音読授業を創る  そのA面とB面と     03・4・4記




  
河崎早春(女優)さんは語る(前篇)



                
        
河崎早春(女優)さんの紹介


  わたしの下手な紹介よりは、下記、河崎早春(女優)さんのホームペー
ジをご覧下さい。
          http://www.saharu-k.com/ へのリンク



         
本インタビュ−の目的


  わたしは河崎早春さんが、太宰治『きりぎりす』の朗読公演(2002
年6月17日、15時と19時の2回公演、阿佐ヶ谷アートスペース・プ
ロットにて)を開催したことを知りました。

  太宰治『きりぎりす』の冒頭はこうです。

  おわかれいたします。あなたはうそばかりついていました。私にも、い
けないところが、あるのかもしれません。けれども、私は、わたしのどこ
が、いけないのか、わからないの。私も、もう二十四です。このとしになっ
ては、どこがいけないと言われても、私には、もう直す事ができません。い
ちど死んでキリスト様のように復活でもしない事には、なおりません。自分
から死ぬということは、いちばんの罪悪のような気もいたしますから、私は
あなたと、おわかれして私の正しいと思う生き方で、しばらく生きて勤めて
みたいと思います。(岩波文庫版より)


  この小説は、作中人物「わたし」が語り手となって、冒頭から終末まで
えんえんと「私」の繰言が続く独り語りの文体になっています。「かつて純
粋だった画家が、有名になってお金が入り、俗物になっていくのを鋭く批判
する妻の独り語り」の内容になっています。
  この小説は、「昭和十五年十一月号の『新潮』に発表された。この頃、
太宰は職業作家として、ようやくいくらかのまとまった収入を得ることがで
きるようになった。そのことが太宰をして自分は原稿商人になってしまうの
ではないかという痛切な自戒をうながす。そして妻の目から、かつて純粋で
あった芸術家が、有名になり金が入り俗物になる過程を厳しく批判させる。
いかにも太宰らしい自虐的だがーー」(新潮文庫版、奥野健男の解説より)
というモチーフで書かれたものだという。
  河崎早春さんは、この『きりぎりす』全文をすべて暗誦し、一人芝居に
近い形式で朗読公演をなさいました。わたしは、「全文暗誦の朗読公演」と
いうことに注目しました。
  当時、斎藤孝『声に出して読みたい日本語』がベストセラーになってお
りマスコミの話題になっている時期でした。この本では暗誦が強調され、
「学校教育で暗誦を」が主張されていました。これまで日本の国語教育では
暗誦(素読)が重視された時代、あるいは軽視された時代がありました。
  この本のベストセラーをきっかけに、わたしも暗誦(暗記)教育につい
ていろいろと考えるところがありました。ところで、プロの俳優さんは暗誦
(暗記)についてどう考えているか、実際に暗誦による朗読公演をなさった
朗読者の切実な体験談を聞きたい、と思っていたところでした。そんな時、
メール仲間である河崎早春さんが全文暗誦による朗読公演をなさったことを
知り、早速インタビューを申し込み、快諾を得ました。


