音読授業の基礎理論          05・8・22記



『道徳の系譜』(22〜25節)を読む  



  ニーチェ『善悪の彼岸・道徳の系譜』(信太正三訳、ちくま学芸文庫、
1993)を読んでの、わたしなりの読み取りを備忘のためのメモとしてここに
書きおくことにします。
  このレジュメ作成のため、ほかに参考にした図書は、秋山英夫訳『道徳
の系譜』(ニーチェ全集第三巻、白水社)、木場深定訳『道徳の系譜』(岩
波文庫)、原佑訳『ニーチェ』(中公バックス世界の名著)などです。
  本稿には、ちくま学芸文庫版『道徳の系譜』第二論文の22節、23
節、24節を、本文にそって逐条的に重訳したものを掲載しています。初心
者にも分かるように書き出しているつもりです。


(はじめに、22節の理解を容易にするため、21節のつなぎ部分の内容を簡単
に次にまとめておきます。)

 神(キリスト)が人間の罪を身代わりなって返済してくれた。神が死に
よって肩代わりした。神は人間のために犠牲になった。こうして人間は自力
では決して償なうことができない負債(罪)を神に負うことになった。

  キリストのはりつけの刑によって、債権者(キリスト)が債務者(人
間)のために犠牲となる。それも債務者への愛から。こうして、今や債務者
(人間)のうちに良心の疚しさが根を張り、食い込み、はびこり、水虫のよ
うに広く深く浸透し、結果、人間は償いきれなくなり、永劫の罪を持つにい
たったのだ。

            
22節


 これによって何が起こったか。人間の自己呵責の意識が内面化し、疚しい
心が負債を罪として内面に取り込み、精神的に深められていった。こうして
自己に苦痛を与える宗教的な前提を持つことになった。人間の神への負い目
は、自分を苦しめる拷問具となった。

 人間は、神に、おのれの固有の動物本能と対立する、反対物を見ることと
なる。動物本能を神への負い目として解釈し直すこととなった。人間は神と
悪魔とのあいだに自分を置き、自分の自然、天性、事実を外へ投げ捨て、神
への負い目という否定面を肯定面へと解釈し直し、自分を生ける現実者や神
となすこととなる。神は審判者であり処刑者であるといった考え方、神の彼
岸や永遠に生きるといった考え方、自己のはてしなき責め苦や、はかりしれ
ない罪を罰といった考え方、これらを人間は持つことになった。

 これは比類なき精神的残忍さからくる一種の意志錯乱である。人間は自分
を、救われがたい罪ある者、呪われるべき者、到底罪を償うことができない
者となし、この固定観念の迷宮から脱出することを自ら絶ってしまった。こ
うして自分を絶対的な無価値人間だとはっきり確認することとなった。

 おお、この事態は何たる錯乱か、哀れむべきことか、乱心か。何とまあ暗
澹たる陰鬱な滅入るような悲愁に覆われたものであることか。これは疑うべ
くもなく、人間の内部にはびこっている最も恐るべき病気である。この呵責
と背理の闇夜の中に、愛の叫びが、あこがれの歓喜の叫びが、救済の叫びが
響きわたっていることを、いまだ誰一人として気づいていない。地上はすで
にあまりにも長いあいだテン狂院(精神疾患を治療する病院)と化してし
まっている。

【理解を容易にするための荒木コメントの付け加え】

 ◎   「おのれ固有の動物的本能」とは。人間の動物的な本性、つまり、
現世の欲望、エロス、快楽、悦楽、陶酔、など。人間の古い本能。

 ◎   「解釈し直す」とは。現世の生は、かりそめのもの、あやまったも
の、仮象のものにすぎず、真実の生は神の彼岸にあると解釈し直すこと。貴
族的評価を僧侶的評価へ解釈し直すこと。

◎     「もっとも恐るべき病気」とは。疚しい良心の病気のこと。人間で
あることに苦しむ病気のこと。


            
23節


 神の由来について言えば、このような人間の自己磔刑や自己陵辱でないも
のが過去にあった。もっと高貴な用い方が古代ギリシャの精神にあった。古
代ギリシャ人の神神の利用は、キリスト教の神の利用とは逆であった。自己
磔刑や自己陵辱のために神々を利用するのではなく、もっと高貴なやり方で
神々を利用した。古代ギリシャ人たちは高貴にして自主独立の人間たちで
あった。古代ギリシャ人たちは、決して自己自身を引き裂きもせず、事故自
身に暴虐を加えたりせず、「良心の疚しさ」なるものも寄せ付けず、長きに
わたって魂の自由を楽しむために神々を利用した。

