暗誦教育史の素描(16) 11・01・26記 素読授業の実際と子育て観(1) 第一節 素読とは、どんな教え方? 「素読」とは、どんな読み方なのでしょうか。どんな教え方なのでしょう か。世間一般には「意味内容の理解はどうでもよく、ただひたすらに機械的 に文章をそら読みで声に出して読むこと」という理解があります。 国語辞書を調べてみました。四冊の国語辞書で調べてみました。下記のよ うに書いてありました。 。 ●広辞苑・第五版(岩波書店) 文章の意義の理解はさておいて、まず文字だけを声にたてて読むこ と。漢文学習の初歩とされた。「論語を──する」 ●大辞林・三版(三省堂) 意味を考えないで文字だけを声に出して読むこと。そよみ。すよみ。 ●国語大辞典・新装版一版(小学館) 書物の意味内容を考えることなく、ただ文字だけを音読すること。そ よみ。すよみ。 ●江戸語辞典(東京堂出版) 書物を読み習うとき、意義を解するのでなく、文字だけを声をたてて 読むこと。 上記の辞書には「文章の意義の理解はさておいて」とか「書物の意味内 容を考えることなく」とか書いてあります。まとめると「文章の意義を解す ることでなく、文字だけを音読する」学習方法と了解してよさそうです。 ところが、下記の二人の学者の著書には「素読を、意味にも内容にもか まわず、ただ棒読み・棒暗記だけの作業と解してはならない。」と書いてあ ります。以下すべて茶色文字は引用してる文章です。 石川謙『日本学校史の研究』(日本図書センター、昭52)211ぺより引用 素読は漢学をまなぶに当たっていちばん初めにぶつかる学習方法で、声 をあげて文字を読み、文章を読む仕事である。がしかし素読というのは、意 味にも内容にもお構いなしに棒読み・棒暗記をする仕事だとのみ解してはな らぬ。同じ悪という字でも「お」と読む時と「あく」と読む場合とでは意味 がまるでちがうし、殺という字も「さい」と「さつ」との読み方の相違で、 さす意味がまったく別になる。意味を抜きにした棒読み、棒暗記のあろうは ずがない。ことに近世のわが国で行われた素読というのは、漢文(という外 国文)を国文化して読む作業、意味を読み取る作業であったから、句読の切 り方、訓点(読みがな、送りがな)附け方次第で、文章の意味がどのように でもかわるのである。 石川松太郎『藩校と寺子屋』(教育社、昭53)76ぺより引用 素読は、漢学を学ぶにあたっていちばんはじめにとりかかる学習内容 で、声をあげて文字を読み文章をたどる作業である。けれども素読を、意味 にも内容にもかまわず、ただ棒読み・棒暗記だけの作業と解してはならな い。同じ「悪」という字でも「お」と読むのと「あ」と読むのとでは意味が まるでちがうし、「殺」という字も「さい」と「さつ」との読みかたの相違 で、意味がまったく別になる。とりわけ近世で行われた素読というのは、漢 文(とりわけ外国文)を国文化して読む作業、意味を読みとる作業だったか ら、句読のきり方、訓点のつけかた次第で、文章の意味がどのようにでもか わるのである。 二人の学者の文章を読むと、同一人物が書いた文章みたいに酷似してい ますが、ここではそれは重要なことはなく、「素読は、ただ棒読み・棒暗記 だけの作業ではなかった」と藩校・寺子屋の研究の第一人者の二人の学者が 書いていることです。二人は親子、謙(父)、松太郎(子)と、あとで調べ て分かった。 荒木が考えるに、これが一般的だったとはいささかの疑問を感じます。 「ただ棒読み・棒暗記だけの作業でなかった」と一般化して記述できるま でに断言するのはいささか無理があろうと考えます。当時の「素読」の実際 の授業事例を書いた資料をわたしは多く知らないし、実際の授業の様子を記 した資料も多くは読んでない。私にも確信に満ちたことは言えませんが、藩校 の教師、寺子屋の教師の素読の指導はいろいろな方法、多様な方法だったの ではないかと想像できます。