          
暗誦・暗記について


【荒木】 先日、太宰の「きりぎりす」という作品、この作品を、一人芝居
     形式にして朗読公演をなさったそうですね。終わって、ほっとし
     ていことでしょう。
【河崎】 結構、速いテンポで夫を責めたてるという、今までになくハード
     な舞台でした。
【荒木】 暗記は得意な方ですか。
【河崎】 今回の芝居、初めて作品をすべて暗記して、一人芝居の形にした
     のですが、ただでさえ暗記が苦手なわたしですが、3か月もの
間、
     寝ても覚めても、お風呂でも歩きながらでも、寝る前も電車のな
     かでも、セリフの稽古。100回以上はやったでしょうか。悪夢
     のような毎日でした。
【荒木】 暗誦の方法は、寝ても覚めても、起きていれば何時でも何処で
     も、暗誦の稽古、稽古だったんですね。ところで、今回の「きり
     ぎりす」の公演は、朗読だけだったんですか。一人芝居で動作、
     身振りがたっぷり入ったものだったんですか。
【河崎】 あまり朗読とか一人芝居とか考えずに、どうやったらこの作品の
     世界が表現できるのかを考え、とりあえず暗記してやってみまし
     た。座ったままで、特別に大きな動作はありませんでしたが、自
     然に手が動いたり、体の向きが変ったり、顔を上げたり、視線を
     動かしたりという小さな動作はありました。
【荒木】 なるほど、最初に形式があるのではなく、文章内容や文体があっ
     て、それをどう表現するかが問われ、そこから表現形式が生まれ
     てくるということですね。
     ところで、夫を責めつづける時間(公演時間)は、何分ぐらいで
     したか。
【河崎】 はい、およそ45分間です。
【荒木】 45分間もしゃべりっぱなしですか。けっこう、体力がいりまし
     たね。
【河崎】 これだけハードなスケジュールを一日に二回公演するのは、今の
     わたしの体力では難しいと思い知らされました。二回目は、暑さ
     と渇きとで、口が回らなくなりました。
【荒木】 これは、わたしだけでなく、誰でもが感じていることでしょう
     が、俳優さんたちはよくもまあ沢山の台詞を暗誦できるものだと
     感心していると思います。
     登場人物が数人ならば、対話は言葉のキャッチボールですから、
     相手の台詞によって(相手の台詞の投げる言葉で、相手の台詞に
     うながされて)こちらの台詞も出やすくなるだろうとは思います
     が、「きりぎりす」は相手のいない、一人喋りの独白です。岩波
     文庫で17ページ、新潮文庫で17ページ半あります。
     暗誦の仕方(方法)は人それぞれでしょうが、河崎さんは今回
    「きりぎりす」では、どのような仕方で実際に暗誦しましたか。暗
     誦のコツや深まりなど、教えてください。
【河崎】  先にも言ったように初めは暗誦しようという意識は持っていませ
     んでした。ただ、何度も何度も稽古を続けているうちに、言葉が
     自然に体になじんできます。そうなった時点で、本を放して読ん
     だものをテープにとり、「てにをは」などを細かくチェックしま
     す。このチェックを何度もやっていかないと、文章が自分のやり
     やすい形にいつのまにか変ってしまう危険があります。
【荒木】 何度も稽古を続けていくと、言葉が体になじんでくる、なじんで
     くると、自分のやりやすい読み方になりがちだ、それを原文(文
     体)に引き戻してチェックをかける、こういう言葉は、体験者の
     言葉というより、修行者の言葉から出る金言といえますね。
【河崎】 お褒めの言葉、ありがとう。
     このとき注意しなければならないのは、「言葉を思い出す」とい
     うのは朗読の足を引っ張る行為になるということです。普段の生
     活で言葉を話すときに、思い出しながら喋るということは、特殊
     な場合に限られます。
【荒木】 日常生活では、「言葉を思い出しながら」など話していませんよ
     ね。ごく自然に話しています。暗誦でも、ごく自然に言葉が出て
     くるようでなければならないということですね。
【河崎】 また、話をしているとき、そのことばかりに集中しているわけで
     はありません。 
     ・他のことが見えなくなるほどその話に夢中になって話す、だけ
     でなく,
     ・一生懸命話しているが、その話のほかに、周りの人の表情や反
     応などにも意識がある。
     ・話しているのと同じくらいの意識で、(時間、誰かの反応、そ
     の他の事柄など)ほかにも気になることがある。
     ・何かの作業をやりながら話をしているので、両方に意識があ
     り、あるときは話に、あるときは動作にと、集中点がころころ変
     る。
     ・話していること自体に集中できず、他に気になって上の空。
     などいろいろです。
【荒木】 話している最中の意識内は、あちらこちらに気を配っているとい
     うことですね。場面(状況)によって、脳内の内言があちこちに
     方向をもってひらひらしている、ということですね。
【河崎】 意識がどこにあるかということを考えるのは、台詞を話すときに
     はとても大切です。そのときに、覚えた台詞を話すのに精一杯だ
     ったりでは、他にも集中しながら話すなどは至難の業です。
     ですから、長台詞を早口で喋るためには、台詞が完全に自分のも
     のになるようにいろんなことをします。例えば、お茶を入れた
     り、何かを片付けたりというように他の作業をしながら喋って
     みたり、
     他人に話しかけてもらって半分それを聞きながら喋ってみたり、
     どんな状態でも台詞が自然に出てくるように稽古をします。
【荒木】 俳優さんの暗誦の仕方は、自然に台詞が出てくるようになるまで
     大変な苦労をしているということが分かりました。自然に台詞が
     出てくるまでにはいろんな暗誦レベルがあって、そのレベルに見
     合った稽古をしているということが分かりました。
【河崎】 最後に注意しなければならないことは、こうして完全に自分のも
     のになった台詞は、ともすると何も考えすに軽くぺらぺら喋れる
     ようのなってしまうということです。もう一度、しっかりと一つ
     ひとつの言葉にこだわって、状況(場面)の中の言葉に集中して
     それを自分の内部とつなげることによって、生きた台詞となって
     くるのです。


