暗誦教育史の素描(17) 11・01・26記 素読教授の実際と子育て観(2) 第四節 青山延寿・漢学塾の授業風景と教育経営 山川菊栄『武家の女性』(岩波文庫、1983)という書物の中に、祖父の 青山延寿・漢学塾の学びの様子や塾経営の様子が具体的に書かれています。 著者の山川菊栄は明治23年(1890)生まれで、大正・昭和の社会運動家で した。大正・昭和の婦人解放、母性保護の運動に活躍しました。夫の山川均 も社会運動家で、民主人民戦線を提唱し、経済学者、評論家として活躍しま した。 山川菊栄の母親は名前を千世(ちせ)と言い、安政四年(1857)に生まれ ました。千世は水戸藩士・青山延寿(のぶとし)の娘でした。青山延寿は、 山川菊栄の祖父ということになります。 青山延寿は水戸藩のお墨付きの漢学塾をひらき、近くの子供たちを集め、 漢籍や手習い(習字)を教えていました。また、青山延寿は藩校で有名な水 戸の弘道館の教授頭取代理を務め、『大日本史』の編纂にも携わりました。 山川菊栄『武家の女性』(岩波文庫、1983)には、母親・千世から聞いた 祖父・青山延寿の漢学塾の様子が克明な描写で具体的に書かれています。山 川菊栄は「同じ江戸時代でも、年代により、地方により、身分階級によって それぞれ違いのあったことはいうまでもありません。私がここに紹介するの は、安政4年、水戸に生まれて、今年八十七歳になる老母・千世の思い出を 主とした、幕末の水戸藩の下級武士の家庭と女性の日常の様子(学塾の様子 も)を書いた本です」と述べています。 以下、茶色文字は、すべて山川菊栄『武家の女性』(岩波文庫、1983)か らの引用です。荒木が勝手に見出しを付けていますので、その見出しに合わ せて若干の引用の入れ替え・組み合わせをしている個所があります。ページ にそった引用にはなっていません。 朝飯前にお塾にやってきて賑やかに素読をやった。 朝飯前の素読を「朝読み」といいますが、朝読みは年中やりますので、 子供を「朝読み」に出す家は、朝もゆっくり寝てはいられません。時計もな い頃のことで、時間は一定しませんが、夏も冬も、行燈(あんどん)なしで どうやら大きな字の見える程度に夜の白むのをきっかけに、やってきます。 冬は霜柱をザクザク踏んで、寒中も火の気なしの、氷のような畳の上に座り ます。 何しろ朝うす暗いうちにとい起きて来るのですから、明るくなってみる と、単衣(ひとえ)を裏返しに着ている子もあり、兄さんが弟の丈ゆき短い 着物を着ているかと思うと、あとから起きた弟が、兄さんの着物を着て、手 首が隠れそうに長いので間に合わせていることもあるという始末。 早朝、集まった者からそれぞれ素読を始め、 終わると朝飯食べに家に帰り、 それからまた登校(登塾?)した。 だんだん集まってきた何十人の子供が、声をはりあげて、ある者は『論 語』を、ある者は『孝経』を、それぞれ年と学力に応じて、今習っている所 の素読をやっていますから、その賑やかなこと。 一通り素読をすますと次々と先に来た者から帰っていきます。その間一、 二時間もありましょうか。子供たちは家に帰ってから朝飯を食べてまた出直 してきますが、その間に先生方もご飯をすませます。 素読はばかでかい声でなく、 歯切れよく遠くまでよく届き(響き)、 あの声は誰の声とはっきりと判る読み方が 上手な、出来のいい子の読み声であった。 この「朝読み」の素読の声で、子供のよしあしはたいてい分かったもので、 大勢の中で、「あれは誰さんの声」などとハッキリしたのは、必ずしも大き い声ではなくても、際だって出来のいい子にきまっていたそうです。 教場は細長く、だたっ広い畳敷きの長屋だった。 二間半に十間ばかりの細長い長屋が、お塾、すなわち学校です。この長 屋は襖(ふすま)や敷居(しきい)で仕切られず、琉球表の畳を一面にしき つめた、がらんどうの部屋でした。机はひきだしがなくて、横に長い経机 (きょうづくえ)のようなもので、それは稽古が済むと裏返しにして壁際に 何段にも積み重ねられ、また筆墨紙をいれるお文庫(横一尺一、二寸、縦一 尺五、六寸もありましたろうか)をその裏返しにした机の一つ一つの上にキ チンと片寄せてのせておきます。