指導者によって、全く語義の解釈を入れなかっ た教師もいただろう、語義の解釈を少々入れた教師、かなり入れた教師、全 然入れなかった教師、さまざまだっただろうことは想像できます。が、大多 数はあまり入れなかったのではと想像します。 当時の藩校や寺子屋の開設の仕方、その数の多さから考えて、日本全国に あまねく存在したこれら藩校、寺子屋のことから考えて、教師の数の多さ、 教師の漢学の素養・能力の程度にはかなりのばらつきがあったことが想像で きます。藩校の教師は別(注記)にして、とくに寺子屋には4,5人の子ど もを集めて「読み書きそろばん」を教えるだけの、時間的余裕のある親が近 所の子どもを集めて教えるだけの寺子屋もたくさん あったことでしょう。 漢学の素養があまりない主婦がアルバイトに近所の子供を数人あつめ読み書 きそろばん」を教えた寺子屋もあったことでしょう。寺子屋の全ての教師が 漢学の素養があったとは考えにくいです。ちょっとした語句の注釈は多少は 入れた教師、全く入れなかった教師も多くいたことは想像できます。どちら かと言えば、入れなかった教師が多かったと想像できます。もちろん、寺子 屋では初等学年のテキストは漢籍漢文でなく、「往来物」といわれるものの 実用書でありましたから、素読といってもごく簡単な音読だったろうと思わ れます。これについては他の個所「明治期年代の暗誦教育」などの諸エッセ イで書いてあります。 (注記1) 下記の引用は、杉本鉞子(えつこ)『武士の娘』(ちくま文庫、1994)か らです。杉本さんは明治六年生まれで、六歳の時の漢学の師匠について四書 (大学、中庸、論語、孟子)の素読を受けました。杉本さんが漢学の師匠に 文章の意味内容を質問した時に下記引用のように答えたといいます。これが 当時の師匠たちの一般的な考え方だったのではと思います。 当時僅か六歳の私がこの難しい書物を理解できなかったことはいうまで もないことでございます。私の頭の中には、唯たくさんお言葉が一杯になっ ているばかりでした。もちろんこの言葉の陰には立派な思想が秘められてい たのでしょうが、当時の私には何の意味もありませんでした。時に、なまな か判ったような気がして、お師匠さまに意味をお尋ねしますと、先生はきま って、 「よく考えていれば、自然に言葉がほぐれて意味が判ってまいります。」と か「百読自ら(おのずから)その意を解す」とかお答になりました。ある時 「まだまだ幼いのですから、この書の深い意味を理解しようとなさるのは分 を越えます」とおっしゃいました。 杉本鉞子『武士の娘』(ちくま文庫、1994)より引用 (注記2) 江戸期の藩校の教師は、寺子屋の教師と違って、漢学の素養のあるえりす ぐりの教師たちでありました。しかし、多くの藩校の素読の教授方法を調べ てみると江戸期の藩校においては四書五経を暗誦することが最終の目標では なかったようにみうけられます。藩校の素読は輪講とか会読とかの一環とし てあり、暗誦がそれほど重視されてなかったようです。 だが、藩校の中には、昌平坂学問所(昌平黌)のように暗記を重要視した 例もありしたす。昌平坂学問所(昌平黌)における「学問吟味」や「素読吟 味」の学習では四書五経の暗誦能力の優劣で頭のよしあしが決定されたと言 ってよく、幕府や各藩の官吏の登用試験では暗誦能力の高さが合否を決定す る大きな要因となっていたようです。 いずれにせよ、藩校の初等教育では漢籍漢文を日本語化して声に出して 読み下す読み方指導が中心であったろうことは容易に想像できます。藩校に 入学すると初期の指導内容は漢籍漢文の「素読」の指導であり、「素読」が とても重視されていたことは言うまでもありません。 漢籍漢文は「漢字」だけの文ですから、まずそこに書かれている「漢 字」が読めなくてはなりません。次に漢字の連なりである文を声を張り上げ て読み下す読み方ができなくてはなりません。漢詩文の読み下しの訓点の符 号化やオコト点の書き入れ指導も教師によってはあったことでしょう。 