音読授業の基礎理論 05・8・22記 『知覚の現象学1』序文を読む メルロー=ポンティ『知覚の現象学1』(竹内芳郎、小木貞孝、共訳。 みすず書房、1967)を読んでの、わたしなりの読み取りを備忘のためのメモ として書きおくことにします。 テキストとして使用した本は、みすず書房版『知覚の現象学1』ですの で、以下に数箇所に引用している本文からの訳文はすべてこれによります。 序文の位置づけ 『知覚の現象学1』の冒頭(つまり序文の冒頭)は、次のような挑発的な 文章で始まっています。 現象学とは何か。フッサールの最初期の諸著作から半世紀も経ってなおこ んな問いを発せねばならぬとは、いかにも奇妙なことに思えるかもしれな い。それにもかかわらず、この問いはまだまだ解決からはほど遠いのだ。 (1ページから引用) メルロー=ポンティは、序文の冒頭で「現象学とは何か」と問いかけ、 現象学の創始者・フッサールの最初期の著作から半世紀が経っているのに現 象学という学問はまだ定立されていない、まだまだほど遠い、と書いていま す。こうした挑発的な言辞を冒頭で言うからには、メルロー=ポンティには かなり自信に満ちた現象学観をお持ちであること、確かです。 次に、メルロー=ポンティは、「わたしは現象学をこう考える」という、 自分の現象学観を書きだし始めます。 メルロー=ポンティの現象学観を以下に紹介する前に、かれの研究者た ちはこの序文をどう評価し位置づけているかを知っているほうが理解が早い と思い、調べてみました。 ここの序文のなかで書いているかれの現象学観は、現象学の歴史において どんな意義や位置づけをもっているのだろうか。 それについて、何人かの研究者たちの見解を次に引用することにします。 みすず版『知覚の現象学1』の訳者・竹内芳郎は、『知覚の現象学1』 巻末の解説文のなかで、それについて次のように書いています。 この序文は、本文の、個別的問題に関する微細をきわめた現象学的記述 に先立って、およそ<現象学>なるものについて著者がどう考えているかを 端的に示した、注目すべき一文である。それはまことに独創的な現象学観で あって、見方によっては独断的にさえ思えるけれども、しかし今日では、こ のような現象学把握が現象学派の主流になりつつあることは記しておいてよ いと思う。(349ページから引用) 鷲田清一は、自著『メルロー=ポンティ』(講談社、1997)のなかで、 序文の位置づけについて次のように書いています。四ヶ所から引用。 メルロー=ポンティはこの著作の序文で、いわば現象学宣言のようなも のをおこなっている。(83ページから引用) メルロー=ポンティはかれの名をフッサール以後の最大の現象学者とし てのちにその歴史に刻みつけることになる『知覚の現象学』の序文において すでに<現象学>の限界というものをつよく意識して文章を書きだしてい る。ただし、それを、フッサール以上に<現象学>的に乗り越えようとして である。「現象学というものは、ただ現象学的方法によってのみ近づきうる ものだ」とは、その序文のなかの言葉である。(15ページから引用) フッサールの乗り越えというよりも、あきらかにフッサールの思考の射 程のなかにありながら「考えられないでしまったこと」の全面展開という意 味をもっていた。(16ページから引用) メルロー=ポンティは戦後しばらくたって起こった後期フッサールの思 考への注目、つまり「現象学ルネッサンス」、さらには「現象学の徹底化」 の仕掛け人だったともいえる。が、他方で、メルロー=ポンティは現象学の もっとも徹底した批判者でもあった。あるいは現象学のなかに未だ潜んでい る観念論的な契機、あるいは主観主義的な契機にもっとも批判的な視線を向 けたひとりでもあり、はやりの言葉でいえば、「現象学の脱構築」をこそ試 みたひとりでもあるといえる。(17ページから引用) 森脇善明は、自著『メルロー=ポンティ哲学研究』(晃洋書房、2003) のなかで、次のように書いている。二ヶ所から引用。 メルロー=ポンティにおけるこうした現象学的態度は、創始者フッサー ルの現象学に対して、しばしば継承の域を逸脱した独断的とも見紛う破壊作 業にも及ぶものであるが、むしろこれはメルロー=ポンティ自らによる現象 学の新たなる構築つまりは現象学の発見と見なすべきであろう。序文はいわ ばそうしたメルロー=ポンティの現象学マニフェストとして、荒削りながら 彼の哲学的発見の全行程が先取りの形で包摂されており、短文ではあるが創 見と決意に溢れた強めて示唆に富むものである。