音読授業を創る そのA面とB面と        2011・07・20記




  
明治以降の素読・朗読の変遷史(平成期)




  
本稿は、平成年代に入ってからの学習指導要領・国語科の変遷の歴史を
音読・素読・朗読に焦点をあてて、そのアウトラインを書いている。
  最後尾の補遺1と補遺2とは、「明治以降の素読・朗読の変遷史」(全
編)をWEB上にアップした後、それ以後に読んだ書物や資料から、さらに
新規に内容補筆したほうが読者のために参考になると思った事柄について書
き加えている。



平1年版・学習指導要領

1年(理解)
  ウ、話や文としてまとまりを考えながら音読すること
2年(理解)
  ウ、文章の内容を考えながら音読すること
3年(理解)
  ウ、文章の内容が表されるように音読すること
4年(理解)
  ウ、事柄の意味、場面の様子、人物の気持ちの変化などが、聞き手にも
  よく伝わるように音読すること
5年(表現)
  ウ、聞き手にも内容がわかるように朗読すること
6年(表現)
  ウ、聞き手にも内容がよく味わえるように朗読すること

【荒木のコメント】

  43年版や52年版と同じく、平成1年版も1年から4年までは「音
読」、5年と6年は「朗読」と書いてある。「自分の理解ための・音読」、
「他人に表現するための・朗読」という考え方が踏襲されている。
  この考え方について、荒木はかつて拙著『音読指導の方法と技術』(一
光社、1989)で批判文を書いたことがある。以下にそれを引用する。
 学習指導要領の音読観・朗読観
  新
学習指導要領(平成元年三月・文部省告示)も、「理解」領域に「音
読」(小1〜小4)、「表現」領域に「朗読」(小5〜)が位置づけられて
います。

 
 現実には、実際の読み声を聞いて、これは理解の段階の音読だ、これは
表現の段階の朗読だ、などと区別がつけられるはずがありません。音声表現
は、すべて「表現」です。理解しつつある過程や、理解した結果を、すべて
「表現」しているのです。理解と表現とは一体化したもので、音声表現はす
べて根底に理解が存在しており、それを音声にのせて表現しているのです。
区別できると主張する人がいるならば、二者の区別のついた実際の読み声を
聞かせてほしいものです。音声表現において、理解と表現とが二重性の統一
(弁証法的な相互浸透関係)として存在しているのです。
  最近、学習指導要領の「理解のための音読」「表現のための朗読」にの
っかって、前者を「理解読み」、後者を「表現よみ」と呼ぶ人がいます。こ
のような区分けによる「表現よみ」と、本書で述べている「表現よみ」とは、
全く異なるので注意しましょう。
 荒木茂『音読指導の方法と技術』(一光社、平成1年)44ぺより引用

  
これについては本章の下段にある「補遺1」で再論している。そち
らをお読みいただきたい。



平10年版・学習指導要領
 
1・2年生(読むこと)
  エ、語や文としてのまとまりや内容、響きなどについて考えながら声に
    出してよむこと
3・4年生(読むこと)
  カ、書かれている内容の中心や場面の様子がよく分かるように声に出し
    て読むこと
5・6年生
  特に音読・朗読の文章記述なし