「素読」は同一文章を繰り返して声に出して読みあげるという読み方指導 がすべてですから、教師は、子どもをひとりひとり教師の前に呼び出して は音読させる点検指導が多かった。教師は、漢詩文を声に出してすらすら読 めるか読めないかで、ひとり一人の成績(指導の成果)を判定したり、次の 指導をどうするかの手順や与え方を考えたことでしょう。 上述したように漢学塾では、子供達は教師の前で、声を張り上げて四書 五経などの漢籍を読み上げることでした。このことは江戸末期や明治期の多 くの賢人たちの自伝や著書に書いてあるとおりです。 漢詩文は声に出して読めば、リズム調子がよいので、繰り返して音読し ているうちにいつのまにか部分的に、あるいは全文を暗誦してしまう子もた くさんいたことだろうと想像できます。素読は、繰り返し繰り返し声を張り 上げ音読するだけですから。誰が早く暗誦できるかという暗唱競争のような 素読教授でなかったことは確かです。 第二節 素読の授業風景 素読の学習風景はどんな様子だったのでしょう。幕末期や明治期に素読 授業を受けた賢人(有名人)たちの自伝や著書や言行録などから下記に引用 してみよう。 ●野村吉三郎(明治10年生まれ)が受けた素読の授業風景 野村吉三郎(外交官、軍人、政治家)は素読を受けた頃の記憶をたどって 下記のように書いています。 「……同町内に在った河合という老人の教える漢学塾では、同年輩の頑 童達が、意味も分からぬのに大声を張り上げて素読をマル暗記でやってい た。何しろ悪戯盛りの子供達だから、一組が老先生の前に畏まって授業を受 けていると、ほかの連中は先生の背後で木刀や竹刀を振りまわし、先生の頭 や肩先へ切りつける真似をしたり、赤んべえをしているが、耳の遠い老師は そんなことはどこふく風で、前に居並ぶ腕白連中が大声張り上げて朗読する 素読を、竹の鞭を構えた泰然とした格好で熱心に聞き入って居られた。耳が 遠いので果たして聞こえているかどうかは保証の限りではないが、今から想 えば懐かしくもあり、可笑しくもある寺子屋風景であった。併し、私にとっ てはこうした幼年時代の私塾通いが、後年に及んで大きなプラスとなった。 その頃の月謝は確か二十銭ぐらいと覚えているが、この二十銭は母としては 随分苦心をした金であったようだ」 今野信雄『江戸子育て事情』築地書館、1988年より引用 【荒木のコメント】 野村吉三郎の通った私塾とは、彼は明治10年生まれですから明治十年代 と分かります。まだ江戸時代の寺子屋の名残を十分に残している漢学を主と した寺子屋のようです。引用した文章個所は、江戸時代の寺子屋の風景を引 きずっている、明治初期の漢学塾の風景と受け取ってよいと思います。 江戸時代も終焉に近づき、 「幕末維新期にいたって、庶民の求める知識、教養のはばが広がり、寺子屋 が私塾に著しく接近し、私塾も習字を教育課程に組み込むようになり、私塾 と寺子屋とのあいだには、はっきりした一線をひくことができなくなった。 これがやがて明治学制の小学校を中核とする国民教育を形成する素地となっ ていった。」(『神奈川県教育史・通史編上巻』神奈川県教育委員会発行、 昭53年より引用)という事実の指摘もあります。 明治5年に学制発布がなされたとはいっても、直ちに学校の建物ができ て、新教育内容や新教材が準備でき、新しい教育体制で出発できたわけでは ありません。新しい学校の建物は、お寺だったり、村や町の集会所だった り、民家の広めの居間だったり、かつての私塾や寺子屋だったりした所だ ろうし、私塾・寺子屋の師匠や民間人がにわかに新学制の教師となった人も いたことだろう。新学制になってもそのまま残って民間教育機関となって 残った私塾や寺子屋もたくさんあったことでしょう。野村吉三郎の通った私 塾は、江戸時代の漢学塾が明治時代になってもそのままに残って寺子屋のよ うな私塾のような漢学塾のように思われます。 野村吉三郎の引用文には、私塾・寺子屋の素読の風景がいきいきと描写 されています。