塾生の木の名札が長押(なげし)にズラリ と並んでかけてありますが、これは前日帰る時、裏返しておくのを、朝来る とすぐ、自分の名前のかいてある表の方を出しておくので、「今日はおれが 一番」、「しまった、明日はおれが」という風に、銘々一番乗りの競争です。 そして先に来たものは、壁際に自分の机を文庫と一所におろして、自分の席 に持っていきますが、その時、先輩の人の机も並べておきます。あとから来 た先輩はそれを見て丁寧にお礼を言います。これが小さい子には非常にうれ しかったものです。 御吟味(試験)があり、年長の優秀者は塾長を命じられた。 お弟子はときどき先生に連れられて弘道館で素読、手習いの御吟味すな わち試験をうけます。十七、八になって相当よくできると認められた者が藩 から塾長を命ぜられ、これが数人いました。 先輩の塾長は先生代行で教えることもした。 子供たちは先生からも教わりますが、塾長という、教生格の先輩が、先 生に代わって教えたり、注意したりもします。 教育内容は素読と手習い(習字)の二つだけあった。 何しろ漢学の素読のあとは、お弁当持ちで来て一日中、真黒な手習い草紙 に手習いをしているだけ、(お手本は先生が書いて渡します)、体操も唱歌 も、図画も、国語も、地理も歴史も、もちろん算術もなし、おまけに休み時 間もないのですから、ずいぶん単調な学校だったでしょう。 手習い(習字)の手本は先生が書いて渡した。 お手本は一人一人に先生が書いて渡します。先生はみな字が上手でしたが、 お手本書きが手習いになって、また手が上がったそうです。 すべて個別指導で、一斉指導はなかった。 設備といっては黒板一つ、掛図一枚ないがらんどの部屋です。授業は個人 教授で、十人十色、年や学力に応じ、違った教科書で、小学校の年頃は素読 一点張り、十三、四から講釈を聞くわけで、おいおい漢詩、漢文の作り方も 習います。 塾開設は誰でも勝手にはできなかった。 お塾は誰でも勝手に開けるわけではなく、藩の許可を得た上で、相当と認 められた人だけに許された。 先生の方は、世襲ではなく、実力本位で藩の許可が得られるわけでしたか ら、必ずしも代々続くわけでなく、むしろ一代限りが多く、その一代の中で も、その先生が学者以外の他の仕事、例えば政治方面の仕事にたずさわると かして塾をやめることもあり、そういう場合はお弟子は他の先生につくこと になります。これは水戸では、二世藩主光圀(みつくに)が、儒者を世襲と すれば、学力不足の者がその職につくことを憂えて世襲とせず、また儒者を その専門だけの仕事に限れば、僧侶のようの特殊なものになって、世間のこ とが分からなくなるというので、学者でもそれまでは総髪で特殊な姿であっ たのを、普通の武士と同じようにし、まは他に必ず普通の職務、お馬廻りと か、大番組とか、お小姓とか、奥祐筆とか、奉行とかいうような職務を兼ね ることにし、その人次第で他の役目で使えました。 入塾式?の様子と束脩(入塾持参金)の様子 お弟子入りは年中ポツリポツリ、時を定めずありました。新入りのお弟子 は父兄に連れられ、お塾で先生の前に出ますと、いつも用意してあるお三宝 に熨斗(のし。いまのようにきれいな紙に包んだ小さなものでなく、昆布の ように長くて薄黄色く透き通ったもの)をのせて家来が持ち出します。それ を子弟間において、双方でお辞儀をし、それからその子がお三宝を先輩のお 弟子たちの前へもっていって、お辞儀をします。それから三つ組の盃事(さ かずきごと)が行われます。これで入学式がすんだわけです。 父兄の方は奥の住居の方へ通されて、そこで酒肴(しゅこう)を出しても てなされ、先生と歓談して帰ります。入学の時、束脩(そくしゅう)として 一朱、盆暮れにまた一朱ずつ包んでくるのが一般の慣例でした。しかし家庭 の事情によっては是非そうしないでもよく、また兄弟幾人もいる場合は、長 男だけで、次三男の分はいりません。一朱といえば一両の十六分の一。