音読授業を創る そのA面とB面と 02・10・22記 第2回「詩のボクシング」全国大会の観戦記 「詩のボクシング」とは 「詩のボクシング」とは、楠かつのり氏(詩人、映像作家)がアメリカで 実施している「詩のボクシング」を、日本へ、まねて持ち込んだ詩朗読のイ ベントである。楠氏はアメリカで滞在中、タオスで「詩のボクシング」を観 戦し、そこでの詩朗読の声の力、観客の魂をゆさぶる声の息吹の力強さに感 動した。それで「詩のボクシング」を日本に取り入れることにした。 アメリカの「詩のボクシング」は,マイノリティーや反体制的な詩人た ちが多く参加する伝統があり、かなり過激な詩内容が読まれているようだ。 楠氏は、タオスで観戦した「詩のボクシング」の様子を次のように書いてい る。以下、楠かつのり『詩のボクシング』(東京書籍、1999)より引 用。 ーーーーーー引用開始ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 彼ら(荒木注。詩朗読の対戦者たち)はリング上で戦っているだけではな い。彼らは彼らの抱えるアメリカ社会の矛盾と戦い、時にシニカルに、また 時にコミカルに詩を朗読する。テント内に響く生々しいことばが、観客に現 実世界へのリアルな感触を与える。わたしはその感触がもたらす身体の火照 りを快く受け入れていた。 試合中、何度も席から身を乗り出して声援を送る観客たち。もちろん、 面白くなければ容赦なくブーイングを浴びせる。二人の詩人の生なことば が、第三者としての観客=他人と交わっているからこそ観客に身体的な反応 を引き起こさせるのだろう。(中略) ポエトリー・スラムやこのヘビー級のリングに上がってくる詩人たち は、社会的に抑圧された有色人種や先住民族などが多い。詩のことばが心の 痛みを癒すのか。懐かしいような気もする。だが実際には、そういった癒し とは無縁な闘いがくりひろげたのである。多民族国家で多文化主義のアメリ カでは、国民の心に白人のことばだけでは打ち破ることにできない複雑で厚 い壁があるのだ。だからこそ壁を打ち破るかのように抑圧された詩人たちは ことばを爆発させている。そこには感情とことばのリアルな交雑感が強烈に 印象づけられる。 (中略) 人間の吐き出す生の声、感情がいかに人の心をゆさぶりそしてそこに新 鮮な魂の息吹を与えるか。タオスでの「詩のボクシング」を見て以来、わた しは改めて「声」のもつ吸引力に強い興味をいだくと同時に、日本でも 「詩のボクシング」をやってみたいという気持ちになった。 (以上、同書8〜9ページから引用) 自分の詩を自己満足げに読み終えるようでは困るし、BGМや効果音に 頼った朗読しかできない詩人もだめだ。通常行われる詩の朗読では、観客に 向けて一方向的に自作朗読すればそれでよいのだが、「詩のボクシング」で は、対戦者は互いの敵を意識すると同時に観客に伝わるように朗読方法を工 夫しなくてはならず、その上、ジャッジの評価までも意識しなくてはならな いのである。 (同書10ページから引用) 次はタイトル名どうするかだ。アメリカがヘビー級なら、わが国では詩 の状況、体型からしてさしずめライト級というところか。 (同書11ページから引用) ーーーーーー引用終了ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー (荒木注。アメリカの「詩のボクシング」のタイトル名は、「ヘビー級タイ トルマッチ」となっている。そこへ参加する詩人達の生の声の深刻さ・過激 さからして、アメリカの「詩のボクシング」は、ヘビー級戦がふさわしい。 楠氏は日本の場合、語られている現代詩の状況をふまえ、アメリカと比較 して、日本の「詩のボクシング」の名称を、「ライト級タイトルマッチ」と 名づけたのではなかろうか。) 