その当時の漢学塾における子ども達のやんちゃな、ほほえま しい、おおらかな学習風景の描写がおもしろく描かれています。教師は泰然 と構えて、子ども達のやんちゃで、いたずらで、腕白な行動にはいちいち目 くじらを立てて注意したり叱責したりしていないことが分かります。のびの びとしたおおらかな授業風景が想像できます。 ここで、野村が「素読」について「意味も分からぬのに大声を張り上げ て文章をマル暗記でやった」「大声を張り上げて朗読する素読」と書いてい ます。「意味も分からぬのに大声を張り上げて文章をマル暗記でやってい た」と書いていることに注目したいです。寺子屋では、わりとこうした素読 風景が多かったと想像できます。 ●坪内逍遥(安政6年生まれ)が受けた素読の授業風景 坪内逍遥(小説家、評論家)は、明治2年、11歳のとき、父に連れら てはじめて寺子屋に入門しました。その時の寺子屋の様子を下記のように書 いています。 「父は私を名古屋市山下新道町の柳沢という手習い師匠の下へ入門させ るため連れて行った。其の束脩が金五十疋だった。まだ其時分には、父の頭 に、丁度小さい赤蜻蛉ほどのチョン髷が乗っかっており、たしか、私は、紫 の紐で髪を茶煎に結んでいたかと思う。が、大小は、正月の年始の外は── いや、年始にさへも、──もう差さなかったやうに思ふ。これが、ともかく も正式に師匠を取って、教育を受け始めた時であった。(中略) 私が受けた寺子屋の教育は、十二分の厭気とを以って、屠所の羊の如 く見台の前へ引き出されだの「節タル彼ノ南山、維レ石厳々」だのと審判官 声で宣告されるのだから、初めから耳ががんがんして、心そこに在らざれば 見れども記(おぼ)えられず、聴けどもすぐ忘れっちまふ。記えないと、 審判官は手に持っている尺何寸もある竹の字突き棒で、見台の端をぴしりっ ! 其のたびに小羊の左右の腕は覚えず肩ぐるみぴくっとする。さ!「子曰 ク然ラズシテ罪ヲ天ニ獲レバ祷ル所ナキナリ」さ、もう一度! 何度繰り返 して読まされたからッて、──とうに問答は済んでいるのらしいけれど── それが何の謂ひだか、到底呑み込めよう筈が無かった。」 坪内雄蔵『逍遥選集 第十二巻』(第一書房、昭52)より引用 坪内逍遥が寺子屋に入学したの明治2年です。明治維新の動乱期の最中 と言ってよいでしょう。明治の学制発布以前です。当時のごたごたした教育 制度の様子と、素読授業で使用した教科書について次のように書いています。 ≪明治初年頃には、教育制度の不備な時代であったから、都会でも寺子 屋組織は弛廃し、さうして新教育制度はまだ成立たないという時代であっ た。尾張が藩でなくなって、名古屋県が新学令によって、先ず旧藩の明倫堂 といふ皇漢学本位、撃剣本位の中等教育機関を廃して、寺院や旧学館等を仮 に小学校に当てて、新時代の教育に着手したのは、明治四年七月以後のこと であったからでる。 それが出来るまでの初等教育機関は、不備を極めた旧寺小屋の残骸の 外にはなかった。さうして私の入門した柳沢といふ寺子屋は、恰も其一標本 とも見られるものであった。先代は大分評判のよかった師匠であったとか だったが、当主は、其頃三十四五の、背の低い、其割に頭の大きい、けれど も、顎の方で急に小さく細った顔の、どういふ威厳もない風采の男であっ た。四インチ強のチョン髷は歴々と目に残っているが、月代は細く刷り上げ られていたやら、総髪であったやら、おぼえていない。彼は、行燈袴を穿い て、日がな一日、たかが三四坪の中坪を左手に見た六畳か八畳の一間の床を 後に、本箱を左右に、又後に、机と見台とを前に控えて、引ッ切りなく手本 を書く、其読みを教える、清書を直す、漢学を教える。それが其日課であっ た。漢学といっても「孝経」に四書、五経の一部、多分「十八史略」「日本 外史」なぞが関の山であったろう。が、後の二つを習っている者を見たこと が無かった。私は行書や楷書を習うのと四書の復習と五経の素読を目的に入 門したのであった。