【荒木のコメント】

  今回の学習指導要領では「ゆとり教育」が叫ばれ、教育内容の二割が削
減された。完全週五日制が実施された。総合的時間が新設された。記述形式
が、学年別でなく、「1・2年生」「3・4年生」「5・6年生」となった。
  国語科では「理解」と「表現」の二領域が、「聞くこと、話すこと」
「読むこと」「書くこと」の三領域と(言語事項)とになった
  「ゆとり教育」が強調され、内容削減で、音声表現に関する文章記述も
少なくなっている。1・2年と3・4年の個所に一項目しか書いてない。
5・6年生には書いてない。従来の要領には文末が「音読する」とか「朗読
する」とかであったが、平成10年版では「声に出して読むこと」と変化し
ている。
  小森茂他編『改訂小学校学習指導要領の展開・国語科』(明治図書、
1998)の解説書によると、
「これまで1年から4年までは理解領域の音読系
列に位置づけ、5年から6年では表現領域の朗読の系列に位置づけていた。
新要領では、これを一つの「音読・朗読」の系列としてまとめた。声に出し
て読むとは、文章の内容や響きを理解するためであり、同時に、聞き手など
の相手にも分かる読み方をすることである。話すこと・聞くことの学習とも
つながる大切な内容になろう」
と書いてある。荒木が10年前の著書『音読指
導の方法と技術』で主張したことが、ここでそのように是正されていること
が分かる。感謝したい。
  実際の授業場面では、過去の要領のいう「音読・朗読」の区別はなく
「声に出して読むこと」だけしかないのだから。1年生であっても、6年生
であっても、自分が精一杯に理解したことを精一杯に声にのせて「表現」し
ているのであり、この学年は「理解」までだからこれぐらいで抑えておこう、
あとの指導は5・6学年に送っておこうなどという音声表現の指導は不可能
である。教師はそんな手加減を加えながら音声表現の指導はできないし、器
用な指導はできない。
  子どもも理解だ、表現だなどの読み声の区別を付けて音声表現すること
などできない。朗読のプロだってできない。どの学年の児童でも、読み手は
精一杯に理解したことを声で表現しようと努力して声に出して読んでいるだ
けだ。実際の授業場面では、これは理解のための「音読」指導だ、これは表
現のための「朗読」指導だ、などと区別を意識して指導しだしたら、教師は
とまどってしまい、授業は中止せざるを得なくなってしまう。実際の音声表
現ではそんな器用な区別などできっこない。児童にも教師にも苦痛を強制す
るだけで、その音声表現の授業は成立しなくなり、混乱をもたらすだけにな
ってしまう。
  これまでの教室現場では、指導要領の文言(理解のための音読。表現の
ための朗読)、その指示など相手にしないで音声表現指導をしているのが現
実だろうし、なまの音声表現の実際指導はそうせざるを得ないはずだ。今回、
やっと是正されて本来の姿に戻ったことはおおいに喜ぶべきことである。



平20年版・学習指導要領
1・2年生
(読むこと)
  ア、話のまとまりや言葉の響きなどの気を付けて音読すること
3・4年生
  ア、内容の中心や場面の様子がよく分かるように音読すること
 (伝統的な言語文化)
  ア、易しい文語調の短歌や俳句について、情景を思う浮かべたり、リズ
    ムを感じ取りながら音読や暗誦をしたりすること
5・6年生
(読むこと)
  ア、自分の思いや考えが伝わるように音読や朗読をすること
 (伝統的な言語文化)
  ア、親しみやすい古文や漢文、近代以降の文語調の文章について、内容
    の大体を知り、音読すること