(4ページから引用) この序文は、メルロー=ポンティの現象学のマニュフェストとも見られ るもので、かなり気負った文体で述べられており、彼の並々ならぬ決意の程 が窺われる。(56ページから引用) 熊野純彦は、自著『メルロー=ポンティ』(NHK出版、2005)のなか で、次のようの書いている。 「序文」は、いわば、メルロー=ポンティの現象学宣言であり、また哲 学宣言でもある。そこでは現象学の基本的な方法的概念についてメルロー= ポンティの理解が示されているとともに、メルロー=ポンティの哲学的な姿 勢そのものが表現されている。(23ページから引用) メルロー=ポンティの現象学研究 現象学は、フッサールによって創始されました。フッサールの現象学 は、前期、中期、後期でかなりの違いがあるといわれています。フッサール の現象学は、ハイデガー、サルトル、メルロー=ポンティなどに受け継がれ ていくわけですが、三者三様の現象学の継承が見られます。つまり、現象学 は多様性(多義性)として発展していくわけです。 メルロー=ポンティは、フッサールのどんな著作や論文を読んで、かれ の現象学理論を確立していったのだろうか。研究者たちによると、中期や後 期の諸著作から影響を受けていると言います。 木田元は、自著『メルロー=ポンティの思想』(岩波書店、1984)のな かで次のように書いています。 『行動の構造』においては、フッサールや現象学への言及は意外なほど 少ない。文献表を見ても、そこではフッサールの著作として『イデーン』第 1巻、『内的時間意識の現象学講義』、『形式論理学と超越論的論理学』、 『デカルト的反省』、そのほかフィンク『現前化作用と像』が挙げられてい るだけで、ハイデガー『存在と時間』の名前さえ見当たらない。 (100ページから引用) 『知覚の現象学』の文献表を見れば、メルロー=ポンティが『行動の構 造』脱稿後どれほど本格的にフッサールの現象学の研究に取り組んだかが一 目瞭然である。 フッサール『「イデーン」へのあとがき』 フッサール『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』 フッサール『経験と判断』 フッサール『志向史的問題としての幾何学の起源についての問い』 フッサール『イデーン』第2巻 フッサール『コペルニクスの転覆、原方舟としての大地は動かない』 フッサール『危機』第3部 最後の三つの遺稿は、メルロー=ポンティがルーヴァンに赴いて閲読し たものである。(102ページから引用) メルロー=ポンティが、ルーヴァンのフッサール文庫に赴いて現象学研 究に没頭したことは有名な話です。このことはメルロー=ポンティについて 紹介している大概の本に書いてあります。木田元は、メルロー=ポンティの フッサールの読み方は、「かなり明確な一定の読み方……しばしば恣意的な 解釈だとか選択的な読み方だとか言われている……で、しかもその見方にか なりの自信をもっていた」と書いています。 現象学のいろいろ メルロー=ポンティは、序文冒頭で「現象学とは何か。この問いはまだ まだ解決からほど遠い」と書いています。すぐ続けてメルロー=ポンティ は、われの現象学はこうだ、ということを序文全体を使って書きはじめま す。 最初に現象学には多義性があることについて書きます。 論の運び方は、一方ではこうである、他方ではこうである、と二者を対 比した書き方になっており、メルロー=ポンティの現象学はこれら二者を統 一したものであると言っています。(以下の書き方は、A1とかB1とかの記 号はわたしが勝手につけた整理上のしるしであり、実際はA1とB1とはひと つながりの記述になっています。) ≪一方ではこうである≫ ○A1。現象学とは本質の研究であって、けっきょくは本質を定義すること に帰着する。知覚の本質、意識の本質といった具合である。 ○B1.人間と世界とを了解するために自然的態度の諸定立を中止しておく ような超越論的哲学である。 ○C1.一つの<厳密学>としての哲学たろうとする野心である。 ≪他方ではこうである≫ ○A2.本質を存在へとつれ戻す哲学でもあり、人間と世界とはその<事実 性>から出発するのでなければ了解できないものだ。 ○B2.世界は反省以前に、廃棄できない現前としていつも<すでにそこ に>在るとする哲学でもある。 ○C2.<生きられた>空間や時間や世界についての一つの報告書でもあ る。 上述の二者の対比は、≪一方ではこうである≫のほうは、勿論フッサー ルの現象学のことを言っています。フッサール『イデーン1』には、第一篇 には「本質と本質認識」について書いてあり、第二篇の第1章には「自然的 態度と、その定立の遮断」について書いてあります。また、フッサールには 『厳密学としての哲学』(1911)という著作もあります。 ≪他方ではこうである≫のほうは、メルロー=ポンティ独自の現象学の 内容を付加しています。 わたしは、B2に書いてある「世界は、反省以前に、廃棄できない現 前として<すでにそこに Deja la>在るとする哲学だ」を読んだとき、大 きな衝撃を受けました。これは、唯物論そのものではないか。メルロー=ポ ンティは、当時のフランスの政治的な状況の中で一時、マルクス主義に接近 し党活動した時期があり、かれの哲学は実存主義とマルクス主義とを総合し た独自なマルクス主義であると言われていることが、これらの言葉から了解 できます。 メルロー=ポンティの哲学は、両義性とか可逆性とかの哲学と言われて いますが、そのことはこれら二者の統一という現象学把握から当然の帰結だ と思われます。 つづけて、次のように書いています。現象学とは、 ≪一方では≫それは現に在るがままでのわれわれの経験の直接的記述の試み であって、その経験の心理的発生過程とか、自然科学者や歴史家または社会 学者がこの経験について提供し得る因果的説明とかにたいしては、何の顧慮 も払わない。 ≪他方では≫フッサールは、その後期の諸著作のなかで<発生的現象学>だ とか、<構成的現象学>だとかをさえ云々している。(3ページから引用) ここの引用は、前述した≪一方では≫と≪他方では≫との文脈的対比と は違い、フッサールは、一方ではこう言い、他方ではこう言い、かれの現象 学理論に矛盾があるではないか、という指摘をしています。これは、フッ サールの前期、中期、後期の現象学に相違があるのですから当然のことで しょう。(「構成的現象学」は中期、「発生的現象学」は後期。) メルロー=ポンティは、たとえ事情がどうであっても、現象学は発展途 上にあるのであり、現象学は、端緒の状態、[解決すべき]問題としての状 態、[実現さるべき]祈願の状態にとどまっているのであり、これが現象学 の本来の姿であるのだ、と書いています。 純粋記述について メルロー=ポンティは、純粋記述について、次のように書いています。 現象学では、「記述することが問題であって、説明したり分析したりす ることは問題ではない。」と。 記述することとは、事象そのものに帰ること、生きられた世界・知覚さ れた世界をありのままに記述すること、わたしの視界からの世界経験から出 発し、世界経験を呼び覚ますこと、このわたしの実存が意識における絶対的 な源泉であるのだ、と。(ここでの「純粋記述」の「純粋」とは「現象学 的」とも言い換えてもよいようにわたしは思います) それに対して、科学的な説明や因果論的または心理発生過程的な説明は 問題(重要)ではない。科学とは、生きられた世界のうえに構成されたもの であって、この世界経験の二次的な表現でしかない。そして「科学は知覚さ れた世界についての一つの規定または説明でしかない。」のだ。つまり、科 学は知覚された世界についての一つの説明、まだまだほかにもたくさんある 説明の一つにしかすぎないのだ。 事物そのものへたち帰ることが重要なのであり、一切の科学的規定(説 明、分析)は、この世界に対して抽象的・記号的・従属的でしかなく、この 世界の森とか草原とか川とかが教えてくれる風景(事実性)の豊饒さには、 地理学という学問はとうてい及ばないのである。 純粋記述は、科学的な説明を排除すると同時にデカルトやカントなど観 念論者たちの主観中心、主体の意識中心の反省的分析をも排除する。カント における意識の統一性は世界の統一性と同時的であるのだし、デカルトの方 法的懐疑も、世界はわれわれの経験においては、コギトのなかで再統合さ れ、確実なものとなっており、<……についての思惟>という指標を身にま とうようになったのだから。 また、フッサールはカントを批判して、カントを「魂の諸能力の心理主 義」と非難し、かれのノエシス重視の哲学を論駁し、ノエシス・ノエマ構造 を定立させた。 