暗誦の教育史素描(その5)     08・05・21記




自伝からみた幕末維新期の素読風景


                


        
幕末期の政治社会状況


   1853年6月、アメリカのペリーが浦賀に来航し、開国を求める大
統領の国書をさしだした。軍艦の威力におされた江戸幕府は、翌年、回答を
求めて来航したペリーと日米和親条約を結ぶことになる。江戸幕府はついに
開国にふみきったのである。
   開国と前後して、幕府の弱い外交姿勢に反発する大名や武士や公家た
ち、それを支持する下級武士や農民たちは尊皇攘夷の運動を起こした。この
運動に対して幕府の大老井伊直弼は、百名以上の人々を処罰し、幕府を批判
する吉田松陰らを処刑した。これに反発した水戸藩の浪士たちは井伊直弼を
江戸城の桜田門外で暗殺した。こうして天皇を中心とする王政復古が確立し
ていく。幕末維新期は、倒幕運動、尊王攘夷、薩長同盟、王政復古、戊辰戦
争、農民たちの一揆など、政治や経済に大きな混乱が起こった時期であっ
た。
  労働運動家の片山潜、評論家の田岡嶺雲の二人は、彼等の自伝の中で幕
末維新前後の政治社会状況を次のように描写している。


片山潜(安政6年・1859年、生まれ)
   予(片山潜)の生まれたのは安政六年十二月七日、明治元年を去るこ
と約十年前であった。しこうしていまだ徳川幕府の政治、いわゆる将軍政治
の行われていたころであった。しかれども時まさに維新の革命が起こらんと
する夕べであったから、天下はきわめて騒々しく、諸所方々に浪人どもが徘
徊し、予の村のような辺鄙な山の中へでも時々舞い込んできて百姓を威嚇し
たために百姓らは安心して稼業に従うことが出来なかった。また同時に浪人
のなれの果てで、いわゆる「雲助」となって予の家などにあは金品をネダリ
に来たことを予はうすうす覚えている。ちょうどこの時は彼の有名な安政の
疑獄が起こっていたので満天下の志士にしていやしくも徳川の政治に反対の
運動をなしたおも立った者は皆捕縛されて江戸へ送られた。幕府は彼らに向
かってきわめて峻酷なる裁判の判決を下して、アタラ天下の人才、有為の人
物をドシドシ断罪に処してしまった。吉田松陰などいう有名な人傑が殺され
たのも此の疑獄の結果であった。
   しかりしこうして間もなく、この安政疑獄の大発頭人であった幕府の
井伊直弼はもろくも三月三日、花の節句の朝、桜田門外の雪の中で水戸の浪
士に暗殺せられ、ここに天下の形勢は一変した。諸外国はしきりに開港を迫
り、尊皇攘夷の運動に満天下を震動し、鼎の湧くがごとく有様であった。あ
るいは馬関の砲撃となり、あるいは長州征伐となり、また変じて徳川将軍の
大政返上となり再転して倒幕の大挙となり、ついに維新の革命は功奏して王
政維新、明治政府の建設となったのである。かくのごとく予の生まれた時節
は随分騒がしい世の中であった。(中略)

  維新の当時、我邦の思想界を支配する一大勢力は漢学であった。もとよ
り深く穿鑿せば維新の大業は人類進歩の結果であって時勢のしからしむると
ころである。ことに欧州文明の滔々たる大潮流に激成せられたるものといわ
ねばならぬ。しかれどもそのよくこの維新の大業をして成功の局を結ばしむ
る任に当りたる当時の志士にして当時尊王攘夷を主張して幕府の転覆を企図
したる各藩の有志らは漢学者であった。彼等は当時改革思想を浅見烱斎の
『靖献遺言』、頼山陽の『外史』または『大日本史』より得たのである。し
かり、維新前後思想界の牛耳をとり、天下の志士を指導したる者は藤田東湖
の如き、吉田松陰の如き、皆その思想を漢学より得たる者である。しこうし
て維新の大業は当時聖堂に群集せる学生等の成せるものというも過言ではな
い。かくのごとく維新の大業が主として漢学者の手によって成功せるがため
に維新の新政府が建設されると共にこれが事業に関係せる漢学者は要路に地
位に立った。
        片山潜『自伝』(日本人の自伝8、平凡社、1981)より