【荒木のコメント】

  「ゆとり教育」による学力低下が社会問題となり、その反省と批判から
から、今回の指導要領では、指導時数の増加、指導内容の増加、英語の必修
化、PISA型学力の育成強化などを強調した内容となった。
  国語科では、新しく「伝統的な言語文化と国語の特質に関する事項」が
つけ加わった。3・4年生では、文語調の短歌、俳句の暗誦が出現している。
「伝統的な言語文化」については、本HP「名文の暗誦教育についてのエッ
セイ」の中の「新指導要領と暗誦指導の位置づけ」の項で、荒木の考えを詳
述している。そちらをご覧いただきたい。ひと言だけ付け加えておくと、日
本には昔から百人一首のカルタ、ことわざのカルタなど、意味内容も分から
ずに言葉調子のリズムの快さで遊びの中で暗誦してきた伝統文化がある。こ
れらは素読で身につけたものである。今回の学習指導要領「伝統的な言語文
化」に新設は「素読」の潜在的復活とも考えられなくもないが、そんなに大
げさに書きたてるほどのものでもないだろう。ただし、意味内容も分からず
に暗誦を強要し、子どもを苦しめる指導だけはしてはいけない。新しい教科
書ではそうならないように随分と配慮がなされている。
  平10年版と平20年版ともに「響き」という言葉が新しく使われている。
いずれも1・2年生の個所に書かれている。最近の子ども達は声の衰弱があ
ると言われて久しい。教室で発表する子どもの声が小さい。学級会や児童活
動で話し合ってる声が小さい。読本を読む声が小さい。蚊の鳴くような声で
しか話さない、読まない、ということが言われている。低学年のうちから
凛々と響く声で、天使のような声で、全員に聞きとれる張りのある声で話し
たり読んだりさせたいものだ。それには先ず国語の時間の読み方で、低学年
から発音、発声、声量の指導に重点をおいて指導していくことが重要である。
  響きのある声は、低学年からしっかりと指導していくことが大切だが、
響きは全学年、すべての音声表現にとってはとても重要な概念である。日本
語の美しい響きを感じとること、日本語の音声表現の美しい響きにうっとり
とすること、わたしもあのような日本語の美しい響きで話したり語ったり読
んだり歌ったり朗詠したりしてみたいと思うこと、努力すること、憧れるこ
と、これはとっても重要な指導内容である。これは音声表現における究極目
標といってもよいでしょう。
  日本語の洗練された発音・発声、そして文章記述にみられる言葉選択の
組み合わせの響き合いのすばらしさ、その音声表現がかもしだす情感性豊か
な音声の響き合いの審美力、これは音声表現に品格や芳醇や雅趣や優美や至
芸の境地を与える要素である。
  今回「伝統的な言語文化」が加わったが、短歌や俳句の音声表現では五
音、七音のリズムから美しい日本語の響き合いを感じとる鑑賞力を身につけ
ることはとても重要だ。平家物語や奥の細道や源氏物語や枕草子など、古典
の名文の音声表現から日本人の心情、風情、情趣をリズムとともに感じとり、
簡明かつ典雅な言葉の「響き」のすばらしさを感受する能力を身につけるは
とても重要な指導内容だ。

  平成20年版学習指導要領で残念なことが再び出現している。平成10年
版要領で消滅した1年〜4年までは「音読」、5,6年は「朗読」という区
別が今回の指導要領で復活記述されていることである。これについて書くの
は、もう、うんざりだ。わたしの主張が受け入れられるのは前途洋洋、ずっ
と先のことらしい。
  理解のためを「音読」と呼び、表現のためを「朗読」と呼ぶ、という考
え方は昭和20年代後半からそうした記述が見られるようになったが、この
区分けがわが国の学習指導要領に深く根を下すことになってしまっている。
これに疑問を抱く要領作成委員は皆無な現状にある。
  今すぐわたしの主張を通そうとしても無理な土壌が根強くある。だが、
「理解と表現とは一体化したもので、音声表現はすべて根底に理解が存在し
ており、それを音声にのせて表現しているのだ」という自説だけは、この際
声を大にして主張しておきたい。

  なお、平成20年版学習指導要領について荒木の私見については、本章
「名文の暗誦教育についてのエッセイ」の中にある「新学習指導要領と暗
誦指導の位置づけ」で詳細に述べている。そちらも参照していただきたい。




         補遺1

  荒木は、平成1年版学習指導要領の個所で、「理解のための音読」「表
現のための朗読」という区分けについて、拙著『音読指導の方法と技術』(一
光社、平1年)の中で批判意見を書いている。それを前述で引用で示した。
  ところで、本稿「明治以降の素読・朗読の変遷史」全部をWeb上に掲載
終了した後で、その後に読んだ本の中に、荒木と同様な批判意見が、荒木よ
りも30年も以前に書いてある書物があるのを発見した。わたしと同じ意見
が書いてあるのを読んで意を強くした次第である。「補遺1」では、それに
ついて書くことにする。