第二回「詩のボクシング」を観戦して わが国の詩人同士の対戦による「詩のボクシング・日本ライト級タイト ルマッチ」は、第一回が1997年10月(東京・スタジオ錦糸町)に開催 された。ねじめ正一氏が初代チャンピオンとなった。第二回は、谷川俊太郎 氏が、第三回は平田俊子氏が、第四回は島田雅彦氏が、それぞれチャンピオ ンとなった。 昨年から、詩人同士の対戦による「詩のボクシング」のほかに、 一般 人同士(会社員、主婦、看護婦、公務員、フリーター、学生、高校生など) の対戦による「詩のボクシング」も開催されるようになった。各県の地方予 選会と、予選で選ばれた代表選手が対戦する全国大会とがある。本年の第二 回全国大会は、イイノホール(東京千代田区)で開催された。本年の「詩の ボクシング」に出場した一般参加者は地方大会を含めると1200名をこえ る人数だったという。 わたしは、かつて(00,10,10.)、実際に、詩人同士が対戦す る「詩のボクシング」を観戦したことがある。第二回大会で、会場は東京水 道橋バリオホール、対戦者は、ねじめ正一氏と谷川俊太郎氏であった。谷川 氏が僅差で勝利した。 その後、これが、NHKテレビのBSで放映された。実際に現場にいて「詩 のボクシング」を見るのと、テレビの画像で見るのとでは、ずいぶん違うも のだ、と思った。実際の「詩のボクシング」の現場では、レフェリー(楠か つのり)の進行で、ねじめ氏と谷川氏がリングに交代で上がり、少しばかり のパフォーマンスを入れて自作詩を朗読する場面が順ぐりに流れていくだけ であった。 それがテレビ映像では現場の場面だけでなく、現場のリング下で解説を 加える、進行役の司会者(小林克也)、その相手役の解説者(高橋源一郎) がいてコメントを語り、会場外にも数箇所の観覧席があって、これまたそこ で解説を加える詩人(佐々木幹郎)や、感想を語る女優たち(岸田今日子、 熊谷真美)がおり、ほかにも応援や感想を語る家族(ねじめ家のアーちゃ ん)が登場したり、ほかに中原中也記念館の詩の愛好者たち、学習塾の子ど もたち、女子大文芸部員なども登場して感想を語った。そのほか、対戦する 両詩人の紹介コーナーもあり、アナウンサーによる場面全体を解説するナ レーションもある。 テレビ画面の構成というか編集というか、さすがプロだ、と感心した。 テレビ視聴者に分かりやすく、面白く、楽しく、スリリングに見せる画面構 成(編集)のテクニックはすごいものだと、びっくりした。自分の目で現場 を見るのと、テレビで編集された映像では、全く違うものに出来上がってし まうことに驚いた。 第二回「詩のボクシング」全国大会 本年の第二回「詩のボクシング」全国大会は、東京都千代田区のイイノ ホール(02,5,26)で開催された。これがNHK教育テレビ(02, 10,10)で2時間番組として放映された。 わたしは、これをテレビで観戦した。このほうが、分かりやすく、面白 く、楽しく観戦できるからだ。県の地方予選会で選ばれた代表選手は16名 で、リング上で2名ずつの対戦によるトーナメント方式の勝ち抜き戦であ る。四角なリングに2名の選手が上がり、自作詩を3分という制限時間内に 朗読し、七名の審判員が判定を下して勝ち負けを決める。勝者がトーナメン トで順順にせりあがり、こうして日本一の朗読王を決めるという方式であっ た。 第二回全国大会・決勝戦の様子 第二回全国大会の決勝戦は、倉地久美夫氏(福岡大会チャンピオン) と、うみほたる嬢(神奈川大会チャンピオン)の対戦となった。七名の審査 員の判定結果は5対2で、倉地氏が勝利した。わたしは、うみほたる嬢に軍 配を上げたのであったが、残念であった。 