田岡嶺雲(明治3年・1870年、生まれ)
   維新の革命には二様の意義を含む、一は王政復古の名によって象徴せ
られたる国民的統一、一は尊王倒幕の呼号によって標示せられたる民権拡
張、即ち是である。
   王政復古は、即ち所謂黒船の浦賀来航によって刺激せられたる我が国
民が、対外禦侮の必要上、国家の政令を一途に帰し、全国民の力を挙げて其
の祖国の強盛を図らざる可からざることを自覚したるにより起こった叫びで
ある。外に対して挙国一致の必要を自覚したるわが国民は、其の挙国一致の
為には、一方には主権の在る所を唯一にすると共に、一方に全国民を此の一
主権者の下に平等なる国民たらしむるの時勢の急務たることを感得した。即
ち徳川幕府を転覆して四民平等の政治を布くの理想に向かって驀進した。即
ち其の旗幟とする所は尊王倒幕であった。
       『田岡嶺雲全集・第五巻』(法政大学出版局、1969)より



   
幕末期に生まれた人々の素読学習の様子


  次の文章は、自伝・自叙伝の中から漢籍の素読の場面の文章だけを抜き
出し、そのままに引用しています。時系列をおって年代記風(誕生順)に並
べて書きすすんでいる。
  幕末維新期に生まれた人々が、幼時や児童期にどんな勉強をしていた
か、誰から、どんな教科書を使い、どんな学舎で、どんな指導方法で、どん
な通学の様子であったか、などについて書いてあります。
  どんな漢籍の素読暗誦の指導を受けたか、その様子についても書いてあ
ります。


片山潜(安政6年・1859年、生まれ)
   維新の当時、我邦の思想界を支配する一大勢力は漢学であった。もと
より深く穿鑿せば維新の大業は人類進歩の結果であって時勢のしからしむる
ところである。ことに欧州文明の滔々たる大潮流に激成せられたるものとい
わねばならぬ。しかれどもそのよくこの維新の大業をして成功の局を結ば
しむる任に当たりたる当時の志士にして当時尊皇攘夷を主張して幕府の転覆
を企図したる各藩の有志等は漢学者であった。彼等は当時改革思想を浅見烱
斉『靖献遺言』、頼山陽の『外史』または『大日本史』より得たのである。
しかり、維新前後思想界を牛耳をとり、天下の志士を指導したる者は藤田東
湖の如き、吉田松陰の如き、皆その思想を漢学より得たる者である。しこう
して維新の大業は当時聖堂に群集せる学生等の成せるものというも過言では
ない。かくのごとく維新の大業が主として漢学者の手によって成功せるがた
めに維新の新政府が建設さるるとともにこれが事業に関係せる漢学者が要路
の地位に立った。 片山潜『自伝』(日本人の自伝8、平凡社、1981)より