  その書物は、昭和34年刊、石井庄司他編『文法学習の範囲と系統』
(明治図書、昭和34)という本である。以下、その個所の文章部分を引用し
よう。昭和33年版学習指導要領が、黙読重視から音読をも重視へ、朗読が
「話しことば領域」となっている、ということへの感想意見を述べている文
章個所である。

  はじめに、昭和33年版学習指導要領・国語科の音読・黙読・朗読の記
述箇所を引用しておく。
昭33年版・学習指導要領
(読むこと)
1年
  ア、音読できること
  イ、声を出さないで目で読むこと
3年
  ア、正しくくぎって、適当な速さで読むこと
4年
  ア、黙読に慣れること
5年
  ア、味わって読むため、また、他人に伝えるために声を出して読むこと
(聞くこと話すこと)
5年
  ア、話し合いや会議の参加すること
  イ、説明をする
  ウ、報告をする
  エ、発表をする
  オ、朗読をする
6年
  ア、話し合いや会議の参加すること
  イ、説明をする
  ウ、報告をする
  エ、発表をする
  オ、朗読をする


 では、石井庄司他編『文法学習の範囲と系統』(明治図書、昭和34)か
ら該当個所を引用しよう。
 
 戦後しばらく黙読中心であった。その行き過ぎの反省が、こんどの指導
要領によって是正され、音読も重んずるようになり、朗読を「聞くこと話す
こと」の部に入れるようになった。朗読ということは、一般では、意味の理
解でなく意味の表現であるとせられているから、そうなったのであろう。ま
た、このことに気づかせるためにも、朗読を、いわゆる朗読口調から救うた
めにも、この措置は、けっこうだといえる。  35ぺより

【荒木のコメント】

  「この措置は、けっこうだといえる」と、一応賛意を示している。これ
については、昭和33年版学習指導要領の個所で荒木の見解を前述している
ので、ここでは触れないことにする。

 
 しかし、すなおに考えてみれば、朗読は読みの展開としてあるのだから、
やはり「読むこと」の中に入れておいてもよい。これは、意味の理解──読
解にはいるはじめの仕事としておこなわれる、いわゆる「音読」とも関係の
あることだから。
  ふつう、音読は理解面、朗読は表現面に属させるのであるが、その実相
を考えると、はたしてそう割り切れるかどうか。  35ぺ

【荒木のコメント】

  「朗読は読みの展開としてあるのだから、やはり「読むこと」の中に入
れておいてもよい」と、まっとうな正しいことを主張している。この考え方
は、昭和43年版から平成22年版まで音読・朗読が「読むこと」の中に連
続して位置づけられてきているから、この批判は承認されて受け継がれてき
ていると言える。
  「音読は理解面、朗読は表現面に属させるのであるが」、これは「その
実相を考えると、はたしてそう割り切れるかどうか」と疑問を呈している。
疑問を呈しているというより、以下には「その実相は、そう割り切れない」
と、次のように厳しく断罪し、批判意見を展開している。

 (一)音読であっても、児童は、今までに養われてきた読解力によって読
むのであるから、新教材であっても、全然わからないということはない。予
習してきている以上、一応の理解はできているはずである。とすると、その
音読の中には、すでに朗読的要素は、ふくまれているのである。また、文字
を言葉に直して(従来の音読)、さて、そのあとで、解釈がはじまるなどと
いう考え方は、言葉と意味とを分離した考え方なので、古い漢文学習や古い
外国語学習に余弊なのである。そうした考え方が読解指導における第一のつ
まずきなのである。一読直解の心構えで読まさなくては、読解における学習
の内面的、自主的緊張は望まれない。
 (二)朗読であっても、われわれは音声に発して、これを読み上げること
によって、さらに新しい意味を発見することは、しばしばあることである。
体験的事実である。観賞は時にひとりで黙読、時にひとりで朗読、時に、み
んなで話し合う、時に、ひとりの朗読を聞くというように、いろいろな面を
持つものであるが、好きな詩歌文章(好きなという以上は、すでにわかって
いる詩歌文章)を思わずひとりで朗読する時、そのこまやかな味わいが味得
できるという事実は、朗読の中に理解がふくまれていることなので、表現面
からのみ朗読を考えてはいけない。そうしないと、ここでも読解指導のつま
ずきがおこるのである。仕上げの段階において。 36ぺ

