悩みや 疑問をもつことがスタートだ。小役人の教師には、ここが希薄か皆無である。 悩みや疑問への回答は、先行研究で解決済みであるかもしれないし、まだ未 解決であるかもしれない。まず勤務校の同僚教師に質問することだ。サーク ルで知り合った仲間教師へも質問することだ。すぐ解決できる問題、できな い問題があるだろう。 できない問題は、関連する書物(研究物、実践記録)を探して読まなけ ればならない。関連書物は最初から最後までていねいに読む必要はない。読 むことが自己目的化してはいけない。悩みや疑問に直接に答えるページを 探し出して、辞書を引くように読むことだ。文章を読むということは、単な る知識獲得だけでなく、自分の教師生活(授業実践)活用すること、役立て る使い方が重要だ。多量の知識を獲得したで終わるのでなく、知識が生きて る・生活している、まで活用する読み方が重要だ。 現在の情報化社会の情報氾濫の中では、自分の実践課題を解決するデー ターを集めようと思ったら、その熱意さえあれば磁石の磁場のように収集者 のところへ集まってくるものだ。集中的に継続的にそれにこだわって、時間 をかけて収集する熱意さえあればだ。個人ひとりでできる研究範囲は限りが ある。各人の守備範囲を守って、一生涯かけて追及していけば、データー集 めに終わりはない。一つの疑問が解決されても、更につぎの疑問が出てく る。未知の領域が次々に現れ出てくるのは当然だ。次々と現れ出る未知の事 柄を発見できた喜びに心を躍らすことが、教師生活の至福の楽しみと感じる ようでありたい。 現在の学校教師たちは忙しすぎる現状にある。自分の学級児童の学力向 上に直接にかかわる本来の仕事の時間が取れない実態がある。事務的な雑務 や雑用その他に打合せや会議の時間が多すぎる。自分の直接の課題意識から 遠く離れた、義務で参加しなければならない研修とか打合せという名の会議 が多すぎる。学級児童とは関わらない学校や対外的な事務処理仕事が多すぎ る。そのため、授業準備も含め教師本来の学級指導、教科指導の時間が取れ ない現実がある。 学級児童に直接に関わる仕事が犠牲になっている今の教育現場は大きな 問題がある。教師の雑務、雑用を減らすには、一方では教職員組合の活動を とおした教育諸条件整備の運動も必要だ。各教師の教材研究や学級事務の自 由時間が十全に確保でき、教師本来の活動が十全に開花させる運動にも当然 に熱心であるべきだ。最近の若い教師は組合活動に不熱心だと聞く。教師の 仲間力・団結力で問題を解決する方法の外に、よい解決方法があればよいが、 ないでしょう。今のところそれ以上の方法はどこにも提出されていないし、 実行されてもいない。議論し、対話し、連帯する生成的な労働環境を作り出 すことだ。傍観者となって、すねて、いじけて、ひがんで、投げやりに逃避 した、それで自己満足してる教師の隠遁生活はよくない。ニヒリズムや相対 主義に陥って、あなたのアイデンテティーとフェアネスをうまく抜き取られ 呑み込まれてしまった教師になってはいけない。これこそが小役人教師だ。 多忙だからといって自分の学級児童の仕事・研修・研究をおろそかにし ていいわけがない。さしあたっては、私の経験からいうと、学級児童に直接 かかわらない雑務はできるだけ排除すること、回避することだ。それらは要 領よく処理すること、手際よく要領よく片づけてしまう方法を見出すこと、 短時間で処理する知恵を見出すこと、できるだけ関わらないようにすること だ。小役人教師は、ここぞとばかりに学校管理業務にワイシャツの袖をたく しあげて忙しい忙しいと言いながら、そこに教師としての生きがいと歓びを 見出してる姿をわたしはたくさん見てきた。 職場の教師間の人間関係には、いやなこと、くだらんことがある。右に 転げても左の転げても、どっちでもいいこと、ごたごたしことにけっこう 時間をつぶすこともある。腹立つこともある。しかし、そういうことには腹 を立てないこと、知らんぷりをすること、かかわらないようにすること、軽 く受け流して気楽にがまんすること、早く決済してしまうことだ。快活に受 け流して、済ましてしまうことだ。くだらんことにエネルギーを無駄に使う 時間がもったいない。精神衛生上もよくない。 わたしのデーターの収集源は、(市立、都立、国会)図書館の書籍や雑 誌や紀要の調べ、それにウェブサイトや直接取材・質問などだ。