玄米 一石一両という時分のことで、今は玄米一石公定価十五円ですから、それか ら推して考えられないこともありませんが、とにかく教育費の負担というも のはいうに足りないものであったでしょう。安政から元治年間にかけてのこ の家の主人(青山延寿)の日記によりますと、盆暮れの謝礼合わせて二十五 両ぐらい、お弟子の数は百二、三十人ぐらいですから、それを持参する者は 半数ぐらいだったかと思われます。 武士の子と平民の子とは教場が別棟にあった。 延寿の『学問出精順書』というものが残っていますが、これはお弟子一人 一人の一年間の出席日数の記録で、これを毎年一回お目付けという役人に出 して藩に子弟の勉強ぶりを報告するのでした。お弟子には千石取りの家老の 若様から、足軽、百姓町人の子まであり、身分制度のやかましい時代のこと で、足軽以下の平民の子は、お下(しも)という、別棟の一室で勉強しまし た。 教師(師匠)は教場に常駐しているわけではなかった。 延寿は塾に出てばかりいるのではなく、自室で『大日本史』の仕事や、そ の他の調べ物、詩文を書くことなどしていました。その書斎と塾との間には ひもが渡してあり、塾の方が騒々しいと、書斎でひもをひっぱって鐘を鳴ら します。これは「やかましいぞ、も少し静かに」という先生のご注意ですか ら、ピタリと静まります。 親子兄弟は同塾・同窓生が多かった。 塾は方々にありましたが、大体近い処を選びますし、先祖代々、藩から賜 った邸にいて、引越しということは邸替えでも命ぜられる時のほかはない時 代でしたから、親子兄弟が、同じ塾のお弟子で、つまり同窓である場合も多 いわけです。 男子はお塾が終わると、剣道の稽古に通った。 男の子たちは「学問」の勉強がすむと武芸の稽古に出かけますので、面小 手をかついだ少年の姿は往来でよく見受けられました。寒中には寒稽古とい って夜おそくまで武芸の方へ行くのでした。延寿の一人息子量一は画をよく し、その方で立ちたいと望みましたが、そういう子も、学問と武芸は一通り やりながら、別に画家に入門してそこにも通うのでした。夏は、藩で認めら れた水泳の師範に指導されて、那珂川で水泳を習うのも藩の子弟の義務の一 つで、したがって男の子には、水泳の出来ない者は一人もいないわけでした。 お塾が修了すると、藩校の弘道館へと進学した。 藩校通学の日数は、身分、長男か次男三男かによって違っていた。 お塾は満六歳から始めて二十歳近くまで来るのが普通でした。もっとも十 三、四からは、藩校弘道館のはいり、そこで中等以上、高等教育まで行われ るのですが、この方は毎日ではなく、身分により、また長男か次三男かによ って出席の義務にも違いがあり、五百石以上の上士の嫡子、すなわちあと取 り息子は一か月のうち十五日、それ以下は七、八日という風で、基礎的な教 育は塾で仕込まれるのです。 腕白小僧の懲戒には、池の水のはりかえなどがあった。 お弟子の中に大変きかん気の腕白小僧がいて、友達をなぐった騒ぎがあり ました。それを聞くと延寿はその子を呼びつけて 「お前は力が強すぎて友達をなぐったそうだな。そんなに力があるなら、一 つ池の水でも汲んでもらおうか」 といいました。水戸時代には三つの池に、それぞれちがう金魚を飼い、読書 に疲れた目を休めるには、透きとおる尾をゆるやかに動かして、澄んだ水の 中や、青々とした藻の下をくぐる金魚の姿を眺めるに越したものはないとい っていました。さすがにきかん気の少年も十三、四の身体で深い井戸から水 を汲み出して三つの池の水を替えるのは大汗でした。罰といってはこんな話 が残っているぐらいなものですし、喧嘩騒ぎもあまりなかったようです。 第五節 理想の男子像・女子像、子育ての違い ●男子の理想像とその子育て方法 (男子への躾は厳しく、期待が大きかった) 山川菊栄『武家の女性』(岩波文庫、1983)には、男子に求められた 理想的な姿(生き方)、そのための子育ての方法が次のように書かれていま す。以下、この本からの引用です。 家を尊ぶ建前から、息子の躾については、学校と母親にまかせておく者 の多い今の父親より、当時の父親の方が熱心でした。というより男児の躾は、 父親の受け持ちであったという方が適当かも知れません。