【荒木のコメント】

  (一)個所では、「文字を言葉に直して(従来の音読)、さて、そのあ
とで、解釈がはじまるなどという考え方は、言葉と意味とを分離した考え方
なので、古い漢文学習や古い外国語学習の余弊なのである」と、国語の読解
学習の音声表現は漢文学習や英語学習のそれとは全く違うと、一刀両断の裁
きを手厳しく下している。「漢文学習や英語学習のそれとは全く違う」とい
う表現は、心臓をグサリと一突きしている比喩表現ですばらしい。
  そして「そうした考え方が読解指導における第一のつまずきなのである。
一読直解の心構えで読まさなくては、読解における学習の内面的、自主的緊
張は望まれない」と、荒木が平成10年版個所で述べている批判内容と全く
同様なことを、ここでは言葉を代えて主張している。
  (二)個所では、「朗読の中に理解がふくまれていることなので、表現
面からのみ朗読を考えてはいけない」と主張している。荒木が先に「理解と
表現とは一体化したもので、音声表現はすべて根底に理解が存在しており、
それを音声にのせて表現しているのだ」と書いたのと全く同様なことを、こ
こでも言葉を代えて述べている。

  以上に引用した昭和34年刊、石井庄司他編『文法学習の範囲と系統』
(明治図書、昭和34)は、だれがこの文章個所を書いたかの執筆者名が書か
れていない。すべてが無署名論文である。それは共同研究による成果発表と
いう性格の書物であるからだ。
  この書物の「はしがき」だけに執筆者名が書いてある。全国大学国語教
育学会共同研究成果編集委員代表・石井庄司とある。石井庄司氏は「はしが
き」でこう書いている。
  
「本学会は、昭和31年5月17日、広島大学教育学部において、第
12回学会を開催した席上、文法教育の範囲と系統を学会の共同研究の主題
に設定した。それから去る9月18日の第18回学会に至るまで、延べ7回
の学会において直接間接に共同研究の業績が積み重ねられた。平常は東京に
おける学会常任理事会が共同研究の運営を任じ、東京近辺に在住する会員有
志に委嘱して研究のまとめを促進してきた。生活の多忙と居住地の遠隔はし
ばしば研究の進展をはばんできたが、学会の熱意はようやく一丸に凝ること
になったのである。ひとまず、このあたりでまとめをつけ、これまでの成果
を公刊に付すことにした。本研究が、文法研究の進展に上に、いささかなり
とも寄与できれば、正に望外の喜びである」
と書いている。
  巻末には、共同研究者紹介があり、執筆者が出ている。小学校編、中学
校編、高校編に分かれており、小学校編の原稿執筆者は、青木幹勇(東京教
育大付属小)、大橋冨貴子(お茶の水女子大付属小)、鈴木敬司(東京教育
大付属小)、角尾和子(東京学芸大付属小)、古田拡(法政大)とある。ほ
かに中学校と高校の資料提供者・原稿執筆者が書いてあり、小中高全体の文
章調整者は、井上俊夫(埼玉大)、宮崎健三(東京学芸大付属高)、古田拡
(法政大)、望月久貴(東京学芸大)とある。
  この書物は、直接的には文法教育について書いてあるわけだが、文法教
育は文法学教育ではないわけだから、当然に「読むこと・書くこと・話すこ
と・聞くこと」における文法教育について書くことになる。荒木がこの書物
から前記で引用してる個所は「小学校の読むための文法指導」の個所からで
ある。