図書館のあ るべき本棚になくて、ぜんぜん内容の違う本棚の本から強力資料を見出すこ とがたくさんある。その時の猥雑な恍惚感といったら言葉に表せないほどう れしい。 問いと答えのダイレクトな資料だけでなく、領域的には連関しな い資料から思わぬ副産物が生まれることもある。兆候的な資料、学際的な資 料を集め、再構造化することで違った視点から問題提示と解答を得ることも たくさんある。 昨今の学習指導要領は「生きる力育て」が主要な柱となっている。「生 きる力」とは、「自ら考え、自ら学ぶ力」のことであり、よき教師は知識を 詰め込むことよりも、授業をとおして知的好奇心と勉強の仕方と独学の仕方 を身につけさせることに熱心になる。知識を詰め込むよりも、自ら考え、自 ら学ぶ学び方、追求の方法を詰め込むこと、つまり肉体化させることだ。教 師自身が学級児童の前で、自ら考え、自ら追求している行動や姿、つまり、 背中を見せることだ。小役人教師には、これが脆弱で、「生きる力育て」の 指導も脆弱になるのが当然だ。 データー集めにカード利用の方法は役立つ。この方法は、わたしが新米 教師だったころ所属していた民間研究団体「日本話し言葉教育研究会」で 故・大久保忠利(都立大教授)さん紹介してくれた方法だ。三十年ほど前の ことだ。ある時、大久保さんがカバンの中から大量の自分作成のカードを机 上にドサリと置いて説明してくれた。大部のカードを会場まで持ち運ぶにた いへんだったろうに。A4のノートを半分に裁断し、一枚に一項目を書き入 れたカードを見せてくれた。日常の授業講義や、読んだ論文から得たデータ ーや新たに浮かんだ自前のヒント、あるいは散歩中や歯磨き中や歩行中や小 便中にひょいと浮かんだ断片ヒントをカードに、その場で即座にメモる。の ちに類別してクリップでとめる。同類のカードに語らしめ、新しい知を見出 していく川喜多二郎さん提唱の「発想法」というやり方だ。わたしは今でも この方法を使って論文や本を書いている。 (資料集めの苦労話が書いてある書物を二冊紹介します。唐沢富太郎『執念』 (講談社、昭和45)と、石戸谷哲夫・門脇厚司『日本教員社会史研究』(亜紀 書房、1981)の「はしがきに代えて、教員史研究覚書)の個所。) 実践記録や論文や本の書き方 実践記録や論文にまとめなくてもよい、本にしなくてもよい、文章に書 くなんて時間ばかりがかかって、そんなのは時間のムダだと考える人もいる でしょう。 わたしは、そうは思いません。書くことの効用はたくさんあります。ア タマの中に残しておくだけでは時間がたつにつれて忘れてしまいます。単語 メモで残しておくのもよいですが、文(主+述)にすることで対象を客観化 して把握でき、明確に定着できるようになります。文章(文+文)にするこ とで、あいまいだった考えに深味も加わり奥行も出てきます。これまで気づ かなかった新しいアイデアも生まれ出てくることがけっこうあり、一人でほ くそえみ、満足度が増加します。書いた文章を発表する・しないは、本人の 自由です。発表する場所は、紙媒体や電子媒体などたくさんあるでしょう。 書けるところから書き始めよう。思い浮かんだ個所、気がのってきた個 所、ふくらんできた個所、長い文章でなくてよい、二、三行でもよい、一段 落でも二段落でもよい、カード化もしよう、まとまったものを書こうとして はだめだ、思い浮かんだことを逃さず、単語メモやメモ風の文章で書きため ていけば、それがやがて授業記録や論文や本になる。 書くことで思考が明確になる。書かなければ一歩も進まない。思い浮か んだことは直ぐメモる癖をつけよう。いつでも紙片と短い鉛筆を携帯し、メ モ魔になることだ。メモっていく中で考えの足りない個所が明確になってく る。今後に調べる事柄、読むべき本や資料、実践方法が明確になってくる。 更なるデーター集めや授業試行を重ねていくようになる。カオスから言葉を 手繰りよせ、紡ぎだす楽しさ、この快楽は何とも言えないものがある。書く 重圧と陣痛の苦しみを楽しむことだ。今浮かんだアイデアは斬新だ、すごい と一人でほくそ笑む快楽は楽しい。数日たって、それが駄弁、妄言だったと 気づく楽しみも多くある。 自分なりの見方をどこまでも押し通してみよう。ある個人や団体と同じ 文章ならわざわざ書く必要はない。