渋沢栄一(天保11年・1840、生まれ)
   其の当時は一般に百姓や町人には、学問などは必要がないとせられて
おったにも拘らず、父晩香は、今日の世に立つにはどうしても相当の学問が
なければならぬというので、六歳の頃から父は私に三字経の素読を教えら
れ、大学から中庸を読み、論語まで習ったが、八歳頃から従兄に当たる手計
村の尾高惇忠氏に師事して修学した。維新前の教育は、何れも主として漢籍
によったもので、江戸表などでは初めに蒙求とか文章物を教えたりしたやう
に聞き及ぶが、私の郷里などでは、初めに千字文三字経の如きものを読ま
せ、それが済んだ処で四書五経に移り、文章物は其後になってから漸く教え
たもので、文章軌範とか、唐宋八大文の如きものを読み、歴史物の国史略、
十八史略、又は史記列伝の如きものを此間に学び、文選でも読めるまでにな
れば、それで一通りの教育を受けた事にせられたものである。
   私の師匠である尾高惇忠の句読の方法は他の師匠と多少趣を異にして
居り、初学の中は、一字一句を暗記させるよりは寧ろ沢山の書物を通読させ
て自然と力をつけ、此処は斯ういふ意味、此処は斯ういふ義理であるといふ
風に、自身で考えが生ずるに任せるという遣り方であったから、尾高に師事
してから四、五年の間は、殆んど読むことだけを専門にする有様であった
が、十一、二歳の頃になって朧気ながら其の意味が分かるやうになったの
で、初めて幾らか書物を読む事が面白くなって来た。尤も年少のことである
から堅い書物は能く理解できなかったので、通俗三国志とか、里見八犬伝と
か、俊寛物語といふやうな誰が読んでも面白いやうなものを好んで読んだの
であるが、或る日、師匠に此の事を話して其の意見を聞いて見ると、『読書
に働きをつけるには、読み易いものから入るのが一番よい。どうせ四書五経
のやうな難しいものを読んでも、之れを本当に自分のものとして活用するに
は、相当な年配のなって世間の物事を理解する様にならなければ駄目である
から、今の中は面白いと思うものから読むのがよい。唯、漫然と読んだだけ
では何にもならぬから、心をとめて読む様にするがよい。さうすれば知らず
識らずの間に読書力がついて、外史のやうなものも読めるやうになり、十八
史略や、史記や、其他の漢籍も段々面白くなるものだ。』と教えられたの
で、之からは殊更好んで稗史軍書のやうなものを読むやうになった。其の好
きであった証拠には、私が丁度十二歳の正月のこと、年始の回礼に赴いた
際、好きな書物を懐中に忍ばせて家を出て、途中之れを読みながら歩いてい
たが、本の方に気を取られて足元に注意しなかった為め、不覚千万にも溝の
中へ落ちて春着の衣装を台なしにして仕舞ひ、母親のため非常に叱られた事
もあった。     渋沢栄一『渋沢栄一自叙伝』(大空社、19989)より
  

新島襄(天保14年・1843年、生まれ)
   嘉永元年習字の稽古を始める。同六年藩の漢学所で漢学を学ぶかたわ
ら藩命により、乗馬、剣道の訓練を受ける。
   十四歳(安政三年)のとき、私は乗馬や剣道の練習をすっかりやめ
て、漢学だけに熱中した。ちょうどそのころ、私の藩主は蘭学に通暁したあ
る日本人の学者(医師の杉田玄白)を自分の館に招いて、その風変わりな言
語を彼の家臣に教えさせた。彼は家臣の中から、僅か三人の若者を選び出し
て、杉田から教えを受けさせた。私はその三人の中の一人で、しかも一番の
若輩だった。私は彼の元で1年ちかく蘭学を修めた。師の学識は、まもなく
幕府の知る所となり、彼は長崎に行ってオランダ人から機関学と航海術を習
得するように命じられた。
   新島襄著「私の若き日々」(日本人の自伝3、平凡社、1981)より
   

石黒忠直(弘化2年、1845年、生まれ。)
   嘉永三年、私は六歳、甲府で『大学』の素読を天野敬亮、習字を坂本
一鳳、画を竹村三陽という先生に学びました。同四年、私は重き疱瘡に罹
り、満面のあばたとなりましたが、一命を捕り止めたのは幸いでした。同五
年には私は八歳、阪部先生に就いて剣道を学びました。(中略)なお記憶に
残っているのは、「学問御吟味」という今の学校試験があったものですが、
その場合、私も学業優等で誉められ、父から御褒美に友だちと一緒に増田屋
の饅頭を頂戴したのを覚えています。
           石黒忠直『懐旧九十年』(岩波文庫、1983)より


松山守善(嘉永二年・1849年、生まれ)
   安政五年余十歳。京町向台寺町内山為彦の門に入り習字読書の教えを
うく。その頃の習慣にては七、八、九歳にして入学するのが通例なれども、
父は薄給にして兄弟多く家貧にして就学するの資なく、近隣の同輩が手を携
えて学校に行くうしろ姿を眺め、または相寄って学校の話をするを聞くごと
に、うらやましく、憂愁を感じたることをいまなお記憶す。同六年余十一
歳、父兄より吉田松陰、頼三樹三郎、橋本左内ほか勤皇諸士刑死の物語を聞
き、これに同情憤慨し、井伊大老をにくむこと切なりしことを記憶す。
  松山守善著「松山守善自叙伝」(日本人の自伝2、平凡社、1982)より