世界というものは、わたしの一切の分析に先立って、すでにそこに在る ものである。現実は記述すべきものであって、観念論者のように構築したり 構成したりすべきものではない。知覚を、観念論者のように判断とか諸行為 とか述定作用とかの高度な綜合作用などと同一視することはできない。知覚 は、世界についての科学などではなく、また一つの行為、一つの態度決定で もなくて、一切の諸行為がそのうえに図として浮き出てくるための地なの だ。知覚は、私の一切の思惟と顕在的知覚とがおこなわれる自然環境であり 領野なのだ。 つまり人間は世界内存在(etre au monde)であり、聖アウグスチヌ スのいう内面的人間、内在的真理の奥房などではなくて、人間は世界へと身 を挺している、世界に内属している主体なのである。 現象学的還元について メルロー=ポンティは、現象学的還元について、次のように書いていま す。 フッサールは、かれの著作のなかで還元の問題をしばしば論じており、 これ以上の時間をかけて論じたものはないと思われる。 還元とは、自然的態度をエポケーして超越論的意識へ還帰することだ が、ここでの意識は世界はすみずみまで見透かされている透明さのうちで自 己展開するといわれている。ヒュレー(感覚素材)は高次の現象を意味付与 する能動的な意味作用だと書いている。ここでの超越論的意識における統覚 は、ポールの意識もピエールの意識も前人称的な諸意識となり、それぞれが 同じに分有しているかぎりでの単一の一者の意識となる。こうして現象学的 還元は観念論的なものとなってしまう。 こうした反省的分析は、世界の問題も他者の問題も無視してしまうこと になる。自己(自我)と他人(他我)とは個体性をもたなくなり、区別のな いものとなってしまう。観念論では、<対自>も<対他>も意識の中に還元 してしてしまい、なくなってしまう。 人間は互いに他に対して外部というものをもたなければならない。<対 自>とは別に<対他>が存在していなければならない。<対自>と<対他> は人間において単純に並置されているのでなく、異邦人的傍観者(エトラン ジェ)をもち、(自我)と<他我>との弁証法があるのだ。 私は人間たちのあいだの一人として他人たちのまなざしに曝されてお り、超越論的主観性は相互主観性であるのだ。真のコギトは、私を<世界内 存在>とみることによって、こうした観念論を排除することができるように なる。 還元するとは、すでに自明なもの、気づかれないで通用しているものを エポケーすることである。が、常識や自然的態度をすべて放棄することでは ない。自然的態度の中には多くの真理も見出せる。反省においては、さまざ まの超出が湧出するのを見るために一歩後退して、われわれの世界に結びつ いている指向的な糸を喚起し出現させ、見出し見直すために一時さし控えて 還元することである。フッサールの弟子フィンクがいったように還元とは、 見慣れた世界を前にして、なれなれしさを断ち切ってしまうために大きな驚 きが必要なのである。還元の最も偉大な教訓とは、完全な還元は不可能だと いうことである。 フッサールが未発表論稿(『イデーン』2巻以降)で語っているよう に、世人や科学者の知見、そして自己の知見をも既得のものとみなさないこ とが大切で、哲学とは自己自身の端緒をつねに更新していく経験であり、 一にかかってこの端緒をば記述するところにある。現象学的還元は、こう した実存的な哲学の定式であり、ハイデガーの<世界内存在>も、現象学 的還元を土台としてのみ現れたのである。 形相的還元について メルロー=ポンティは、形相的還元について、次のように書いています。 フッサールによれば、一切の還元は超越的であると同時に形相的である という。実存の事実から実存の本性へ、現存在から本質へという移行がある ということである。 しかし、本質は目的ではなく手段であり、世界への実際の参加こそが一 切の概念的定着をひきよせる土台であるはずだ。本質を経過しなければなら ぬということは、哲学は本質を対象とするということではなく、これは逆に 「われわれの実存はあまりにぴったりと世界にとり込まれてしまっているた め、世界のなかに投げ込まれているそのときにはそうなっている自分を認識 することができず、したがって、われわれの実存は自分の事実性を認識し克 服するためにはまず理念性(本質性)の領野を必要とする。」ということを 意味している。 