          
役づくり・演出について


【荒木】 「きりぎりす」の役づくりや演出プランについて話してくださ
     い。
【河崎】 この作品は、主人公「私」の独白体の文章になっています。世の
     中に認められてお金も入ってくるようになると、どんどん俗物に
     なっていく夫に愛想をつかした女の独白です。女の独白というこ
     とがこの作品を読む場合、重要な語りの基本線で、これをはずし
     たら台無しになってしまいます。
     夫に対し、よくもここまでというほど非難を浴びせるのですが、
     この主人公をどんな女にしようかと悩みました。
【荒木】 結論は、どう下しましたか。
(河崎】 私自身は正論を相手にたたきつけるという行為には、共感を持て
     ませんでした。何ともいやな女だとも感じました。正論のウラ
     に、
     女自身も感じられていないエゴが見え隠れしているように思いま
     した。勿論、この女自身は一点の非も自分に感じていないので、
     いやな女というのは、あくまで外から見てという意味です。
【荒木】 河崎さんは女ですから、女のウラの心がよく分かる、わたしは男
     ですから単純にそのまま信じてしまいますが。
【河崎】 ところが、そうやって掘り下げていくうちに、一番重要なことを
     忘れているのに気づきました。つまり、この作品は、男の俗物さ
     を表現するためにその対極として女を描いているということで
     す。
     ここで女を掘り下げすぎると、作者が描きたかった男が浮き彫り
     にならなくなってしまいます。
     そこで、一人の人間としては少々現実離れしているとは思ったの
     ですが、あくまで「純粋さの象徴」という形を全面に持ってい
     き、それに女の哀しさ、自意識の強さ、などの要素を加えて表現
     することにしました。
     精一杯に自分の純粋さを信じ、その信念を貫き通す女を演じるこ
     とで、結果としてその中に本当に純粋な魂を感じるか、あるいは
     女のかたくななまでのエゴを感じるかは、聞いてくださったお客
     様にゆだねることにしました。
【荒木】 会話文を読むとき、人物のウラの心を読み取り、ウラの心をいっ
     ぱいに出すか、少し出すか、オモテの心をストレートにだすか、
     そこを分析して、どちらかに決めて、その比重差を考慮して音声
 
     表現することが大切だと分かりました。
【荒木】 「私」(妻)と夫(画家)との関係(距離)をどうつかみ、その
     関係をどう声に出そうとしましたか。
【河崎】 「私」の夫は5年も一緒に暮らした相手ですから、台詞の中から
     夫との距離をどうつかむか苦心しました。夫婦のうんと緊密で濃
     密な距離と、うんと客観視した冷えて離れてしまった心の距離と
     が、言葉の端はしに、ふっと出てくるようにしたいと努力しまし
     た。女の内面を一つの色でなく、何層にもしないと薄っぺらくな
     ってしまうので、そんなことにも気をつかいました。