男は十五歳から兵 隊として戦時には実戦に出ることですし(維新の時には十五歳から実戦に出 陣しました)。長男なら二十歳前後に嫁を迎え、間もなく隠居した父親に代 わって当主となるのですから、それだけの用意がなければなりません。 文武の修業のほかに、日常の礼儀作法、言葉づかい、物事の取りさばき 方などについては、女の子よりも、男の子のほうが厳しく、父親から注意さ れたりしつけられたりします。まだ年の行かないうちから人前に出ての挨拶、 父を代表しての礼廻り、家来でも済むような遠い夜道の使いまで、教育の一 部としてやらされますし、食事をするにも騒々しく音をたてたり、おかずを 汚くつつき散らしたり、ご飯を食べ残し、お茶をのみ残すことのないよう、 漬物にお醤油をかけるにもザブザブでたらめにぶっかけるようなことはぜず、 最後の一と切れでお皿をふきとるようにし、食べたあとがキチンときれいに なっていて、始末のしよいようにするというようなこまかな点まで習慣づけ られます。若い間は主君はもとより、お客や上級の給仕をすることもあるの で、いつ、どこへ出てもまごつかぬように、平生からしつけられるのでした。 武士というものは行儀よいもので、くつろいでいる時でも、膝をくずす とか、肌をぬぐとか、肘(ひじ)や頬づえをつくというようなことはしませ んでした。目上に仕え、目下の者を使う心得や作法も、父親の指導で自然に 覚えるので、学校が今日のように発達せず、母親は外(そと)のことはいっ さい知らなかった当時は、父親みずから息子を仕込んで、家風も家の芸も伝 えるわけでした。 殊に早く一人前にして、いつ自分がすぐ病気となって役を引いても、死 んでも、息子がすぐ跡をついで、立派に一家の主人として、またその家格相 応の役人として勤め終せるようにしておかなければならないので、それだけ 躾に身を入れることになっていました。 千世の家でも、父は娘のことは大体母親に任せていましたが、一人息子 の量市は、やたらに叱ったり、箸の上げ下ろしまで小言をいったりするので はありませんが、特に熱心に、厳格に指導しました。 「男の子には玉を抱かせ。女の子には瓦(かわら)を抱かせ」 とそのころはいわれたもので、男は指導者としての能力と責任感をもつよう に、厳重にしつけられたものでした。 ●男子の理想像とそれに見合った素読教授 前述してる青山延寿さんの漢学塾の様子は、男子だけが入学してる漢学塾 の様子です。山川菊栄さんは、当時は「女子に学問は不必要だ。女子は平仮 名が読めて、書けて、裁縫が出来ればよい」という考え方が社会一般の常識 だったと書いています。ですから漢学塾で学ぶのは男の子だけでした。 男子だけの漢学塾といっても、年代により、地方により、身分階級により、 師匠により、多種多様であったと思われます。現在のように国定のカリキュ ラム(学習指導要領)も検定教科書もなければ、学校の設置基準の法律もあ りません。だから、男子たちは自由な教育を受けてたようです。 本HP「名文の暗誦教育のエッセイ」の章で書いてある内容はすべて男子の 漢学塾や寺子屋の様子が書いてあります。一部、著名人の自伝の中に姉妹の 塾や手習いことを書いた文章も入り込んでいますが、全部といってよいほど 男子の漢学塾や寺子屋のことが書いてあります。男子へ素読の与え方、受け 方の様子については、「名文の暗誦教育のエッセイ」のすべてに詳細に記述 していますので、それら一つ一つの文章をお読みくださるように願います。 ●女子の理想像とその子育て方法 (女子は犠牲と服従を求められ、粗末に扱われた) 山川菊栄『武家の女性』(岩波文庫、1983)には、女子に求められる理 想的な姿(生き方)、そのための子育ての方法が次のように書かれています。 以下、この本からの引用です。 女の方は己を空(むな)しゅうして人に仕えるという、犠牲と服従の精神 を涵養する点に重きがおかれ、女は大事にしてはおけない、粗末に育てよと いうことになっていました。