優勝した倉地氏は、詩朗読を始めると直ぐ、観客を一点(自分)に引き 入れるテクニックを、毎回、上手に使っていた。決勝戦では、冒頭が「い らっしゃいませ」の高音の呼びかけ、次に急にささやき声になって「泣いて いる女がいるのでした。季節の変わり目にーー」と語りだす。マイクを指で 軽く打って木魚の音を出したり、和尚さんの声色と語り口をまねて語った り、飯島直子のヌードの文句が出て、そのおかげで「ちっとも事故がふえる ばかりであった」という、おかしな笑いを誘う台詞を言ったり、マイクロ フォンに巻いてあるテープをはがして再び巻き直して「なんだろう」という 観客の視線を集めたり、時にこうした無意味なしぐさもしたり、無意味なし ぐさも自分に注目を集める計算されたしぐさのように見えた。全体におもし ろおかしく、ひょうきんな詩内容と音声表現をしつつ語っていた。 一方、うみほたる嬢の詩朗読は、淡々と、モノローグで、無表情に、地 味に、抑揚の少ない語り口で、単調な音声表現で語っていた。彼女の身体に は、あまりにも、既成の詩人という一般的表象が強すぎて見えた。ねくら で、オタクで、物静かで、孤独好みで、引っ込み思案で、物思いにふける、 という一般的詩人像(わたしの偏見かな、違っているかも)そのものの身体 に見えた。 審査判定の基準 倉地氏も、うみほたる嬢も、詩の完成度も高く、詩作や語りにかなりの 修練を積んでいることが分かった。勝敗の分かれ目は、パフォーマンスの差 であったと思う。観客にじっくりと詩内容を淡々としみとおるように、じん わりと語って聞かせるということよりも、エンタティナーとして、観客に、 おもしろく、楽しませて、見せて、聞かせるパフォーマンスの語りが勝利し たのであった。今大会の「詩のボクシング」の判定は、全体に、こういう傾 向(全部ではない、詩が貧弱で奇抜な衣装や言いぶりではダメ、説明過多な 詩もダメ)があったと思う。 今大会、異色の出場者に、寺内大輔氏(広島大会チャンピオン)がい た。音楽大学講師で、作曲家だそうで、声によるオノマトペだけの音声表現 だけをしていた。あるテーマ(イメージ、気分)を、声の擬音のみで作曲 し、演奏し、表現していた。オノマトペの音声表現のみで準決勝戦まで勝ち 進んだ。オノマトペだけの詩は、三好達治を持ち出すまでもなく、広く認め られてはいるが、オノマトペだけで準決勝まで勝ち進んだことは、このこと からも、今大会の「詩のボクシング」の朗読者(読み手、語り手、演者?) には、エンタティナーとパフォーマンスが要求されていたことが分かる。 詩人の自作詩朗読会 わたしは、幾度か、現代詩人たちの「自作詩朗読会」に聴衆となって聞 きに行ったことがある。例えば詩人が十人読んで聞かせるとすると、半数は 詩人が詩集を手に持ち、じっくりと朗読して聞き入らせる語り方、あとの半 数はコラボレーションといって、詩朗読と楽器演奏との共演、詩朗読と舞踏 (舞意、踊り、ダンス)との共演などであった。詩人がピアノ演奏をしつつ 詩朗読をしたり、または、詩人がひっきりなしに歩きつつ詩朗読をしたり、 あるいは、詩人が一部に身体動作を入れつつ詩朗読をしたり、擬音効果をい れたり、あるいは、詩人が卵一個を手のひらにのせつつ詩朗読したりなど、 こうした、詩朗読の場面もあった。 これまで、詩人たちの自作詩朗読会は、ほそぼそながらあちこちで実施 されてきている。現代詩のもつレトリックの難解さもあってか、自作詩朗読 会は一般大衆からはあまり受け入れられず、一部の詩の愛好者たちだけの参 加が多く、詩人たちの自己満足的、かつ自閉気味な性格をもっていることは 否めない。 こうした詩人たちのいまいちパッとしない自作詩朗読会に、「詩のボクシ ング」は風穴をあけるきっかけを作っているように思われる。