            
人物になりきる


【荒木】 これまでの芝居の役づくりが、今回の朗読の役づくりにどんな点
     で役立っていますか。
【河崎】 芝居の場合、どんな役でも、その役と自分との共通の要素を探る
     ことから始まります。そして自分の内部からその人物との共通点
     の芽を育てていこうと心がけます。
     うまくいけば、
     「あなたって、意外にあんな面を持っていたのね。」
     「あれは、地でやっているんでしょう。」
     などと、はたからは全く演じていないようにみえるのですが、な
     かなかそうはいかず、安直に自分を離れてその役だけ表面的にや
     ってしまったりして、私などそのたびごとに反省しています。
【荒木】 なるほど、そうですか。
【河崎】 「きりぎりす」では、自分の中にある主人公「私」の要素を見つ
     けようとしたのですが、うまくいったかどうか。24歳という設
     定ですが、芝居とは違うので、その年齢に近づけようとは考えま
     せんでした。でも、限りなく芝居に近い形で、自分がその女にな
     ってやってみようと努力しました。
【荒木】 なるほど、この作品の文体では、アクターが主人公「私」に同化
     することが必須条件ですね。この作品は、わたし(荒木)の地の
     文の分類表では、語り手が作品世界にもろに顔を出し(それどこ
     ろか作中人物となって登場している)「語り手が直接に語り聞か
     せている地の文」です。主人公「私」(視点人物)の気持ち(心
     理、感情)はとってもよく分かりますが、対象人物「画家」が
    「私」をどう思っているかは全く分かりません。主人公「私」の気
     持ちだけの、一方通行の超主観的、独断的な描かれ方の文体に
     なっています。
     この作品は、河崎さんがおっしゃたように主人公「私」の独白体
     の文体です。
     語り手「私」がこの作品の冒頭から終末までれんめんと、飽きも
     せず、膨大な量の夫への非難を語っています。アクターは「私」
     の目や気持ちに入り込むこと「私」になりきることが、まず重要
     ですね。
【河崎】 その通りです。一人称で語られているか、三人称で語られている
     か。朗読では、文体(語り口)から語り手は誰かをつかみ、語り
     手になって、語り手に入り込んで読むことがまず第一に重要で
     す。


         
わざとらしい演技にならない


【荒木】 主人公「私」を演じているとき、河崎さんの人格というものがあ
     りその上に主人公「私」の役を演じているわけですよね。自分を
     無にしたり自分を殺したりして「私」を演じていませんよね。そ
     のへんの兼ね合いはどうなんですか。
【河崎】 役を演じているときは必ず自分の内部の要素を使うようにしてい
     ます。嫉妬深い役であれば、自分の中の「嫉妬」を育てていくと
     言ったらよいのでしょうか。自分が意識していない、または自分
     の性格の中にないと思い込んでいるときはたいへんです。ある人
     は生まれ育った環境にさかのぼって、もしこういう生い立ちをし
     ていたら、というところから自分の性格を作り直していくと言っ
     ていました。
     ときには、自分が忘れたいと思っていた、自分のいやな面を表面
     に引きずり出し、直視しなければならなくなることもあります。
     自分から離れて役を作るとどうしても「いかにも演じている」と
     いうように、人物を薄っぺらくしてしまいます。自分の体を通し
     て、「いまこうして生きている」「感じている」と、その瞬間を
     真実として演じないと、作り物になってしまいます。
【荒木】 「いかにも演じている」と「いまこうして生きている」の区別を
     つけて演じること、とても重要ですね。自分の体をとおして人物
     が現実に生きているように、生活しているように、人物の内面の
     声をリアリティーをもって語ること、ほんとに重要ですね。
【河崎】 話は飛びますが、三流ドラマなどでいかにも悪役という感じで演
     じているのを見かけることがありますが 、どんな人も自分のこ
     とを悪人だと思って生きているわけではありません。だから、ど
     んな役でも演じているときは自分の真実として、真っ向から取り
     組まないと嘘になります。
     どんな悪人でも(私こそ正しいのだ!)または(こうするよりし
     ようがないのだ)と信じ、その悪人側に立って演じる必要があり
     ます。アニメの作り声ならぬ、作り演技ほどいやなものはありま
     せん。
     朗読の場合、あくまで「作者がどう描こうとしていたのか」とい
     うことが役つくりの原点で、ここを外すと作品を壊すことになる
     ので作品全体を見ながら役のバランスをつかむことがとても大切
     だと思います。
【荒木】 人物がその作品内でどんな位置(役割)にあるかを分析し、人物
     相互の関係図式の位置(役割)を際立たせて表現(演技)すると
     いうことですね。