植木枝盛(安政4年・1857、生まれ)
   氏(荒木注、植木は自伝の中の文章で、自分を「氏」と書く)は十歳
に及び始めて習字師範島崎忠輔先生の門に出入りし筆書を学ぶこととなり、
また十一歳に及び始めて文武館(のち致道館)に通学し、まず句読席におい
て(文武館その課を大別して文学武芸の二つとなし、文課の中またその席を
分かちて二段となす。一を句読席となし、二を独看席となす)四書五経など
の句読をなし、次いで独看席に入り更に経史を講究し、習字は十四歳の終り
に至りてこれを廃し、十五歳の時夏に七月よりは県庁のための公費をもって
致道館入塾生を申し付けられ(勉学の厚きを賞してその褒として公費入塾を
与えられる)、感奮して一層学事の勉励することとなり、これよりは漢学の
みならず、翻訳書をも併読することとなる。
   植木枝盛「植木枝盛自叙伝」(日本人の自伝2、平凡社、1982より


小平邦彦の祖父
   明治元年に十一歳であった祖父は、子供の頃寺子屋にでも通って白文
の素読で漢文を学んだのであろう。白文というのは訓点をほどこしてない漢
文のことで、素読は意味を説明しないで音読させることをいう。「読書百遍
意自ずから通ず」で、素読を繰り返していると意味は自然に分かったものら
しい。
   後に私が中学の三年になった年の夏休みに、漢文がわからなくて困っ
ていると、祖父が教えてやろうという。これは有難いと思って教科書をもっ
ていくと、祖父はそれを眺めて「へー、こんなものが読めんかねー」という
だけで、遂に一言も文章の意味を説明してくれなかった。白文の素読で漢文
を学んだ祖父は、教えるというのがその意味を説明することだということに
思いが至らなかったのであろう。
   祖父は毎日朝六時に起きて風呂に入り、そこで一時間体操をする。夕
食は散歩に出て上諏訪町の端から端まで四キロ歩く。雨が降った日には町へ
出る代わりに家の縁側を繰り返し往復して四キロ歩く、という規則正しい生
活をしていた。漢学に通暁し中国の歴史に詳しかった祖父は、私を膝にのせ
て中国の歴史についていろいろ話してくれた。私はそれをお伽噺のように聴
いていた。
 小平邦彦『ボクは算数しか出来なかった』(岩波現代文庫、2002)より



      
そのほかの人々の素読学習


  そのほかに幕末維新期に幼時や児童期であった人々が受けた漢籍の素読
について、荒木がこれまで読んだ書物の中から抜き出し、ごく簡単に要約し
て書くことにする。時系列をおって年代記風(誕生順)に書くことにする。


副島種臣(文政11年・1828年、生まれ)
  父が国学者で、佐賀藩の藩校・弘道館の教師でもあった。そこで漢籍を
学んでいる。


福澤諭吉(天保5年・1844年、生まれ)
父は儒学者であった。その仕事は、大阪の金持ち達から藩債のお金を徴収し
たり藩借延期の談判をしたりすることであった。が、算盤をはじくことは汚
れた仕事だという考えを持ち、読書一偏の学者が尊いという矜持を持ってい
た。
【14、5歳】で漢学塾へ行き始める。年齢が遅れて学ぶのだから、ほかの
者は詩経、書経を読んでいるのに、福澤は孟子の素読から始める。ところ
が、その塾で蒙求とか孟子とか論語とかを塾生たちが寄り集まって意味を解
釈し、質問しあって論じ合う会読の場面になると福澤は先生に勝つほど優れ
た意見を述べた。最も多く漢籍を習ったのは中津藩の儒者・白石常人からで
ある。
経書、論語、孟子、経義の研究に努めた。世説、左伝、戦国策、老子、荘子
なども学ぶ。
【22歳】で緒方洪庵の適塾に入門する。そこで漢学と蘭学(オランダ語、
医学)を学ぶ。
【24歳】で緒方塾の塾長となる。塾中一番むずかしい原書を会読すると
き、その会頭を務める。