フッサールの有名な言葉「まだ黙して語らない経験をこそ、その経験自 身の意味の純粋表現へともたらすべきである。」(『デカルト的省察』) は、あたかも海底から引き上げられた魚網がピチピチした魚や海藻を同伴し ているのに似て、本質は経験のもつ生き生きした一切の諸関係を同伴してい るということを意味している。が「フッサールは本質を存在から分離した」 などということではない。分離された本質は言語上の本質といえども、それ はやはり意識の前述定的生活のうえに基づいているのだから。 本質を求めるということは、意識ということばの意味を展開したり、存 在の世界から言表された事物の世界へと逃れたりすることではなく、私の意 識の事実そのものをあらわにすることであり、いったん言説の主題にまで還 元された後の、観念上の世界などを求めることでなく、一切の主題化に先 立ってわれわれの前に在る「事物の自存性」(事実上の世界)をこそ求める ことである。 形相的還元とは、世界をありのままの姿で出現させようとすることに目 的があるのであり、反省には、意識の非反省的生活に密着させようとする努 力が要求される。 知覚ははじめから全的に真なるものではなく、真理へ接近していくも の、しだいに真理に近づいていくものとしてある。世界は私が生きていると ころのものであって、これで私は世界へと開かれ、交流しているわけで、わ たしは世界を全的に所有しているのではなく、世界はいつまでも組みつくし 得ないものとしてあるのだ。 世界のもつ事実性(偶然性)こそ、世界を世界たらしめているものであ り、こうした私の存在が私に対して確実たらしめていることになる。つま り、形相的還元とは、可能的(本質的)なものを現実的なものの上に基礎づ ける一種の現象学的実証主義の方法だといえる。 指向性について メルロー=ポンティは、現象学の枢要なタームである「指向性」(「志 向性」とも書かれることが多い)について語っています。次のように書いて います。 指向性については、現象学ではあまりにもしばしば論じられるが、指向 性は還元によってこそはじめて了解できるものとなるのだ。 フッサールの有名な言葉「あらゆる意識はあるものについての意識であ る」は、これだけならべつに新しいことではない。カントも、『純粋理性批 判』『判断力批判』のなかで似たようなことを言っている。『純粋理性批 判』では、「私の統一性についての意識のなかにはまえもって諸現象の連結 としての世界が予想されており、世界は私が自分を意識として実現するため の手段だ」ということも書いている。だからフッサールも、意識の目的論に ついて言及した際には『判断力批判』をあらためて取り上げて論じているわ けだ。 意識は世界投企していくものであって、意識は世界を包摂したり所有し たりするものでなく、たえず世界へと指向していくことをやめないものなの である。一方、世界のほうも前客体的個体として存在しているのであり、意 識に対する厳然たる統一性をもつ個体としてあるのである。 フッサールは「作用指向性」と「作動的指向性」ということを言い、二 つを区別した。前者はわれわれの判断や意思的な態度決定のことで、カント が語っていたのはこれである。後者は世界およびわれわれの生活の自然的か つ前述定的統一をつくっているもの、われわれの欲望や評価作用のなかでし らずしらずに働いているもの、われわれが見ている具体的な風景のなかによ りいっそうはっきりとあらわれてくるものであり、これがフッサールの現象 学が語っている指向性である。 現象学的<了解>と、「真にして不動な性質」だけに局限される古典的 <知解>とは区別されるべきである。現象学は<了解>を重層的に積み重ね ていく一つの発生的現象学であり、全体的な指向性を取り戻すことにあり、 世界を形態化して意味を浮かび上がらせる方法なのである。 人間の行動を観察するに意味をなさぬということはないのであって、そ れぞれの行動の場面にあっては、それぞれが、それぞれの状況に対するある 種の態度決定を表現しているのである。例を歴史にとれば、歴史を、多方面 から、多様な見方・視角で了解することが可能である。が、すべてはそれぞ れに意味をもっており、同時にあらゆる仕方で了解せねばならぬのであり、 すべての諸関係のもとに同一の存在構造を見出すのでなければならない。歴 史とは現在の瞬間のなかで分割不可能であると同時に、継起のなかでも分割 不可能なのである。歴史のドラマの結末は不明なのである。 