音読授業を創る そのA面とB面と 03・4・18記 河崎早春(女優)さんは語る(後編) 本稿は前編の続きです。 「きりぎりす」を暗誦したわけ 【荒木】 「きりぎりす」は全文章を暗誦して朗読公演をなさったわけです が、なぜ「本を見て朗読する」でなく、「暗誦して朗読する」と いう方法をとったわけですか。 【河崎】 「きりぎりす」は女性の一人喋りの形式を取っているので、全編 が台詞となります。しかも、かなり感情的な台詞が続きます。 日頃、私たちが喋るとき、頭の中に想念が起こって、それが言葉 になって出るわけですが、そこに「本を見る」というワンクッシ ョンを置かない方が、私にとっては作品の世界に入っていきやす かったのです。女を取り巻く空気、匂い、かすかな物音、といっ たものを全身をとおして感じようと考えました。 【荒木】 「本を見る」というワンクッションを置かない方が人物に入りや すいわけですね。 【河崎】 それに、手や体や視線なども、自由にさせたいと思ったのです。 これは身振り手振りということではありません。一人芝居のよう に、表現の一つとして表わすまでに持っていけませんでした。た だ、その人物として生きようと思うと、喋っているとき自然に体 が固くなったり、視線が動いたりするので、それに身を任せるこ とにしました。すると本を持っているときよりも、もっと自由に 生理が動いてくれるのです。 【荒木】 本を持って読むよりは、暗誦する方が、台詞が身体化(肉体化、 血肉化)されて、「自由に生理が動いてくれる」ということ、何 となく分かります。 【河崎】 45分もの台詞を暗記するということは 、とても大変な作業で した。暗記してから、自分の台詞として自然に出るようになるま でが大変でした。日常、私たちは思い出して喋るということはあ りません。生活の中で、時には動作をしながら、他のことに集中 しながらでも喋っています。そこで、考えずに自分の言葉として 喋ることができるように訓練してみました。それによって、台詞 を話すときに、頭の中に活字が出てこないようになりました。 生理と感情 【荒木】 暗誦したばかりのときは、文字づらが見えて、文字づらが思い浮 かんで、単にずらずらと読んでいるようになりがちです。聞き手 にも文字づらが浮かんで聞こえてきます。これではいけません ね。 今、河崎さんが「暗記してから、自分の台詞として自然に出てく るようになるまでが大変でした」という実感は、ほんとによく分 かります。 文庫で17ページの全文章を活字が出てこなくなるまで喋れるよ うになるには、その練習たるや、大変だったこと、十分に分かり ます。 【河崎】 どんな地の文でも、台詞でも、活字がそのまま声になるのではな く、体の中の生理を通して言葉として現れてくると思います。 【荒木】 生理と似た言葉で感情という言葉がありますが、生理と感情とは どこが違いますか。 【河崎】 わたしには、感情というのは自覚しているもの、生理はもっと深 いところにあるものというイメージがあります。生理から感情も 生まれます。体が思わず固くなったり、緊張が思わずほぐれた り、 というのも生理の働きです。体の中の生理を通して台詞が出るよ うになったら、これはほんものです。そうなると、本を見るより も更に深い集中力が要求され、指先から視線、全身に至るまで表 現になります。でも、本を離してみて初めて見えてくる世界があ ったのには大きな驚きでした。 【荒木】 「本を離して初めて見えてくる世界」とは、どんなことですか。 【河崎】 「きりぎりす」は、かなり切羽詰った女の独白です。ですから、 殆んど朗読というよりは、一人芝居というかんじに近いもので す。 そこに登場するのは主人公の女だけ。それを見ている作者の視点 も、地の文の客観的な目もありません。そうした設定の中でいか に私が主人公の女として舞台の上の存在するか、それを考えたと き「本を読む私」という形体が邪魔だったのです。動かさないな がらも、手や首や体のありようが自由になるというのは、女とし て存在することの助けになりました。このあたりが、本を持って 朗読するときとはまるで違うやりかたです。 体を解き放つことによって感じた生理の動きは、本を持って朗読 するときにも使えるなと思えるところが随所にありました。 体の中に実感を 【荒木】 芝居や朗読のとき、一番大切にしていることは何ですか。 【河崎】 そうですね。「具体的な感覚を大切にする」ということでしょう か。 例えば、「あの」「この」「私は」「あなたは」という言葉を無防備 に言わず、体の中に(頭の中にではない)その実感をもつことです。 「あなた」という言葉を発ししたときにおこる、体の中の感触・感覚 をしっかり感じているということです。 