  何故に、この書物の執筆者について長々と解説を加えてきたかというと、
こうである。
  「音読は理解面、朗読は表現面に属させる」という考え方は、これは
「その実相を考えると、はたしてそう割り切れるかどうか」、いや、その実
相は、そう割り切れないと、厳しく反対意見を開陳しているからである。
  そしてこれら反対意見の主張は、一人の執筆者だけの意見ではなく、共
同研究による合議によって得られた成果としての意見発表であるということ
だからである。昭和34年刊・全国大学国語教育学会による共同研究成果と
して学会公認の見解として発表されている書物だということである。荒木の
ような、くれなずむやくざなチンピラ一匹がむなしく吠え立てているのとは
違って、敗戦後日本の国語教育をリードしてきた錚々たるメンバー達が、わ
たしと同意見をここで主張しているということである。わたしはこれを読み、
多数の賛同者たちを得て、おおいに意を強くしている。
  この書物(石井庄司他編『文法学習の範囲と系統』)が発刊されたのは、
昭和34年11月である。現在(平成23年)からさかのぼること52年前
のことである。驚くではないか。50年以上も経って、まだ是正されてい
ないのである。机上の空論からなら導き出せるのだろうが、まともに音声表
現の教室実践をしている教師なら、「理解の音読」「表現の朗読」という区
分けはできないはずである。



         補遺2

  ここでは、何故に、学習指導要領・国語科で長年にわたり「理解のため
の音読」「表現のための朗読」という考え方(区分け)が踏襲されてきてい
るか、その区分けの由来についての私なりに推測したことを書くことにする。
  先ず、またの再録になるが、昭33年版・学習指導要領から書き始めて
いくことにしよう。(読むこと)だけでなく(聞くこと話すこと)の領域の
一部も引用して説明を加えていくことにしたい。
昭33年版・学習指導要領
(読むこと)
1年
  ア、音読できること
  イ、声を出さないで目で読むこと
3年
  ア、正しくくぎって、適当な速さで読むこと
4年
  ア、黙読に慣れること
5年
  ア、味わって読むため、また、他人に伝えるために声を出して読むこと
(聞くこと話すこと)
5年
  ア、話し合いや会議の参加すること
  イ、説明をする
  ウ、報告をする
  エ、発表をする
  オ、朗読をする
6年
  ア、話し合いや会議の参加すること
  イ、説明をする
  ウ、報告をする
  エ、発表をする
  オ、朗読をする

【荒木のコメント】

  ここで注目したい個所は、1年で「ア、音読できること」と「イ、声を
出さないで目で読むこと」とあって、音読という用語が使われていることで
ある。また1年に「声を出さないで目で読むこと」という表現であって、黙
読という用語が使われていないことである。そして、4年で「ア、黙読に慣
れること」とあり、ここでは黙読という用語が使われていることである。昭
和22年版、昭和26年版では、あれほど黙読が重視されていたのが、1・2
学年では黙読がやや後退という感じに読みとれる。
  これについては、昭和35年刊、輿水実・中沢政雄共著『小学校学習
指導要領の展開』(明治図書、昭35)
に次のように書いてある。
  輿水実氏は、4年の「ア、黙読に慣れること」の用語解説として次のよ
うに書いている。
 
 1年から3年までは音読、4年から黙読ということになる。もちろん黙
読の初歩は1年の最初からはじまる。指導要領の1年のところに「声を出さ
ないで目で読むこと」とある。しかし「黙読」という述語は4年ではじめて
出てくる。4年後期になると大部分の児童が、音読よりも黙読の方が速さも
速いし、性格さもだんだんと音読ぐらい性格になって来る。そこでこの機会
にそうした正確確実な黙読習慣を作るのである。  124ぺより