男の方は、大事にする意味で父親の厳しい躾を うけるのですが、女の方は、粗末にする意味で、食物も、品は同じでも男に はよいところを、女には切れっぱしをという風に、余り物や屑をあてがわれ ることに慣らすのでした。 その代わり、女は一段劣る生き物だと考えられていましたから、同じこ とでも、男のしたこと、言ったことなら問題にしても、女のしたこと、言っ たことなら取り合わず、大目に見るというところもあり、子供扱いで、何も 知らせぬ代り、台所以外のことには責任も持たせないのでした。 なにぶんにも早婚時代のことで、まだ赤いサンゴの玉を根がけ(注記) にしている三十代のお姑さんも珍しいことでなく、さらに一代前の、五十代 の姑があるという、二人姑の家もよくあることでしたし、その上、長生きの 年寄りでもいれば姑が三人いることにもなりました。町家と違って姑とか、 年寄りとかいっても、気散じ(注記)に物見遊山や、寺詣りに度々外出す ることもなく、趣味も娯楽もなしで、ただ働く一方で育てられてきた人たち が多く、一家にそういう姑が二、三人もいて、夫の弟妹や、妾や妾腹の子供 まで集まっているところでは、若い嫁さんはなかなか骨が折れるので、何を 言われてもハイハイといっている一方の、無抵抗主義にしつけておかれるの が一番でした。 荒木注記 「根がけ」女性が日本髪のまげに結ぶ飾り。 「気散じ」気晴らし。気楽に。憂さを晴らすこと。 つづいて山川菊栄『武家の女性』(岩波文庫、1983)からの引用文です。 江戸時代の武士階級の代表的な学問は儒学であり、七去三従のシナ思想が、 離婚多からしめていたことは争えません。最も七去三従が掟として日本に輸 入されたのは千年以上も昔のことでしたが、招婿婚(しょうせいこん)が行 われていたその時代の日本の家族制度の実情とは合わなかったので、形式に 留まっていました。が、江戸時代にはこれが広く普及し、深く沁み込んだ思 想となって、結婚生活を支配していたのでした。『女大学』にはこう述べて います。 「婦人に七去とて、あしき事七つあり。一には舅姑(しゅうと、しゅうと め)に従わざる女は去るべし。二には子なき女は去るべし。これ妻を娶るは 子孫相続のためなれば也。しかれども婦人の心正しく行儀よくして妬み心な くば、去らずとも同性の子を養うべし。あるいは妾に子あらば、妻になくと も去るに及ばず。三には淫乱なれば去る。四に悋気深ければ去る。五にらい 病などの悪しき病あれば去る。六に多言にて慎みなく物言い過ごすは、親類 とも仲悪しくなり家乱るる物なれば去るべし。七には物を盗む心あるを去る。 この七去は皆聖人の教也。」 お寺の小僧がお経を読むように、こういう書物を、何も分からぬ十歳ごろ から、毎日くり返し、暗記するほど読みもし、手習いもしていた時代には、 娘たちはひとりでにその通りに信じ込んでいました。のみならず、多少身分 のある家なら、妾のない方が不思議がられるくらい、それは一般的のもので あり、自分の家に妾のいるのも、妾腹の子が何人もいるのも珍しくない場合 が多いので、そういう中に育った娘たちには、それがさほど不快な、不合理 なこととも思われずに、むしろ当然なこととして受け入れられていたのでし た。 ●女子の理想像とそれに見合った学問不要論 前節で、山川菊栄は、当時は「女子に学問は不必要だ。女子は平仮名が 読めて、書けて、裁縫が出来ればよい」という考え方が社会一般の常識だっ た」と書いています。だから漢学塾で学ぶのは男の子だけだった、というこ とになります。 当時の女子教育の一般的な社会風潮(考え方)についてもう少しつけ加 えます。 山川菊栄著『武家の女性』の中に次のように書いてあります。荒木が勝 手に太字見出しをつけて引用しています。べたな文章を多量に引用するより は、小見出しをつけた方が分かりやすく理解できる思い、少しばかり原文の 入れ替えをして、ページの通りにはなっていません。 女は紺屋の付け紙が書ければよい。平仮名の読み書きだけでよい。 女に学問はいらぬ、女は紺屋(こうや)の付け紙が書ければよいといっ てついに学問は教わらなかった。紺屋の付け紙というのは、家で繰った糸を、 どういう縞柄(しまがら)に織るかをきめた上で、紺屋へ出すとき染色を指 定する書付をいうのでした。 