≫ 坪内雄蔵『逍遥選集 第十二巻』(第一書房、昭52)より引用 ●谷崎潤一郎(明治19年生まれ)が受けた素読の授業風景 谷崎潤一郎(小説家)は、1886年(明治19年)東京市日本橋区蠣 殻町に生まれました。自分の寺子屋体験を次のように書いています。 「思い出すますのは、昔は寺子屋で漢文の読み方を教えることを、「素読 を授ける」と言いました。素読とは、講義をしないでただ音読することであ ります。私の少年の頃にはまだ寺子屋式の塾があって、小学校へ通う傍そこ へ漢文を習いに行きましたが、先生は机の上に本を開き、棒を持って文字の 上を指差しながら、朗々と読んで聞かせます。生徒はそれを熱心に聴いてい て、先生が一段読み終わると、今度は自分が声を張り上げて読む。満足に読 めれば次へ進む。そういう風にして外史や論語を教わったのでありまして、 意味の解釈は、尋ねれば答えてくれますが、普通は説明してくれません。」 谷崎潤一郎『文章読本』(中公文庫、昭和51年)より引用 ●湯川秀樹(明治40年生まれ)が受けた素読の授業風景 湯川秀樹(物理学者、ノーベル賞受賞)さんは、祖父から素読を受けた のは「私が五つか六つの時だったろう」と書いています。すると、素読を受 けた時期は、明治45年か大正元、2年頃だと思われます。 ≪祖父は机の向う側から、一尺を越える「字突き」の棒をさし出す。棒の 先が一字一字を追って、 「子、曰く……」 私は祖父の声につれて、音読する。 「シ、ノタマワク……」 素読である。けれども、祖父の手にある字突き棒さえ、時には不思議な恐怖 心を呼び起こすのであった。 暗やみの中を、手さぐりではいまわっているようなものであった。手に 触れるものは、えたいが知れなかった。緊張がつづけば、疲労が来た。する と、昼間の疲れが、呼びさまされるのである。 不意に睡魔におそわれ、不思議な快い状態におちることがある。と、祖 父の字突き棒が本の一か所を鋭くたたいたりしていた。私はあらゆる神経 を、あわててその一点に集中しなければならない。 辛かった。逃れたくもあった。 けれども時によると、私の気持ちは目の前の書物をはなれて、自由な飛 翔をはじめることもあった。そんな時、私の声は、機械的に祖父の声を追っ ているだけだった。≫ 湯川秀樹『旅人──湯川秀樹自伝』(角川文庫、昭35)より引用 【荒木のコメント】 坪内逍遥にとって素読は苦痛以外のなにものでもなかったようです。 「私が受けた寺子屋の教育は、十二分の厭気とを以って、屠所の羊の如 く見台の前へ引き出されだの「節タル彼ノ南山、維レ石厳々」だのと審判官 声で宣告されるのだから、初めから耳ががんがんして、心そこに在らざれば 見れども記(おぼ)えられず、聴けどもすぐ忘れっちまふ。記えないと、 審判官は手に持っている尺何寸もある竹の字突き棒で、見台の端をぴしりっ ! 其のたびに小羊の左右の腕は覚えず肩ぐるみぴくっとする。」と書いて います。谷崎潤一郎や湯川秀樹も書いている「字突き棒」は文字を指す棒だ けでなく、恐怖の棒だったようです。 現在、寺子屋で手習いをしている絵が描かれている書籍、それらの絵が 書かれている襖絵の書物がが数々発行されていますが、それらを見ると、野 村の描写している寺子屋風景とみなが似たりよったりの風景がみられます。 学習態度が、まじめに手習いをしている子、そのかたわらで落書きをする 子、おもちゃで遊ぶ子、子猫や小犬を可愛がる子、罰を受けて正座させられ ている子など実におおらかで、今でいう学級崩壊と非難されるような寺子屋 風景の絵や屏風が多くみられます。また、封建時代のことですから、同じ部 屋に男子と女子とに区分けされた座席になって学習している絵がすべてです。 江戸期や明治期に一般的に行われていた漢籍の授業形態は素読であり、 素読がごく普通の漢籍の読み方指導であったことが分かります。素読とは次 のような授業形態だったと書いています。 野村吉三郎さんは「素読」についてこう書いています。 ≪……同町内に在った河合という老人の教える漢学塾では、同年輩の児 童達が、意味も分からぬのに大声を張り上げて素読をマル暗記でやってい た。≫ 「意味も分からぬのに大声を張り上げて素読をマル暗記でやった」「大声を 張り上げて朗読する素読」と書いています。「意味も分からぬのに大声を張 り上げて素読をマル暗記でやっていた」と書いていることに注目したい。 「素読」とは、解釈を含まず、繰り返しての音読でマル暗記で学習したこと が分かります。 谷崎潤一郎さんは「素読」についてこう書いています。 「素読とは、講義をしないでただ音読することであります」「先生は机の 上に本を開き、棒を持って文字の上を指差しながら、朗々と読んで聞かせま す。生徒はそれを熱心に聴いていて、先生が一段読み終わると、今度は自分 が声を張り上げて読む。満足に読めれば次へ進む。そういう風にして外史や 論語を教わったのでありまして、意味の解釈は、尋ねれば答えてくれますが、 普通は説明してくれません」と書いています。 これらから「素読」は講義をしないで、ただ繰り返して音読するだけ、 という学習がすべてだったことが分かります。 第三節 漢籍の素読で使われた教科書 ●片山潜(安政6年生まれ)が使用した素読の教科書 片山潜(労働運動家、思想家)さんは、七歳(元治元年・1864)の頃か ら村の神官に手習いを学び、ついで住職、儒者から漢文の素読を学んだそう です。以下は彼が十一歳の時に受けた素読の様子やその時に使った素読の教 科書について書いています。 ≪予はやや成長してから曽祖父の昔話の外、本を読むことを教わった。 どんな本であるかというと当時民間に用いられた唯一の教科書は読書習字両 用のものでしかも僅々数種に限られていた。予の読んだ本は『名頭』『国 尽』『庭訓往来』『商売往来』であった。しこうして『名頭』は普通平民の 名前の頭文字を集めたもの、『国尽』は五畿八道の国々を順序を立てて書い てある。『庭訓往来』および『商売往来』はその名の示す如く家庭に関する 教え、および商売上に必要なる心得を書いたもので、いずれも皆きわめて平 易にしてしかも実際的のものである。もとよりこれ等の本を教わった予はた だ口続きで素読を暗誦しただけにて、いかに平易でも子供には字句の意味が 分からないからちょっと覚えても直ぐ忘れてしまった。故になんべんも一つ 本を教わったのを覚えている。しかもその文字は御家流というてよほど略し たる草書の写本になっていたからなお分からなかった。(中略) 寺では手習いの外に「孝経」の素読を教わった。子供の時、予は妙な癖 があった。それは本を教えてもらうと、一、二度でチャンと読めるように覚 える。然るに自分の机の上に持ってきて読んでみると、一つもも読めない 。何がなんであったかみな忘れてしまう。十四、五まではかようなふうであ ったから一年以上も寺にいたけれども、『孝経』が上がらなかった。みなか く忘れるかというと中々そうでない。人のする話などは一度聞くと、決して 忘れない。栄助から聞いた話はみな覚えている。ただ素読を習うとちょっと も意味がわからぬから、ホンの一瞬間だけ覚えているが、直きに忘れる。こ の忘れるという一事が予をして子供の時に学問を嫌がらしめた最大原因であ る。今でもわからない本を読むとかまたはクダラない演説など聞くとじき眠 くなってしまう。≫ 片山潜『自伝』(日本人の自伝8、平凡社、1981)より引用 ●夏目漱石(慶応3年生まれ)が使用した素読の教科書 夏目漱石(小説家、英文学者)さんは、十五歳(明治14年)のとき漢 学塾二松学舎第三級第一課に入学し、漢文学を学んでいます。 二松学舎で学ぶ以前にも寺子屋のような漢学塾に通って初歩を学んでいて、 二松学舎では本格的に経書から学び始め、唐宋の詩文や陶淵明を好んで読ん だようです。当初は、漢詩文で身を立てようとも考えていたようです。 ≪漢学塾二松学舎は、明治十年に設立。三島中州が経営する。