  同書で共著者のひとり中沢政雄氏は、さらに詳しく次のように書いてい
る。
 
 輿水実の研究によると、音読・黙読と速度理解との発達段階は次のよう
になっている。
(1)音読を主とする段階(黙読よりも速度が速く、読みも正確な段階)
(2)黙読をしたがる段階(まだ音読の方が速度も速く、読みも正確な段 
   階)
(3)黙読になれる段階(音読より速度は速くなるが、正確度が増さない段
   階)
(4)黙読の完成する段階(音読よりも速度も速く、読みも正確になる段 
   階)
  輿水が実験した、東京都新宿区四谷第六小学校の児童では、黙読が完成
したのは、4年の二学期であった。そして黙読を始めてから、これが完成す
るまでに大体一か年を要した。そこで、読みの指導に当たっては、次の段階
をふむべきであろう。
1、 1・2年  音読を中心として指導する時代
2、 3  年  黙読になれさせる時代
3、 4  年  黙読を完成させる時代   173ぺより

  このような輿水実氏の調査研究による国立国語研究所報告が、昭和33
年版学習指導要領の音読・黙読の指導内容に大きな影響を与えたことは間違
いないだろう。1・2年生では音読重視で、3学年から黙読に慣れさせ、4
学年で黙読を完成させていく、そうしたねらいで指導していこう、という輿
水実氏らの国立国語研究所報告による提言が、昭和33年版要領に大きく影
響を与えていたことは間違いないだろう。

  33年版指導要領でもう一つ注目すべきは、「音読」は(読むこと)の中
に記述され、「朗読」は(聞くこと話すこと)の中に記述されていることで
ある。わたしたちは、ここから「理解のための音読」「表現のための朗読」
という区分けの由来を見出すことができる。以下、これについて説明してい
くことにする。
  くどいようだが再度、下記に昭33年版を必要個所だけの引用をする。
昭33年版・学習指導要領
(読むこと)

1年
  ア、音読できること
  イ、声を出さないで目で読むこと
3年
  ア、正しくくぎって、適当な速さで読むこと
4年
  ア、黙読に慣れること
5年
  ア、味わって読むため、また、他人に伝えるために声を出して読むこと
(聞くこと話すこと)
5年
  オ、朗読をする
6年
  オ、朗読をする


  前掲書(輿水実・中沢政雄共著『小学校学習指導要領の展開』)には、
輿水実氏が、5・6年生の(聞くこと話すこと)の中の「朗読をする」の用語
解説として次のように書いている。
  声を出して朗々と読みあげること。詩の朗読や物語の朗読が目立ってい
たため、これまで、芸術的な、鑑賞的な読みと考えられていたが、最近は大
会宣言朗読などということで、そこに多少気分的な効果はあるにしても、必
ずしも鑑賞的なものでなく、知識・情報的なものもあることがわかってきた。
  戦前の国語教育では、朗読を読みの完成段階においていた。教材に文学
作品が多かったし、鑑賞が読解の上の作用と考えられていたからである。戦
後は朗読は話しことばの修練にはなるが、そこに解釈作業はないという立場
で、話し方の仕事のひとつにされていた。
  こんどの場合は、いわゆる知らせ合いの読み、共同の読みCommunicati
ve readingとして読みの中にも入ってきている。それは戦前の古い朗読(単
に芸術的な、気分を誇張したような読み)ではない。指導要領では、5年の
「読み」のところに「味わって読むため他人に伝えるために声を出して読む
こと」とある。朗読の指導のことであるが、「朗読」という語を話し方の方
に使ったので、わざと避けたものである。  128ぺより