詩人同士によ る第一回「詩のボクシング」時のチケット販売は、数日前に完売し、当日、 直接会場にきた人々は入場できず、会場外に置いたテレビモニターで観戦し たという。わたしが観戦した第二回「詩のボクシング」時も、わたしは予約 申し込みをして観戦したが、当日、直接会場にきた人々も多く、急遽、リン グサイド周りにぎゅう詰めの即席観客席を作った。それでも入場できなく て、すごすご帰った人もいたようだ。 これまで「詩のボクシング」のテレビ放映は、NHKのBSテレビで6 回にわたって放送されてきた。これら6回は、すべて1時間番組であった。 本年の第二回全国大会の放映は、NHKの教育テレビで、2時間番組として 放送された。 BSから教育テレビへ、1時間番組から2時間番組へ、このことから判 断して、NHKの「詩のボクシング」に対する番組編成の熱の入れ方が違っ てきていることが分かる。前述したように、とかく単調に流れがちな「詩の ボクシング」の現場を、テレビスタッフたちは、画面を楽しく、面白く、分 かりやすく編集し、構成していた。登場した数人の解説や感想をいう人たち は、軽いタッチの語り口で、気楽に、ひいきをほほえましく応援し、相手側 を遠慮しながらほほえましくかつシニカルに批判し、外野席同士も応援や批 判で軽いジャブの応酬(対戦)をしていた。テレビスタッフたちの編集方針 は、「詩のボクシング」は、こんなにも面白いものだよ、楽しいものだよ と、ヨイショ、ヨイショと持ち上げている編集意図が、わたしにはよく見え た。 学校教育への取り入れ 学校教育では討論(ディベート)がここ数年、さかんに実践されてきて いる。討論と「詩のボクシング」とは似ているところがある。どちらもラウ ンド制をとり、1ラウンドの制限時間があり、審判団がいて勝敗を決定する ところだ。討論は自己側の立論を完璧なものに確立し、相手側の立論を完膚 なきまでに論破する論理的な論証力と、その言語表現力が判定の基準とな る。 「詩のボクシング」は自分の詩作品の完成度と、それの言語表現力が判定の 基準となる。両者の違いは、討論は論理のパンチ力が中心となり、「詩のボ クシング」は感情(感動)のパンチ力が中心となる。 これまで学校教育では、「詩のボクシング」と似ていることは実践され てきている。「詩のボクシング」は、とりたてて目新しいことではない。 「朗読コンクール大会」とか「朗読チャンピオンを決めよう」とかのイベン トが国語の時間や、学級(学年、学校)行事で実践されてきた。わたしの1 3年前の著書『音読指導の方法と技術』(一光社)にも「表現よみコンクー ルを実施する」(130ページ)という項目で記述している。ここで読まれ る作品は詩とは限らず、物語もある。詩は自作詩もあれば、詩人の詩もあ る。長文の物語の場合は一場面の範囲を限定して、対戦者が同じ場面の文章 を朗読して勝敗を決める方法もある。審査員がいて、二名対戦で勝敗を決 め、トーナメントで勝ちあがり、チャンピオンを決めるところは「詩のボク シング」と同じだ。学級全員の中からチャンピオンを決める場合は、朝の会 で、毎朝、1,2組ずつを判定し、半月ほどでチャンピオンが決定するとい う長期の方法も取ることがある。 審査員は、学級全員とすることが大切だ。学級全員の、審査眼を肥やす ことが重要だ。学級全員の文学(芸術)的感性を磨き、音声表現する楽しさ を身につけさせることだ。どのような基準で審査すればよいか、その判定基 準を日常の音読指導の中で訓練し、身につけさせておくことだ。審査員全員 に「審査カード」をわたしておく。数個の採点評価項目、チェック欄、個別 の採点欄、総評記入欄、その他、対戦者名、日時などの記入もあろう。個別 の評価採点は、3点法、5点法、10点法などがあろう。