文章を書くということは自分の正直な主 張を、だれに遠慮もせずに発信する行為だ。書くとは、多くの人々と違うか ら、自分だけの見方を発表することだ。発想の新鮮なプロジェクトは必須条 件である。 ある個人や仮想敵を作って勝負を仕掛けることもあってよい。個人なり、 グループの批判を想定し、それを乗り越えることをねらって発信することも あってよい。こうした文章は敵も作るが、味方も作る。文章を発表するとは、 孤独で挑発的な営為なのだ。 他人の著書や論文を読んだら、何が書いてあるか・内容だけでなく、ど のように書いてあるか・論の進め方を学ぼう。どんなデーターをあげている か。どんな組み立て方をしているか、このデーターはどこから収集している か。表現の仕方・書きぶりはどうか。文章のうまさ、注のつけ方、引用のし かたはどうか。全体の文章構成はどうか。記述のしかたの見事さの秘密・装 置・からくりを覗き見て、著者が記述していた現場(舞台裏)にまで立ち会 って思考し分析してみよう、そこから学ぶことはとても大きい。 あなたは「この教育論文・実践記録は、いいなあ」と思ったことはあ りますか。こうした論文を、内容面だけでなく、書き方・書きぶり・論の進 め方の面のどこがどうすぐれているかを分析してみよう。繰り返し分析し、 音読してみよう。繰り返し音読すると、自分の身体に染み込んできます、肉 体化してきます。その文章の一部分を模倣した文章練習(習作)を書いてみ よう、遊びながら楽しんで書いてみるのもよい勉強になる。 指導現場は問題噴出・データ噴出の「宝の山」だ 実践記録や論文を書くには、データーを収集することがとても重要だ。 どれだけ必要な(関連する)データーを多く持っているかで八割は決まって しまう。データーが少なくては一歩も進まない。常日頃からデーター収集に 心がけ、データー収集に目を光らせておくようにしよう。いつもポケットに 紙片と鉛筆を入れておき、どんなつまらないことでも気づいたこと・浮かん だことは即座にメモる癖をつけておこう。最近は、モバイルフォンのメモ帳 機能の利用ができるようになり、とても便利になった。 本を読んでいる時、授業してる時、テレビを見てる時、新聞を読んでい る時、他人の話を聞いている時、散歩してる時、歯磨きしてる時、おしっこ してる時など、ひょいと浮かんだ・触発されてきた考え・所懐・ヒント・ア イデアなどを忘れないうちに、その場で即座に書き留めておこう。メモる癖 をつけておこう。 あなたは、子どもと一緒にいる時間の一瞬一瞬に驚きと発見と感動を見 出すようにいつも新鮮な気持ちで接していますか。文章を書くには、情報収 集力、気づき力、観察力、感応力、ハンター力がとっても大切です。アンテ ナの受信感度を最大限に上げて、鷹のような爪を持ったハンター力でいつも 子どもと接することです。あなた、いつも、そういう努力と気づかいを持っ て接していますか。 実践記録や論文を書くには、データー量で決まる。つまらんことでもよい、 選り好みしないでとにかくメモることだ。あとで思い出そうとしても、思い 出せないことが殆どだ、その場で即座にメモることが、とっても大切だ。自 分の授業実践に不全感、欠損感をもっていれば、メモるデーターは磁場のよ うに集まってくるはずだ。不全感、欠損感をもっていなければ、当然にメモ る内容は浮かび出てこない。 文章執筆を始める時は、まずテーマ設定にそって使うデーター、使わな いデーターをふるい分ける。使用データーをどう組み立てていくか、並べか えていくか、構造化していくかを考え、書ける個所から書き出していこう。 1ページや第一章から順繰りに書き始めるのは稚拙な書き方、未熟な書き方 だ。途中からでも、書けるところから、書きやすいところから書き出してい くことが重要だ。 わたしが本HPで書いているエッセイ『知覚の現象学1』序文は、メル ロー=ポンティがこの書物の本論すべてを書きあげた最後に執筆した論文だ そうだ。序文が最後の執筆になるということはよくあることだ。松尾芭蕉 『奥の細道』の冒頭にある「行く春や鳥啼く魚の目は泪」の句は、奥の細道 の旅を終えた後に新たに作り加えられたものだそうだ。わたしはこれまで数 十冊の本作りをしてきたが、すべて「あとがき」執筆が先に完了し、最後に 「まえがき」を書いてきた。