各級は第 一課・第二課・第三課に別れていて、半期に一課ずつ終了することになって いた。(小宮豊隆)「私は明治三十一年にちょっと入門したが、路から少し 石段を上がったところに学舎があって教場は三十畳ぐらいかと思はれる一室 があった。ところどころ破れた古畳にうへに、細長い腰掛のような机が並べ てあって、そこに座り、机に溢れた者は膝の上に本をのせ、本を持たない者 は隣の人の本をのぞいている。(樋口配夫『明治会見記』これは十五年あま りの後の漢学塾二松学舎の情景を述べたものである。)第三級第一課に入学 した。第三級第三課では『日本外史』『日本政記』『十八史略』『小学』 『古文真宝』、第二課では『蒙求』『文章規範』、第一課では『唐詩選』 『皇朝史略』『古文真宝』、第二級第三課では『孟子』『史記』『論語』、 第二課では『論語』『唐宋八家文』『前・後漢書』を講じる。≫ 荒正人『増補改訂・漱石研究年表』(集英社、昭59)より 【夏目漱石十五歳】 漢学塾二松学舎第三級第一課に入学し、漢文学を 学ぶ。経書から始め、唐宋の詩文を好む。特に陶淵明を好む。『唐宋数千 言』(『木屑録』序)から文学の理念を得たと思われる。(二松学舎で学ぶ 以前にも漢学塾に通っていた) 漢学塾二松学舎は、明治十年に設立。三島中州が経営する。各級は第一 課・第二課・第三課に別れていて、半期に一課ずつ終了することになってい た。(小宮豊隆)「私は明治三十一年にちょっと入門したが、路から少し石 段を上がったところに学舎があって教場は三十畳ぐらいかと思はれる一室が あった。ところどころ破れた古畳にうへに、細長い腰掛のような机が並べて あって、そこに座り、机に溢れた者は膝の上に本をのせ、本を持たない者は 隣の人の本をのぞいている。(樋口配夫『明治会見記』これは十五年あまり の後の漢学塾二松学舎の情景を述べたものである。)第三級第三課では『日 本外史』『日本政記』『十八史略』『小学』『古文真宝』、第二課では『蒙 求』『文章規範』、第一課では『唐詩選』『皇朝史略』『古文真宝』、第二 級第三課では『孟子』『史記』『論語』、第二課では『論語』『唐宋八家 文』『前・後漢書』を講じる。 荒正人『増補改訂・漱石研究年表』(集英社、昭59)より引用 ●田岡嶺雲(明治3年生まれ)が使用した素読の教科書 田岡嶺雲(評論家、中国文学者)さんは、七歳(明治9年)の時に父か ら素読を習ったとあります。明治五年の学制発布の四年後である。当時は学 校ができて通学するようになっても、子ども達は学校から帰ると課外教授の 漢籍を習いに寺子屋や私塾へ競走的に行ったと書いています。現在の子ども 達の学習塾通い・進学塾通いとちっとも変わりません。これは驚きです。 ≪学校から帰ると、父に『小学』の素読を習うた。飴色の厚い表紙の大 きな本に、重々しい四角な文字が威儀厳然と並んでいるのが、何となく尊い やうであった。「小学序、古は」と口移しに教えられるのを、夢中で覚えた。 訳も判らず難しい者とは思ったが、漢籍を習ふといふ虚栄の誇の為に、左程 厭だとも思わなかった。小学校へ草子などを入れる文庫と、手習机を持ち込 んだ時代であるから、学問の上に未だ寺子屋時代の風が全くは去らなかった、 従って教師の自宅へ通って、課外に漢籍の稽古をする事が生徒間に競争的に 行われた。『国史略』から『日本外史』『十八史略』といふやうな順序であ った。「天地未だ開けざる時、混沌として鶏子の如し」といふ『国史略』の 開巻第一の語を難しいと思った。 『田岡嶺雲全集・第五巻』(法政大学出版局、1969)より引用 ●新村出(明治9年生まれ)が使用した素読の教科書 新村出(言語学者、文献学者)さんは、十歳(明治18年)に漢学塾に 入学しています。その当時のことを思い出して下記のように書いています。 ≪父は、佐藤一斉先生の直弟子ではなかったが、その高弟の門人たりし栗 本義喬翁(後に一高の漢学教授)の漢学塾に、明治十七八年ごろ、まだ十歳 未満だった私を入れるため、日本橋にあった寺子屋式の私立小学校を中退せ しめた。