          
登場人物へのなりきり方


【荒木】 「きりぎりす」は、24歳の女性(奥様)の独白です。この作品
      は語り手が女性ですので、女性が読む(語る)のに適していま
      すね。
     読み手は男性よりも女性のほうが適していますね。
     ところで、河崎さんという読み手の自意識、24歳の女性(奥
     様)という作品の語り手の自意識、二つの自意識のかねあい、合
     わせ方はどうしましたか。
【河崎】 例えば、小さい女の子が語っている形をとっている作品ならば、
     自分の意識を小さい子どもの頃に持っていきます。あえて小さい
     女の子の声色を作って表面的にわざとらしく表現する必要はあり
     ません。外から見て子どもに見える必要はないけれど、読み手の
     意識として、おばあさんか小さい女の子かでは身体の内部の意識
     や息づかいは変ってきます。
     でもそれは、わたしの中にある小さい女の子の気持ちをつかうの
     であって、「わたし」であることに変りはありません。
【荒木】 「きりぎりす」は、朗読発表会では、やはり女性が読むべき作品
     すよね。男性が読んで悪いわけはないんでしょうけれども。女性
     の会話文を、女性が読む場合と、男性が読む場合とでは、言い回
     しや抑揚の微妙さにおいて、女性の読み手に男性は負けます。
     朗読練習会では、女性の会話文を男性が読む場合も当然に出てき
     ます。「きりぎりす」を男性が読む場合も出てきます。その時、
     わたしだったらこうします。読み手の意識内部にその女性(奥
     様)
     を登場させます。場面の中における女性の気持ち(夫への非難)
     を想像し、その女性の感情を喚起させ、横溢させようとします。
     女性の気持ち(表現意図、夫への非難)が音声にのっかるように
     努力します。そうすると、読み手の男性の声ではあるが、女性の
     気持ち(表現意図、夫への非難)が前面に出るようになり、その
     女性の言い回しや抑揚も自然に出るようになります。もちろん女
     性の声色を作って読む必要はありません。
     声色は、どことなくわざとらしい作り声になり、かえって滑稽に
     聞こえることにもなります。男性の声であっても、女性の気持ち
    (表現意図、夫への非難)がたっぷりと声に出ていれば、それで十
     分です。気持ちが出ているかどうかが重要であって、声色は問題
     にはなりませんよね。
【河崎】 賛成です。女性の想いが十分に声に出ることがとても大切です
     ね。
【荒木】 暗誦は、とかくすると文字づらをなぞるだけの語り方になりがち
     です。単なる暗誦でなく、全文章を読み手の身体に染み込ませ、
     身体からにじみでるリアリティーのある台詞にして語らなければ
     なりません。単に丸暗記したことを語っている、とならないため
     にどんな配慮をしていますか。
     小学校の学芸会で、よくあるじゃないですか。児童の「学芸会読
     み」という読み方、気持ちが入らなく、ずらずら暗記言葉を単に
     出している語り方、です。
【河崎】 例えば、落語だって丸暗記なのに、上手な人の語りは丸暗記には
     聞こえません。志ん生さんが以前「言葉ができたて」ということ
     をおっしゃていました。それを聞いて「これだ」と思い、それか
     らはずっと朗読をするときはこのことを念頭に置くようにしてい
     ます。
     つまり、思い出すのではなく、「今」そのことを語ること、で
     す。そのためには、その言葉が体にしみこんで自然に口をついて
     出てくるまでかなりの量を読まなければならないと思います。わ
     たしも、思わず視線が泳いで、言葉を思い出そうとしたときは
    「ああ、練習量が足りない!」と反省することがよくあります。
                        後編につづく



              次につづく