【荒木】 「体の中に感触・感覚を持つ」は、ほんとに大切ですね。これが あるか、ないかで表現が全く違ってきます。 【河崎】 実際、私たちが日常喋っているときの言葉にはすべて実感が伴っ ています。 例えば、興奮して喋っている人の言葉を聞いていると、その豊かな表 現に驚かされます。高低、強弱、語勢、間合いなど、思い切った表現 が自然に出ていることに気づきます。これは単語ひとつ一つの言葉に 実感が伴い、何を伝えたいという明確な意志が働いているからです。 段落のメリハリ、語ろうとする文章全体の構成など前もって考えてい ないのに、見事にそれをやってのけています。 【荒木】 朗読では、「何を伝えたいか・何を表現したいか」という意図を 明確に持っていることが重要ということですね。作品の深い解釈とい うことですね。 【河崎】 でも、読む場合には、書かれた文字の意識が集中するため、実感 が薄れてしまうように思われます。 これはあくまで私の場合ですが、意識を文字にとられないように するため本から顔を上げて読むことがあります。、「暗記」とい う状態ではむしろ「文字を思い出す」という意識にとらわれるた め、文字を見て読むよりも、もっと文字にとらわれてしまい、実 感のともなう音声表現から遠ざかってしまうからです。 ですから、暗記するのであれば、その言葉が自分の体を通して自 然に出てくるまでやる必要があります。 【荒木】 暗記では、身体化、肉体化、血肉化するまで繰り返し練習するこ とが必要ということですね。斎藤孝先生は「技化」といっていま すね。 【河崎】 しかし、それは本を離さなければできないということではありま せん。文字を見たままのほうがイメージがふくらむ方だっている でしょう。 あくまで私の場合は暗誦のほうが入っていきやすいということで す。 【荒木】 暗記がいい人、文字を見て読むほうがいい人、それぞれというこ とですね。 【河崎】 私の場合、「遠くの空を見上げると」というところで、遠くに視 線をやった方がイメージがふくらみ、その情景に対する情報量が 増えるのです。ですから、本から離れるということは私にとって は目的ではなく、作品(台本)世界の入っていくための過程なの です。最終的には目を上げて練習したイメージを持ちつつ朗読す るということもあります。 【荒木】 学校で音読指導をするとき、動作化という方法があります。例え ば「くじらぐも」(なかがわ りえこ)で、子ども達が「くじ ら」に「ここへおいでよう」と呼びかける会話文を読むとき、教 室の子ども達が一斉に声を合わせて、天(空)の方を向いて、天 (空)に今、くじら雲がいるものと仮定して、大きな声で呼びかけ ます。 迫真性が出ますし、楽しい授業が組織できます。一人で文字 (本)を見て読むときも、そのイメージがもとになり、迫真的表現 で読むようになります。 口先の技術にならないために 【荒木】 俳優の朗読を聞いていると、時々、口先のうまさ、口先の技術だ けで読んでいて、俳優の身体(内面感情)から出ていない声だ、 嘘の声になって聞こえる、ということがあります。そうならない ために気をつけることは何ですか。 【河崎】 例えば、「そこには赤いリンゴが揺れていました」の「赤いリン ゴ」を相手の印象に残すにはどうするか。 ・強調する言葉の前に間を置く ・ここだけゆっくり発音する ・大きな声にする ・わざと小さい声にする ・ここだけ早口にする ・言葉を粘らせる 等。 温かく聞こえるのと冷たく聞こえるのとでは物理的にどう表現が違う か、等も。 こうした細かな技術を積み上げることで、「伝達」の目的は達せ られますが、荒木さんのように感覚の肥えた人を感動させることはで きません。感覚の未熟な観客は、いかにも計算されたお涙頂戴の演技 や話し方に結構ホロリとくるのです。逆に本当にいいものは地味すぎ て伝わらなかったりもします。 【荒木】 いいえ、わたしはミーハ−で、センスはまだまだ未熟です。「本 当にいいものは地味すぎて伝わりにくい」これ、含蓄のある言葉で すね。 【河崎】 私がはじめに芝居でつまずいたのは、全てを頭で理解しようと 思っていたことです。アナウンサーのときは頭で理解することが とても重要 なのですが、これが手枷足枷になり、体を開放することができま せんでした。 何かをやる前に 、全体像を知識として掴み、それに向って感情 や表現を考えていく。これは、幹を作らずに枝葉だけを茂らせる ようなものです。そこには、頭で作った自分らしい人間はいる が、自分として存在することができなくなっていました。 考える前にまず存在すること。存在があって初めて、その体を 使って方向性を考えていくことが重要です。 