大隈重信(天保9年・1844年、生まれ)
【7歳】で藩校・弘道館の外生寮に入り、漢籍を学ぶ。外生(小学)、内生
(中学)の過程があり、中等から高等までの内生は、藩士の登竜門となって
いた。
【11歳】で藩校・弘道館の外生寮にて「会読」に進級する。藩校・弘道館
の教育は朱子学で、学生は四書五経をを暗誦させられた。一方、葉隠れの武
士道精神も教育された。
【16歳】で藩校・弘道館の内生寮に進級する。内生寮の大隈は体格のよい
乱暴者であり、成績も優秀で、寮生から一目おかれていた。内生寮に入った
16歳の嘉永6年(1853)は、ペリーの黒船が浦賀にきて開国を迫った。西
洋の風の時代の波は内生寮も洗って、大隈らを中心に学制改革運動が起こ
り、藩の学制に忠実な保守派と対立し、乱闘騒ぎまでになり、首謀者とされ
た大隈は退学処分となった。


山県有朋(天保9年・1844年、生まれ)
  吉田松陰の主宰する松下村塾で漢籍を学んでいる。松下村塾からは、高
杉晋作、伊藤博文、山県有朋、品川弥二郎など明治政府にかかわった多くの
人物を輩出し、彼らも当然に漢籍を学んでいる人たちである。


乃木希典(嘉永2年・1849年、生まれ)
  幼時から漢籍を学び、成人してからは漢詩つくりの名人でもあった。


森鴎外(文久2年・1862年、生まれ)
【5歳】で米原綱善から四書の素読を受ける。米原氏は藩儒で、森家の親戚
でもあった。今井正臣から「史記」を学んだ。
【6歳】で藩校・養老館に入学する。そこの教官であった村田九兵衛から漢
籍の素読を受け、「論語」を学んだ。
【7歳】で儒者・米原綱善から「孟子」を学んだ。兄・森潤三郎は著書『鴎
外森林太郎』のなかで「林太郎の母は、祖母木島氏清子に乞うて伊呂波から
始めて、兄が米原家に通ふ頃には仮名付きの四書が読めるやうになったか
ら、それを再三熟読暗誦して復習を監督するので、兄が寝てから遅くまで翌
日の分を勉強する苦心は並大抵ではなかった。」と書いている。
【8歳】で養老館で「四書」を一から学び直した。成績優秀につき四書正文
を与えられた。(藩校では春秋に大試を行い、一年の優秀者には四書正文、
二年の優秀者には四書集注、三年優秀者には五経を賞として与えた。)
【9歳】で「五経」と「蘭学」を学んだ。養老館で五経復誦に通った。
【10歳】で養老館で差傳、史記、漢書の復誦に通った。廃藩置県で養老館
が廃校になるまで学んだ。


夏目漱石(慶應3年・1867年、生まれ)
【15歳】で、漢学私塾・二松学舎で漢文学を学ぶ。第三級第一課に入学し
た。第一課では「唐詩選」「皇朝史略」「古文真寶」などを学んだ。唐宋の
詩文や陶淵明を好んで読む。漢学の初歩はもっと早くから断片的に学んでい
たと思われるが、独学によるものか漢学塾に通ったものかはよく分かってい
ない。森田草平は、漱石から聞いた話として、寺子屋のような漢学塾を開い
ているので、そこへ通っていたと語ったそうだ。
  漱石は漢詩文が好きだったようだ。初めは漢詩文で身を立てようとも
思ったが、しだいに英文学に入り、小説を書くようになった。しかし、小説
を書きながら、おりおりは漢詩文の創作をしている。友人・正岡子規は漱石
に「英書の読める者は漢籍が読めない、漢籍が読める者は英書が読めない。
双方ともに熟達している君のようなのは、千万年に一人のみ」と褒め上げて
いる。


、    
前田愛『近代読者の成立』から


  以下の文章は、『前田愛著作集・第二巻・近代読者の成立』の中から上
述と同じ内容の文章部分を抜粋引用しています。荒木が上述していることと
同じ内容のことが書いてあります。重なる内容もありますが、補充資料にな
るとおもい下記に引用した。