  荒木が注目したのは、「戦前の国語教育では、朗読を読みの完成段階に
おいていた」が、「戦後は朗読は話しことばの修練にはなるが、そこに解釈
作業はないという立場で、話し方の仕事のひとつにされていた。」という個
所である。昭和33年当時の朗読観はわかっておもしろいと思った。
  「朗読は話しことばの修練にはなるが、そこに解釈作業はないという立
場」と書いてあることは重要問題である。要するに「朗読」は、話し言葉教
育には役に立つが、読み方教育には役に立たない、ということである。この
考え方には重大な問題点があり、大きな間違いであり、荒木は大反対である。
話しが横道にそれるのでここではそれへの反論には触れないことにする。ひ
と言だけ言えば、音声表現指導は音声解釈指導(声に出して解釈を深める指
導)であるということだけを言っておく。
  注目すべきは「朗読」は「話しことばの修錬」として「話しことばの領
域」に属し、「読みの領域」に属さない、という考え方である。これは、昭
和22年版と昭和26年版の学習指導要領もそうであった。下記に昭和26
年版からその部分の一部を引用してみよう。
昭和26年版小学校学習素道要領・国語科編
 おもな言語経験にはどんなものがあるか
一、聞くことの経験
 ・他人の話を聞く。
 ・講演や報告を聞く。
 ・機械を通した話を聞く。
 ・劇を見たり、朗読を聞いたりする。
 ・ほか引用略
二、話すことの経験
 ・会話をする
 ・話し合いや討論をする
 ・会議に参加する
 ・報告をしたり、説明をしたりする
 ・詩を朗読したり、物語を話したりする
 ・ほか引用略
三、読むことの経験
 ・新聞、雑誌、掲示、ポスターなどを読む
 ・知識や情報をうるために本を読む
 ・楽しみのために本を読む
四、書くことの経験
 ・すべて引用略

  ご覧のように、「聞くこと」と「話すこと」に「朗読」が書かれており、
「読むこと」欄には「朗読」は書かれていない。「読むこと」欄の「…を読
む」は「音読」または「黙読」を指しているものと考えられる。
  「聞くこと、話すこと」の領域としての「朗読」は、つまりは「相手を
意識して、相手に聞かせるため、相手に分かりやすく伝達するため」という
相手を意識した音声表現となり、そこに指導の重点がおかれることが当然と
いうことなる。ここから「朗読」は「相手に分かるように伝達するための音
声表現」という考え方になってくる。つまり、「朗読」は「他人に分かりや
すく伝達するための音声表現」である、ということになる。その結果、当然
に「音読」は「自分が理解するための音声表現」ということになってしまう。
この考え方が昭和22年版から昭和26年版へ、そして昭和33年版へと踏
襲され、それ以来、平成20年版の現在までずっと連続して学習指導要領・
国語科に長年にわたりそのような考え方で記述されることになったと考えら
れるのである。
  「理解のための音読」「表現のための朗読」という考え方、その淵源が
ここにあったのだ。ここを源流として学習指導要領・国語科の「音読・朗読」
観が現在まで踏襲されてきているわけだ。

  昭和34年刊、石井庄司他編『文法学習の範囲と系統』(明治図書、昭
和34)には、昭和33年版学習指導要領・国語科の「朗読」について次のよ
うに書いている。 
 
 戦後しばらくは黙読中心であった。その行き過ぎの反省が、こんどの指
導要領によって是正され、音読も重んずるようになり、朗読を「話すこと」
の部に入れるようになった。朗読ということは、一般では、意味の理解でな
く、意味の表現であるとせられているから、そうなったのであろう。また、
このことに気づかせるためにも、朗読を、いわゆる朗読口調から救うために
も、この措置は、けっこうだと言える。  35ぺより

  上記引用個所は、昭和33年版学習指導要領について述べている文章個
所であるが、ここにも「朗読」を「話すこと」の部に入れていると説明があ
り、「朗読ということは、一般では、意味の理解でなく、意味の表現である
とせられている」と書いてある。
  つまり、「朗読」は「表現」であり、「音読」は「理解」であるという
ことである。「朗読」を「話すこと」の部に入れることで、当時の児童に多
く見られる変な読み声・妙な調子づいた読み音調が是正されるのであるから
「けっこうだといえる」と賛意を示している。これが昭和33年当時の一般
的な考え方であったということが分かる。
  わたしたちは、これらの書物から、昭和22年版から現行平成20年版
学習指導要領・国語科までに一貫して流れている「自分が理解するための音
読」「他人に表現するための朗読」という考え方の源流を見出すことができ
る。

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