われわれは「nous sommes au monde」(世界内に存在しており、世界内 に所属しており、世界内を指向している)のだから、われわれは「nous sommes condamnes au sens」(意味へと宿命づけられている)のである。 結論 現象学の重要な収穫は、世界または合理性という概念において極端な主 観主義と極端な客観主義とを接合させたことにある。合理性とは、それがあ らわれる場としての諸経験においてきちんと間尺にあうようにできている。 合理性は、さまざまの展望(パースペクティヴ)が混ざり合い、さまざまの 知覚が互いに確かめ合い、こうして意味(sens)があらわれ出ることにな る。 その意味(sens)は、絶対精神とか純粋存在とかいうものではなく、現 象学的世界は私の諸経験の交叉、私と他者との経験の交叉、それら諸経験の からみ合いによってあらわれ出てくる意味なのである。つまり主観性と相互 主観性(間主観性)とはきり離すことはできず、私の経験の過去と現在のな かで捉え直し、他者と私との経験のなかで捉え直すことによって統一をつく ることになる。 ここではじめて哲学者の省察が十分に意識的となり、自分自身の省察に 先立ってあらかじめ世界のなかに実現しておくことはなくなったわけだ。こ うして哲学者は世界や他者や自分自身を思惟し、それらのもののあいだの諸 関係を把握しようと努力するわけだ。かくして哲学者は自らのイニシャティ ヴをもって自分自身を確立し、また合理性を確立していく。 現象学的世界とは、先行している存在の顕在化ではなくて存在の創設で あり、哲学とは先行している真理の実現なのだ。哲学は世界と同じくはじめ から顕在的・現実的なものであり、どんな説明的仮説も、われわれが未完成 の世界を捉え直してこれを全体化し思惟する行為よりも、よりいっそう明確 であるはずはない。 合理性の背後には未知数(カントの物自体)なぞは存在しない。われわ れは接合というこの驚嘆すべき諸事実をたえず目撃しており、われわれこそ がこの諸関係の結び目なのだから。 真の哲学とは、世界を見ることを学び直すことである。その意味では、 歴史も哲学と同じだけの<深さ>をもって世界を深く意味づけていると言え る。われわれはこうして自分の運命を手中にしており、反省によって、また 同じく自分の生命をかけた決意によって、自分の歴史に責任を負っているの である。この反省と決意が実践されることによって己を確認し、できあいの 真理がどこからか天下って手中に納まるのではなく、自分の責任と努力に よって解決し創設していくことになり、それはある種の暴力的な行為(バイ オレンスかつパッショネートな行為)となるのである。 あらゆる知識(学問)は一定の公準(公理、基準)の<地盤>のうえに 合理性の最初の設立としての世界と、われわれの交流のうえに成立している のだが、哲学(現象学)だけはこのような原理(地盤)を欠いている。しか し、哲学(現象学)も歴史のなかにあるのだから同じく世界および構成され た理性(分かったところまでの理性)を用い、自分のよってたつ地盤をつき くずしてはまた新たな真理を確立し、これをつねに繰り返し、こうして自分 自身を二重化していくのである。前の自分と後の自分との対話、他人と自分 との対話、無限の省察を繰り返ししていくのだ。 現象学には、こうした自分が一体どこに行くのかも分からない、いつも 事をはじめからやり直していく歩み(試み)があり、この未完結性は不可避 なものである。それは現象学とは世界の神秘と理性の神秘とを開示すること を任務とするからである。つまり現象学は一つの学説ないし体系である前に 一つの運動なのである。 「現象学はバルザックの作品、プルーストの作品、ヴァレリーの作品、 あるいはセザンヌの作品と同じように、不断の辛苦である。」のだ。現象学 はこうした芸術作品と同じに、しんどい、骨の折れる制作活動(仕事、労 働、真理追求活動)なのである。かれら芸術家たちと同じ種類の注意と驚異 とをもって世界や歴史の意味をその生まれ出づる状態において捉えようとす る同じ意志をもつ。こうして現象学は現代思想と合流していくのである。 これが、わたしが序文の冒頭で書いた「現象学とは何か」の問いかけの 対する解答なのである。 トップページへ戻る |
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