こうした「審査 カード」は、従来から「音読カード」といって学校ではよく使用されてきて いる。この「音読カード」を「詩のボクシング」用に変更して書き換え、使 用すればよい。 インターネット「ヤフージャパン」で「詩のボクシング 学校 教育 指導」と記入し、「検索」をクリックすると、「約65件のページが見つか りました」と出た(02、10、20)。その一つ、「日本朗読ボクシング 協会・公式ホームページ」を開くと、小学校、中学校、高校、大学の「詩の ボクシング」の指導実践例が幾つも報告されている。NHKテレビで取り上げ られた影響は大きく、今後ますます「詩のボクシング」は教育現場で指導実 践されていくことが予想される。「詩のボクシング」は、決まった一つの方 式があるわけではない。その学級・学年・学校、学校対抗戦、それぞれに即 応した最良の方式が工夫され、実践されていけばいい。 わたしは、「詩のボクシング」を、児童が「遊ぶ、たくさん遊ぶ、そし ていっぱい楽しむ」、こうした雰囲気に満ちたイベントであってほしいと思 う。所詮、詩人たちは、芸術(詩、小説、絵画、彫刻、音楽)に集団で寄っ てたかって点数をつけ、勝ち負けを決めることが可能なのか、この問題をほ おリ投げて、というか、それを十分過ぎるほど承知していながら、おふざけ も半分で、「詩のボクシング」をおおいに遊び、楽しんでいるのだから。 参考資料 詩人同士が対戦する第二回「詩のボクシング」大会は、対戦者が、ねじ め正一氏と谷川俊太郎氏であったことは前記した。ねじめ正一氏は後日、こ の対戦をふりかえって次のように書いています。 ーーーーー引用開始ーーーーーーー 小説を書くようになって遠ざかっていた詩の朗読ですが、「言葉を声に 乗せて届かせる」というテーマはずっと考えていました。そんなおり、詩人 の谷川俊太郎さんと詩のボクシングをやろうという話になりました。199 8(平成10)年のことです。 詩のボクシングは朗読対決です。舞台=リングに上がって、どちらの言 葉がお客さんにより届くかを競うわけです。私はお客さんに届く言葉ならば 何でもいいと思って谷川さんと闘いました。誤解を招くかもしれませんが、 本当に何でもいいと思っていたのです。 私は芸人ではありません。単に受ければいいわけではありません。それ だったらぜったいにビートたけしさんに敵いません。詩のボクシングでいち ばん大切なのは、詩のボクシングというスタイルを遊べるかどうかです。勝 ち負けに関係なくいや勝ち負けさえも楽しめるかどうかです。 これまた誤解を招くかもしれませんが、詩のボクシングはお遊びです。 詩のボクシングそのものを、勝敗を目的化するのではなく、対戦する谷川さ んと私がお客さんの前でどれだけ遊べるかです。言葉の遊びにお客さんをど れだけ巻き込めるかが、私と谷川さんがやった詩のボクシングだったのです。 谷川さんは遊び相手としては最高でした。私の性格もちゃんと見抜いて、 ここでこう言えばねじめはこう出てくるだろうと予測して言葉を出している のがよくわかりました。お客さんのこともよくわかっていて、こういう言葉 をこう出せばドッと沸くだろうというのをちゃんと計算できていました。私 も谷川さんの性格はわかっているつもりでした。おおいにおちょこくってや ろうと思いました。判定は私の負けでしたが、おおいに悔しく、おおいに楽 しんだ詩のボクシングでした。 ーーーーーー引用終了ーーーーーー ねじめ正一『NHK日本語なるほど塾8月号 言葉よ、立ち上がれ』 (日本放送出版協会発行2004・9・1)62ぺより引用、 トップページへ戻る |
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