 ホメロスの「オデッセイア」にあるアイギストスの話を例に出そう。不倫
の子アイギストスはギリシャ王アガメムノンがトロイアに出征中、王の妻の
クリュタイムネストラと密通した。王が帰国するや彼(王)を殺害し、一時
は権力の座についた。が、その王の子オレステスによってクリュタイムネス
トラと共に殺害された、という話がある。

 ここにあって、ギリシャ神話のオリュンポスの神々は、人間たちを忌み
嫌ったり怒ったりなどは決してしない。神々は、「かんと愚かなことだ」と
その不始末を見て思うだけだ。古代ギリシャ人たちはもろもろの凶事や災害
の原因を、人間の「無分別、愚かさ、頭の混乱」として許容していた。愚か
さではあるが罪ではないと考えていた。古代ギリシャの人たちは、残虐非道
の悪行に出会うたびに「おそらく神にたぶらかされたにちがいない」と頭を
ふりながら自問自答し、こうした言い逃れをよく言ったものだ。

 このように古代ギリシャの神々は人間をある程度まで弁護する役割を果た
していた。罰を下すことはせず、罪を引き受けることをしていた。


           
24節


 わたしは三つの疑問符で結末をつけることにする。

(1)一体、ここで一つの理想が立てられるのか。壊されるにか。

  理想樹立のためには、この世ではいつも、いかに多くの現実が中傷、誹
謗され、虚偽が聖化され、良心が惑乱されてきたか。その都度、多くの神が
犠牲になってきた。ひとつの聖殿が建立されるためには、ひとつの聖殿が壊
されねばならない、これが掟だった。

 われわれ近代人は幾千年にもわたって良心の解剖と自己の動物虐待を続け
てきた。人間はあまりにも長く自己の自然な性向(動物的本能)を「悪い目
つき」で見てきたために、自然な性向は「良心の疚しさ」となってしまっ
た。これとは逆の試みもあったのに。

(2)それをやるだけの強さをもつ者はいたのか?

 この目標に達するには、いまの神(キリスト)の時代の精神とは別種の精
神が必要だ。それは強壮な精神、征服や冒険や苦痛さえも伴う精神が必要
だ。きびしい高地や冬の漂白や氷の世界に慣れた精神が必要だ。一種崇高な
悪意さえもが必要でであり、自負に満ちた認識の奔放な気ままな精神すらが
必要であり、要するにこうした「大いなる健康」な精神こそが必要なのだ。

(3)これは、今日、はたして可能だろうか?

 いまよりもっと強壮な時代になれば、いつか救済する人間(創造する精
神)はきっとやってくる。この者の孤独は現実からの逃走のように民衆から
誤解されるが、じつは現実への沈潜、没入、掘り下げであり、こうして彼は
いちかは世人の眼前に姿をあらわすだろう。ニヒリズムやキリストの呪いか
ら救済する未来の人間、大地に目標を与え、人間に希望を取り返してくれる
反キリスト者、反ニヒリスト、この神と虚無との克服者はいつかは必ずやっ
てくる、きっとやってくる筈だ。

【理解を容易にするための荒木コメントの付け加え】

  ◎  「大いなる健康」(『善悪の彼岸・道徳の系譜』ちくま学芸文庫、
480ぺ最後)とは何か。

キリスト教の理想とする人間像とは全く逆の人間像。これがニーチェの理想
とする人間像だ。『ツァラトウストラはかく語りき』の中に多く語られてい
る、出現している人間像だ。超人。

◎「未来の人間」(『善悪の彼岸・道徳の系譜』ちくま学芸文庫、480ぺ
中)とは何か。

川原栄峰氏は次のように書いている。

『ツァラトウストラはかく語りき』に次のような文章がある。

「もっと高くもっと強く、もっと勝ち誇り、もっと快活の者ども、身も心も
まっとうにできている者ども、笑う獅子どもが来なければならぬ」「お前た
ち、ましな連中よ、学べ、笑うことを」(第四部、ましな人間20)

 「よし、獅子は来た。わが子らは、近くにある。ツァラトウストラは熟れ
た。わが時は来た。これはわが朝だ。わが日はのぼる。のぼれ、のぼれ、な
んじ、大いなるまひるどき。」(第四部、最後部)

 つまり、「未来の人間」とは、「笑う獅子」のこと。神の死ゆえに、絶望
を克服できた強者のことだ。

   (筑摩世界文学大系44巻『ニーチェ』(筑摩書房)付録の川原栄峰論
    文より引用)

             
25節


 もう何も言うまい。もう沢山だ。沈黙するのが一番だ。でないと、わたく
しより若い者、より未来に富む者、ツァラトウストラに許されている権限を
奪うことになってしまうから。


           トップページへ戻る