ーーーー引用開始ーーーー

  幕末や明治初年、士族や地方豪族の子弟は、早いものは五歳、おそくと
も十歳前後までに漢籍の素読を始めている。幕末から明治初年にかけて幼少
年期を送った人々の例を二三あげてみると、
植木枝盛(安政4〜明治25)十一歳のよき、土佐の藩校文武館に入学し、
四書五経の句読を授けられる。(『植木枝盛伝』)
森鴎外(文久2〜大正11)慶應二年、五歳にして藩儒米原綱善について漢
籍の素読を受け、翌年津和野藩校養老館に入学する。(「年譜」)
徳富蘇峰(文久2〜昭和32)八歳の時、論語の素読を外祖父から授けられ
る。(これより先、母から大学・論語の手ほどきを受けている。)(『蘇峰
自伝』)
嵯峨のやおむろ(文久3〜昭和22)五歳のころ、父から四書の素読を受
け、父が上野戦争に参加したかどで入獄してからは、兄と叔父に代わり、孟
子の二巻まであげる。(『嵯峨のやおむろ伝聞書』)
幸田露伴(慶應3〜昭和22)七歳の時徒士町の金田という漢学の先生につ
いて孝経の素読を始め、お茶の水師範付属小学校に入学後も素読を続ける。
(「少年時代」)
正岡子規(慶應3〜明治35)六歳とき、論語の素読を始め、八九歳の頃外
祖父から孟子の素読をうける。(『筆まかせ』)
田岡嶺雲(明治3〜大正元)十歳頃、父から小学の手ほどきを受け、やがて
小学校教師の自宅に通って国史略、日本外史、十八史略の素読を受ける。
(『数奇伝』)
  新学制が明治五年に施行されてからも、父兄の間では漢学尊重の気風が
根強く残っていたから、子弟を小学校に通学させるかたわら、家庭や塾で漢
籍の素読を習わせることが多かったらしい。「教師の自宅へ通って、課外に
漢籍の稽古をする事が競争的に行われた」(『数奇伝』)。幸田露伴は朝暗
いうちに起きて、蝋燭に光の下で大声を揚げて復読をすませ、それから登校
するのを日課としていた。この厳しい訓練によって露伴は「文句も口癖に覚
えて悉皆暗誦して仕舞って居るものですから、本は初めの方を二枚か三枚開
いたのみで、後は少しも眼を書物に注がない」程に熟達したという。(幸田
露伴「少年時代」全集二十九巻、280ぺ)
   前田愛『著作集第二巻・近代読者の成立』(筑摩書房、1989)より

ーーーーー引用終了ーーーー


             
結び


 最後に、結びとして荒木の簡単なコメントを書くことにします。

 このように幕末期・明治期に生まれた人々は、多くが藩校や漢学塾や私塾
で漢籍を学んでいることが分かります。
 
徳川幕府公認の学問は漢籍(朱子学)だった
  江戸時代で学問といえば漢籍を学ぶことを指していた。徳川家康は学問
好きで、林羅山に儒学(朱子学)の普及を託し、林家は代々その仕事を受け
継いでいた。幕藩体制下、各藩は藩政の担い手を育成するため、藩校を設立
し、漢籍と武術を学ばせた。町人は商品経済の発展の中で自主的に寺子屋を
設立し、読み書きそろばんを学ばせた。寺子屋の一部には易しい漢籍なども
学ばせていたところもある。
  江戸幕府は、下克上の風潮を断ち切るため、そして身分の主従関係を強
固に確立するために儒学(とくに朱子学)を幕府の官吏たる武士が学ぶべき
学問文献としたのであった。かな文字は、女と子どもの慰みのための文字で
しかなかった。公文書はすべて漢文で書かれてあった。漢籍(朱子学)が江
戸幕府の政治の基礎理念とされ、学問の正学とされた。学問とは漢籍を学ぶ
ことであった。

明治になっても「学問とは漢籍を学ぶことだ」という考えがあった。
  江戸幕府の官吏養成、そのための学問とは漢籍を学ぶことであった。そ
の漢籍を学ぶ学問体制が、平安時代、いやそれ以前からあったわけだが、幕
末期はもちろん、明治期の終りにになってからも、その「学問とは漢籍を学
ぶことだ」の流れが連綿と続いている。新学制が明治五年に施行されてから
も、父兄の間では漢学尊重の気風が根強く残っていたから、子弟を小学校に
通学させるかたわら、家庭や塾で漢籍の素読を習わせる家庭が多かった。前
田愛はこれについて「幕末から明治期に出生した人々、つまり明治・大正・
昭和前期に活躍した人々は、幼少期や青年期に藩校や私塾や寺子屋で漢籍の
素読を学んだ人々であり、あるいは彼らの祖父や父親から漢籍の素読の指導
を家庭内で受けていた人々であることが分かる。」と書いている。