こんな風でしたから、女の文字の教育は平仮名に留まるのが普通でした。 女に学問をさせると縁が遠くなるという風潮があった。 水戸では、女に学問をさせると縁が遠くなるとか、また血筋をよそへ持 っていかれるとかいって嫌がりました。血筋をよそへ持って行くというのは、 学問の家などで男系に必ずしも優秀な子ができず、よそへ嫁に行った娘の方 に秀才が出たことをいうのですが、これは教育よりは遺伝学上の問題であり、 女系に秀才が出来ても損になるわけでもないのに、気の狭いことをいったも のでした。 女子は満六歳になると手習い(習字)に行った。 女の子も満六歳になると、手習いのお師匠さんへお弟子入りをしました。 千世の母親のきくの時代も同じことで、これはよほど古くから発達した制度 だったのでしょう。 女子の手習いは朝読みがなかった。朝飯が済むと競争で登校した。 男の子とちがって、「朝読み」はありませんでしたが、毎朝早く行く競 争は同じことで、朝飯がすむとすぐに出かけるのでした。やはり夏はまだ霧 のかかっているうち、冬は霜柱をザクザク踏んで。ある朝など、千世は一番 先に行って、木の名札をかえし、先輩の人にお礼を言われる嬉しさに胸をわ くわくさせながら、小さな体をせい一杯のばして、高く積んである机をおろ そうとするとたん、あまり無理をしたのでしょう。バッタリ倒れて肩から背 へかけて片側の筋がひきつり、うごけなくなってしまいました。大騒ぎにな っておぶわれて家へ帰ったこともあります。 手習いの師匠は子持ちの主婦であった。 お師匠さんは子持ちの主婦のことで、始終教室にいるわけではなく、お 手本を書いてあてがい、娘たちは真黒な草紙(後注記)に手習いして、とき どき御清書を出す。それでよければまた次のお手本をあてがわれるのでした。 朝から昼過ぎまで手習い、手習いだけであった。 ここも夏冬ともに朝は早く、弁当持ちで、昼過ぎまで手習い、手習い、 手習い一方です。遊び時間もなければ唱歌も体操もなく、大きい子も小さい 子も同じように手習いばかりしていることは男の子の塾と同じこと。飽きれ ば勝手に休んだり、遊んだりしてまた始めるという調子。 荒木注記 「草紙」習字用の帳面。字の練習用に紙をとじたもの。 手習いの手本は『いろは』や『女論語』などであった。 女の子の習う者は大体きまっていて、まず「いろは」を習い、それから 『百人一首』『女今川』『女大学』『女庭訓』『女孝経』といったような本 (これらを一まとめに『女論語』といいました)。まず読み方を、それから そういうものを書いたお師匠さんのお手本を習い、次々にあげていくのです。 もちろん平仮名ばかり。平仮名も変体仮名が多く、続け字で、読みにくい上 に、言葉の中味も七、八ッの子に分かるはずのないものですが、ただ夢中で 習いました。中には東海道五十三次の宿の名を歌のように綴ったもの、また 「大名づくし」といって大名の苗字を並べたものをお手本で習いました。 女子は十二、三になると裁縫の稽古に行った。 女子は裁縫に行くので、手習いに行く女の子は多くなかった。 女の子は仮名が読めればいいとした時代のことで、十二、三にもなれば 裁縫の稽古に行くせいか、どこも多くは来ませんでした。ここでもお下(し も)といって、同心以下の娘たちの教室は別になっていました。 裁縫のお師匠さんに弟子入りすると、手習いをやめた。 女の子は十二、三のころからお縫い子として、裁縫のお師匠さんに弟子 入りします。もっとも母親の針仕事のそばで、赤い小切れなどをあてがわれ てお人形の着物を縫ったりしたものはもっと小さいころ、、十ぐらいの時か らで、千世もバッパに縫物の手ほどきをしてもらいましたが、他人の手で本 式に仕込まれたのは十三からで、一般にも手習いの方はこのころから大抵や めて、お縫い子になります。 千世が始めて裁縫のお師匠さんについたのは川崎町の石川富右衛門とい う老藩士の奥さんでした。そこは身分の低い、ごく貧乏なお侍でしたから、 ご主人も息子さんも傘張りの内職、お嫁さんは賃機を織っていました。