そのほうが書きやすいし、「まえがき」に何を 書くか、随分と悩むことが多かった。 原稿執筆は、自分で書き易いところ、書けるところから書いていこう。 考えが出来上がってから書くのでなく、書きながら考えて、一応書いてから 考えて、そして補強していくようにします。あなたは低学年児童に「だまっ て考えなさい」と指示はしないでしょう。だまっては考えられないのです。 「だまって、ひとり言しながら考えなさい、聞きなさい」と指示することで しょう。「考える」とは、アタマの中でひとり言することです。執筆は、ひ とり言しながら書いていくようにしましょう。うんとひとり言しながら書い ていきましょう。一度ペンがすべりだしたら、どしどし書いていきましょう。 そこでペンを止めないことです。電話がかかってきたら知らんぷりするぐら いでよろしい。電話に出たら、そこで思考は停止してしまいます。いちど思 考停止で書き止まったら、他の書けるところ、他の書けるところへと飛び地 で書いていくようにします。フットワーク軽くして書けるところへとあっち こっちと飛び地して書いていくようにします。 途中々々のピース原稿は、その都度、挟み込みの原稿(下書き)をセロ テープで前後を貼り付けていけばよい。1ページの原稿用紙がセロテープの 挟み込みの貼り付けがあっちこっちにあって、2メートル近くになることも よくある。途中でページが増えて、ページ順番の書き換えもよくあった。最 近はパソコンをうちながら執筆するようになり、コピー・アンド・ペースト 利用などで大変に便利になった。 偉い「教育専門家」の言説(フーコーが「知の権力」と呼ぶべきもの) に左右されることなく、あくまでも自分の日常の教育実践の実感にこだわっ て、自分の実感を全面的に信頼して、しつこくそこを拾い上げて、現象学的 に記述していくようにする。あなたの日常の教育実践・体験の細やかなヒダ のすみずみにまで視線を差し込み、その隙間に見え隠れして生ずる断片的な 気づきのデーターを拾い集めていくようにする。テーマに結びつくあなたの 教育実践のあれこれを想起し、たまゆらの中をかすめるあわいの中で生ずる 自分だけの教育実践の確たる実感、うっすらとした身体感覚・体感の中から コトバを紡ぎ出していくようにする。 それまで自分が作り上げた従来の考えの自明性をいったん留保しよう。 これがフッサールのいう現象学的還元だ。物は、欲望(身体)のありように 相関するものとしてしか現前してこないのだから、浮かんできた事柄をいっ たんすべて受容してみよう。自分の内側に向かって素直に問いかけてみまし ょう。子どもとの生きている世界は、すでにコトバで表現されたものよりも 豊饒であることを承知しておくことだ。新たに浮んできた事柄の由来を確か め直し、一から考え直して、新たに構築していくようにしましょう。強く引 かれるところを大切にして、こうとしか言えない実感(確信)のコトバを紡 ぎ出していくようにしましょう。子どもとの生きている世界によって、自分 の思考・思想が構成され、うながされるようにして記述していくことが重要 だ。 それを、組織だった記述へと構築していくようにしよう。ストーリー性 をもった論稿へと練り上げていくようにする。こうして別の新しい関係に編 み直す論稿にすることを見果てぬ夢として、野望をもって自信をもって新し い地平を記述していくようにしましょう。 最後に、音読して推敲してみよう。気持ちよく、いい気分で、いいリズ ム調子で音読ができたら合格だ。リズム調子が悪い音読個所は自分の思い (表現意図)が十分に文章化されていない個所だ。だから、その個所はもう 一押し考えを深めて、更なる修正を加えていこう。一週間ぐらいほっぽって おき、風を通してから、もう一度、表現よみして、リズム調子よく、いい気 分で読めるかどうかを調べてよう。 以上、講釈師が講釈をたれているみたいな説教調の文章になってしまっ た。気に障ったら、ご容赦を願いたい。よく読むと自分自身に向けた文章で あることに気づく。だが、わたしは、「ピンピン・コロリ」と散りいくだけ の命である。「ピンピン・コロリ」と散ることが、悲願 である。が、この 悲願が思い通りになるかどうか。こればかりは神様にしか分からない。 |
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