千葉県は下総佐原の利根川のほとりの丘陵のふもとの漢学塾では、 『論語』『孟子』『中庸』『大学』、即ち四書の素読、それから朱文公の 『小学』の講義の聴聞、史書は頼山陽の『日本外史』、水戸の史学者の名著 たりし『皇朝史略』、それから私的には当時流行した柴東海散士の政治小説 の『佳人之奇遇』なるものを、先輩が輪読するのを、半わかりにきいて興味 を覚えたに過ぎず、撃剣のけいこ、おめんおこて、おつき、弓道のまねごと、 『唐詩選』の詩ガルタの傍観傍聴。しかしおかげで、李白とか、杜甫とかの 名詩の一端を習った。 新村出著『新村出全集十四巻』(筑摩書房、昭47)より引用 【荒木のコメント】 漢学塾と寺子屋とでは、当然に使用教科書が違ってきます。 漢学塾の教科書は四書五経をはじめ上記の諸氏が記してる漢籍であり、 これらは儒学の基本となる書物であり、江戸や明治期の修身教育の教科書で もありました。 寺子屋は「読み書きそろばん」の実用教育を旨としたわけで、素読の教 科書はごく簡単な漢籍でした。 これらについての詳細は、別稿の「江戸時代の藩校の暗誦教育」や「江 戸時代の寺子屋の暗誦教育」のエッセイを参照してください。 ●参考資料 後藤宏行『「語り口」の文化史』(晃洋書房、1989)には、前述して きたことと同じような事柄が次のように書いてあります。 江戸時代の学校では、講義とか一斉授業というものはなかったのだろう か。皆無であったとはいえないまでも、たいへんめずらしいものであったこ とは事実で、少なくとも、庶民の教育機関である寺子屋では、講義などとい うものはなかったらしい。そこでは、もっぱら実用的な技術としての「読 み」「書き」「そろばん」と「礼儀作法」が教えられた。お手本も、子ども の年齢や、父親の職業に応じて(商人の子には商売往来、職人の子弟には番 匠往来を)ことなったものを、師匠自らが手書きをして与えた。徹底した個 人教育主義で、師匠一人で手がまわらぬときは、年長の子弟が達が、後輩の 面倒をみた。ときには、実用的な知識の範囲を越えて、 「篤志のものに実語教、童子教、古状揃、四書五経、進んでは文選に至るま での句等を授くることあり、されどこれらは後藤点、道春点に頼りて素読一 過せしむるまでにて、その文意は一も解釈を与うることなし。従って生徒は 唯無意味にその句章を蛙鳴蝉声するのみなり。女子にはまた百人一首、女今 川、女大学、女庭訓往来を課するも、これまた等しく素読せしむるまでなり とす」[斎藤隆三・近世日本世相史] いわゆる「読書百遍おのずから通ず」るのが、儒教的な教養のなかで成 長してきた、日本の教育の伝統だったのだ。ときに語句の字義や、文字の来 歴を説明することがあっても、それは「あさくかろくとくべし。深く重く説 くべからず」(貝原益軒)だったのだ。そこで重視されたことは、古典、そ れも四書五経を中心とした聖賢の道を、熟読、記誦することだった。 「四書を毎日百字づつ百へん塾誦して、そらによみ、そらにかくべし。…… 四書をそらんぜば、其ちからにて義理に通じ、もろもろの書をよむ事やすか らん。又、文章のつづき、文字のおきやう、助字のあり処をも、ゆくおぼえ てしれらば、文章をかくにも、又助けとなりならん。」 さきに、庶民の寺子屋ではもっぱら、実用の技術が重んぜられたといっ たが、士分の子弟においても同じことだった。なにも剣、射、軍、馬、砲の 術が施されたことのみを、いっているのではない。道の学、君子の学、その ものが「辞を修め政に達し、礼楽以って之を文(かざ)る。天下のし政事に 関与する君子にとって、文辞をなしうるということが、もっとも緊要な修学 の一つであったのだ。……講説の理解力や、弁説よりも、先ず高級官吏に要 求されるものは、巧みな文章を書く能力だった。 後藤宏行『「語り口」の文化史』(晃洋書房、1989)より引用 |
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