お針 子は十人ばかり、そのうち二、三人は同心(注記)や町人の娘でした。 裁縫の稽古は、初めは雑巾さし、次は足袋の底さし、 次に袖口や褄の縫い、だんだんと着物の仕立てへとすすんだ。 千世は一番初めに雑巾をさし、それが一通りすむと足袋の底をさしまし た。いうまでもなく、そのころの足袋は全部手縫いでしたが、底を丈夫にす るためと厚地のものを縫っても、針目がそろう稽古に足袋底をささせるので した。その始めて刺した足袋の底は、片方は縮んで小さく、片方は大きく、 ちんばに出来上がりました。これは最初縫った方は糸がよくこけていなかっ たからで、何度の繰り返して足袋底ばかり稽古するうちに、両方とも自然に 大きさが揃うようになりました。それから袖口や褄(注記)の稽古。そして おいおい着物も仕立てられるようになりました。 荒木注記 「同心・どうしん」江戸幕府の下級武士。町奉行の下で江戸市中の警察事務 に当たった町方同心が有名。 「褄・つま」着物の端(つま、はし、すそ、つまさき)の意。 ●女子も家庭での個人教授で漢籍を学ぶことがあった 当時の一般的な社会的風潮として女子はお裁縫が重視され、平仮名の読 み書きができればよい、儒学(漢学・漢文)の学習は必要なし、と考えられ ていました。女子は漢文の漢学塾へは行かなかった、ということを前述でな がながと書いてきました。また、そのことは男尊女卑の封建思想、女子は禁 欲的に服従する自己抑制的な行動が求められ、それにどっぷりとはまった人 権無視の当時の社会風潮からきており、それが子育ての方法や教育(知識) の与え方が男女で違ってきていることについて書いてきました。 だが、教育環境がすぐれている富裕層の家庭では、子女にも師匠が家庭 を戸別訪問して漢籍を教えたことはあったようです。親に女子が漢籍学習の 希望を訴えたり、ちょっとしたはずみで(例えば祖父が楽しみに孫である子 女に漢籍を子守がてら教えたとか、兄弟が家庭で漢籍の個人教授を受けてい る時、姉妹も傍で聞いていてそれとなく覚えた、一緒に学習したとか)もあ ったようです。 下記は、そうした数は少ないでしょうが、女子も漢籍の素読を受けた例 です。山川均さん、杉本鉞子(えつこ)さん、鳩山春子さん、三つの例を紹 介します。 山川均さんの姉の例 山川菊栄さんの夫・山川均さんが自伝の中に次のように書いています。 山川菊栄さん、山川均さんについては、すでに本稿の冒頭で紹介ずみです。 【山川均六歳】私は姉が小学校へ通うていたことは少しも覚えてないか ら、あるいは寺子屋の私塾で読み書きを習ったのかもしれぬ。当時はいっぱ んに、女はせいぜい手紙でも書ければたくさんとされていて、父も姉の教育 について、はたしてこれ以上のことを考えていたかどうかは疑わしい。もっ とも私の五つ六つの頃、懇意の漢学の先生がおりおりやってきて、二人の姉 に、今から思えば『論語』かなにかだろう、素読を教えていたことがあっ た。私は聞きかじりに「シノ、タマワク」「シノ、タマワク」と口まねして いたが、おそらく姉たちにしても、「シ、ノタマワク」という意味は分から ず「シノ、タマワク」と覚えていたろうと思う。 『山川均自伝』(岩波書店、昭36)より引用 杉本鉞子さんの例 下記の引用は、杉本鉞子(えつこ)さんの著書『武家の女性』からの引用 です。杉本鉞子さんは、明治6年生まれ、越後長岡藩の家老の家に誕生し、 武士の娘として育てられました。当時、女子が漢籍を学ぶことはごく稀なこ とだったが、祖母が大の読者家で、自分を尼として育てることに熱心だった ことから師匠について漢籍を学ぶようになったそうです。杉本鉞子さんは女 子が漢籍をば何だ特殊な例として次のような例を紹介しています。 当時、女の子が漢籍を学ぶということは、ごく稀なことでありましたの で、私が勉強したものは男の子向きのものばかりでした。最初に学んだもの は四書、すなわち大学、中庸、論語、孟子でした。 当時僅か六歳の私がこの難しい書物を理解できなかったことはいうまで もないことでございます。私の頭の中には、唯たくさんお言葉が一杯になっ ているばかりでした。