【荒木】 技術以前に存在あり、ということですね。ハイデガーは人間を現 存在といい、実存の情状性を気分という言葉で分析(本質直観) しました。 メルロ・ポンティは「生きられる身体」ということを言いまし た。 河崎さんがここで「生理とか「存在」とか言っていることと似て いますね。フロイトやゆんぐの無意識のレベルまで下降させても いいかもね。 【河崎】 技術の積み重ねによって、あるところまではうまくいきますが、 それは自分の想像できる範囲(自分が認識している表現方法)で しありません。しかし、普段の生活の中では、自分も気づかなか ったような表現をしていることが多いのです。自分の無意識のう ちの表現、これをいかにコントロールすることができるか。これ が現代の演劇の基礎ともなっています。 「自分が気づかないような表現」とは、いま荒木さんがおっしゃ った「気分」とか「生きられる身体」とか「無意識」とかいうも のかもしれません。 【荒木】 話が抽象的になってきました。具体的な話に戻しましょう。 【河崎】 「あ、風鈴が鳴っている」 この台詞に、例えば悲しみの感情をのせる、それも一つの表現です が、実際には、 体で感じる風、遠い蝉の声、空気の暑さ、湿度、(そう言えばお 腹がすいた)などの生理現象、夏が終わるという焦り、けだるさ、 など、上げればきりのないほどの情報が一つの会話文にはありま す。 そしてそれらは全て意識にのぼったものばかりとはいえません。こ の情報量をいかに増やすか、ということが演技の表現においてとて も大切です。 【荒木】 こういう話は、長年、芝居や朗読で修行を続けてきた人からでな いと聞けない言葉ですね。 【河崎】 頭で入らず、体で作品の世界に入る。極力そう考えています。 「はじめに体ありき」です。その体をどうコントロールしていくのか という「きっかけ」を頭で指示するのです。 「とつぜん笑いたくなった」 (いま、ここで笑うことは不自然ではないのか、よし、大丈夫そうだ な。)こう指令を発するなどというと「演技に没頭できていない」 と言う人がありますが、それは反対です。あくまで体のありさまは 熱いままです。本気で夢中になっている、熱くなっている自分の直 ぐそばに、それをコントロールするもう一人の自分がいるという感 覚です。 この覚醒した状態がもてると、体はどんどん熱くなり、選択肢が 広がります。泣いた状態から突然笑い出すということが嘘の演技で なく実際にできてしまうのです。 【荒木】 これも、長年、修行を続けた人からでないと聞けない言葉です。 暗誦(暗記)教育について 【荒木】 最後に小中学校の国語授業での暗誦(暗記)教育についてどう考 えていますか。賛成ですか。反対ですか。 【河崎】 私は子どもの頃から、父にずいぶん暗記をさせられました。詩、 「たけくらべ」の冒頭、歌舞伎の台詞、香具師の口上、など。そ れによって、いろいろな言い回しや、文章の勢いや、韻律などを 自然に体で感じとることができるようになりました。 きれいな文章が、どんどん身の回りから減っている今、暗記する ことによって体で覚えると言うことはとても大切なことだと思い ます。 【荒木】 父からの影響が、今の自分に大変役立っているということです ね。 【河崎】 名文の言い回しなど、いちど体に入ったリズムは、再びその言葉 に出会ったときに、とても自然に、まるで自分の言葉のように違 和感なく使うことができるようになりました。きっと、暗誦した 言葉は、作文を書くときや日常会話のときにも自然に生きて働い てくると思います。 だって、今の中高生くらいの子ども達の会話って、恐ろしく語彙 が貧弱ですよね。「すごい」とか「かわいい」の連発で。アメリ カの下層階級の若者達の言葉を衛星放送で聞いていると、ほとん どGETとかTAKEで済ませているけど、今の日本の教育だと国語の 時間はどんどん減ってるようだし、文章のきれいな文学作品は次 々の教科書からなくなってるようだし。洗練された言葉を暗誦す ることによって、そうした言語文化も少しは守れるんじゃないか な。 【荒木】 暗誦で気をつけることは何でしょうか。 【河崎】 みんなで声をそろえて暗誦すると、文章がブツブツ切れてしまっ て、かえってその美しさを感じることができなくなるのではない でしょうか。作品の中にそっと心を開いて入っていったり、はじ けるような文章に体ごとぶつかっていったり、受けとめる個々人 が、いろんな感じ方をしたいですよね。指導される先生のやり方 にもよると思うんですが。 【荒木】 有益なお話、長時間、ありがとうございました。 トップページへ戻る |
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