漢籍の書物にはレベル差があった。
 子どもに与える初級用、中級用、上級用のレベルの教科書(テキスト)が
あった。それぞれの藩校・私塾・寺子屋によって、また教師によって素読学
習に使う教科書はまちまちであった。一人一人の児童の能力や興味関心に合
わせて師匠が選んで与えた。初級用としては小学、四書五経(中でも四書)
などが多く用いられた。

学習内容は、漢籍だけではなかった。
 それぞれの藩校・私塾・寺子屋によって、また教師によって学習テキスト
は、漢籍だけでなく、歴史物(国史略、十八史略、大日本史など)、文章物
(文章軌範など)、物語(里見八犬伝、俊寛物語など)、武士道物(葉隠な
ど)、詩文(唐詩選など)もあった。
  寺子屋は習字が主で、漢籍はごく一部の寺子屋で初歩を教えた。ほか往
来物や国尽くしなどの読み物の教科書を多く与えた。
  藩校では漢籍のほかに乗馬や剣道や柔術や習字や絵画などを教えた。所
もあった。幕末になってからは外国との交易が盛んになるにつれ蘭学や英語
や航海術や兵法などの教授も多くなってきた。

漢籍(朱子学)は討幕運動の思想へとつながっていった。
  だが皮肉なことに朱子学は幕末期になって天皇を中心とする尊皇攘夷論
や王政復古や討幕運動の思想へとつながっていくことになった。そのことを
片山潜は「しかれどもそのよくこの維新の大業をして成功の局を結ばしむる
任に当たりたる当時の志士にして当時尊皇攘夷を主張して幕府の転覆を企図
したる各藩の有志等は漢学者であった。」「維新前後思想界を牛耳をとり、
天下の志士を指導したる者は藤田東湖の如き、吉田松陰の如き、皆その思想
を漢学より得たる者である。しこうして維新の大業は当時聖堂に群集せる学
生等の成せるものというも過言ではない。かくのごとく維新の大業が主とし
て漢学者の手によって成功せるがために維新の新政府が建設さるるとともに
これが事業に関係せる漢学者が要路の地位に立った。」と書いている。

江戸幕府公認の漢籍の学問は、明治の学制改革により、学校制度上で
 は次第に衰退していった。

  明治五年には新学制が発布し、新教育体制、新教科書、新教育内容の教
育改革を進めた。新政府は、明治4年には文部省を設け、5年には学制を定
めて、すべて国民に普通教育を受けさせる制度を作った。近代欧米社会の個
人主義・実利主義の精神を高く掲げ、従来の儒教主義の教育には批判的で
あった。教科書も欧米の文化・科学の啓蒙書の中から児童向きなものを翻訳
して教材とした。明治の学校教育では漢籍の教科書は使われなくなり、素読
も次第に衰退していくようになった。学校教育の中で漢籍の素読教授が扱わ
れなくなることは、やがてそれが世代交代によって消えていくことになる。
    
江戸の鎖国時代と違って、明治になると社会が要求する教育内容が大
 きく変わった。

  幕末から明治へと時代が移行していくにつれて、時代が要請する人づく
りの内容に変化があらわれてきます。学校で教える教育内容も変化していき
ます。学校教育も西洋流の学習内容や教育方法が取り入れられていくように
なりました。また社会一般に言文一致体の文章が常用として用いられていく
ようになりました。こうして漢籍の素読は時代が要請するものでなくなり、
しだいに影が薄くなっていくようになっていきました。

漢籍の句読の方法にはいろいろあった
  渋沢栄一は「私の師匠である尾高惇忠の句読の方法は他の師匠と多少趣
を異にして居り」と書いている。これについて辻本正史は次のようの書いて
いる。
  漢籍のテキストは、民間書肆から和訓の点が付されて出版されることが
多かった。たとえば林羅山の道春点、山崎闇斎の嘉点、貝原益軒の貝原点、
後藤芝山の後藤点、佐藤一斉の一斉点など、読み下すための返り点や送りが
なの訓点が、経書に付されて出版されたのである。
    辻本正史・沖山行司『教育社会学』(山川出版社、2002)より


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