もちろんこの言葉の陰には立派な思想が秘められてい たのでしょうが、当時の私には何の意味もありませんでした。時に、なまな か判ったような気がして、お師匠さまに意味をお尋ねしますと、先生はきま って、 「よく考えていれば、自然に言葉がほぐれて意味が判ってまいります。」と か「百読自ら(おのずから)その意を解す」とかお答になりました。ある時 「まだまだ幼いのですから、この書の深い意味を理解しようとなさるのは分 を越えます」とおっしゃいました。 正しくその通りだったわけですが、私は何故か勉強が好きでありました。 何のわけも判らない言語の中に、音楽に見るような韻律があり、易々と頁を 進めてゆき、ついには、四書の大切な句をあれこれと暗誦したものでした。 でも、こんなにして過ごしたときは、決して無駄ではありませんでした。こ の年になるまでには、あの偉大な哲学者の思想は、あけぼのの空が白むにも 似て、次第にその意味がのみこめるようになりました。時折り、よく憶えて いる句がふと心に浮かび雲間をもれる日光の閃きにも似て、その意味がうな ずけることもございます。 杉本鉞子(えつこ)『武士の娘』(ちくま文庫、1994)より引用 鳩山春子さんの例 鳩山春子さんは自伝の中で、彼女がひょんなことから漢籍を学ぶように なったということを書いています。鳩山春子さんは、文久元年・1861年生ま れ、共立女子大学創立者です。夫は鳩山和夫(衆議院議長)、長男・鳩山一 郎(首相)、孫・鳩山威一郎(大蔵事務次官、衆議院議員)、曾孫・鳩山由 紀夫(首相)、鳩山邦夫(文部大臣、法務大臣、労働大臣、総務大臣)とい う政治家一家のサラブレットの家系です。 【鳩山春子 六歳】私はある日の曝書(むしぼし)に、四書や五経をち らと見まして、こんな本を読んでみたいと云う気がきざしたものですから、 ちょっとそのようなことを母に申しました。祖母だの母だのは兄の教育に非 常に工夫を凝らして色々と骨折った経験もありましたから、それならばさせ てあげましょうと云うので、近所の漢学の先生に通わせてくれたのです。 一軒では少しずつほか教えられぬので論語や孟子は別々の所を一日に 三軒も廻って稽古したように覚えています。私は非常に凝り屋でありまし て、何か一つのことをするとそれに熱中します。それですから一軒の先生に 教わる位では満足できぬからそれからそれへと廻ったような訳でありまし た。この時分(明治五六年ごろ)には随分書物を教える人が沢山御座いまし た。それで一方には習字を始め、これも矢張りそれらの人に見て貰うといっ たわけでありました。 私は学校入学前に漢学の先生の所へ参りましたので初学の人より勿論 よく出来ました。それで論語や孟子の素読は暗誦するように覚えておりまし たが詩経や書経はむずかしくて覚えにくいように思いました。(中略) 武士の家庭では女に遊芸等はさせないのでしたから、音楽のような思 想はちっともなかったのです。都の兄が帰省しますとその時は、色々と詩吟 を教えてくれまして私は男子と同じように高声で詩吟する癖があり、これを 楽しみにしていたもので、姉と一緒によく吟じたのを覚えています。勿論意 味は分からず、唯それなりに唐詩選などを引張り回していたのです。 私共は、かような有様で唯勉強ばかり分からぬなりに一生懸命にした のにすぎません。論語、孟子、詩経など未だ乳飲み子に分かる道理はない じゃありませんか。けれどもこんなものを非常に熱心に読んで、殆んど暗誦 せんばかりによく繰り返したものです。母は余り監督がましいことは申しま せんでした。唯褒めるだけで、常に褒めてくれたものですから、朝未だ暗い うちに起床し、朝飯前に漢文の先生の所に参り、門の開くのを待って居りま した。その中に男児の人々が大勢参ります。女といえば私がたったひとりで ありましたが、少しもそんなことは怪しみません。みな到着順に教えてくだ さるので、私は第一番に教えて貰いました。 鳩山春子「自叙伝」(日本人の自伝、平凡社、1981)より引用 |
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