音読授業を創る そのA面とB面と      2011・4・15記



 
   明治期の小学校の風景(啄木の巻)



 石川啄木は、明治19年(1886年)生まれ、明治45年(1912年)死去、
亨年27歳でした。啄木は故郷の渋民尋常小学校で1年、函館の弥生尋常小
学校で3か月の代用教員生活を送りました。わずか1年3か月の代用教員生
活でしたが、啄木の生涯で大きな比重を占めており、学校教育に関する文章
も数多く残しております。
 啄木を論するには彼の文学観、社会政治観、教育観、教師観、人生観など
多方面がありますが、本稿では啄木が記述している文章の中から当時の教育
制度や、啄木が過ごした学校生活の様子というハード面に焦点化して書こう
と思います。啄木が当時の教育制度や教育内容や教師のあるべき姿をどう考
え、どう行動したか、については書いていません。啄木については既に多く
の論文が発表されてあり、そちらをご覧いたくことを希望します。

 初めに石川啄木の尋常小学校時代、尋常高等小学校時代、尋常中学校時代、
代用教員時代のそれぞれを年譜であらましみてみましょう。啄木の過ごした
小中学校生活、代用教員生活の大体がつかめます。岩城之徳『石川啄木伝』
(筑摩書房、18985)に詳細な年譜がありますので、それを使わせていただ
きます。啄木は、明治19年2月20日、岩手県岩手郡日戸村に生まれています。
早生まれなので、6歳で尋常小学校へ入学しています。


     
啄木の尋常小学校・高等小学校の時代


明治24年(6歳)
 5月2日 岩手県岩手郡渋民尋常小学校へ入学する。
明治28年(10歳)
 3月 岩手郡渋民尋常小学校卒業する。首席の成績だったと伝えられて
    る。
 4月2日 盛岡高等小学校へ入学する。早春の頃、盛岡市新築地に住む従
      姉の家に転居してる。
明治29年(11歳)
 3月25日 修業証書授与式。高等小学校を終了し、二年に進学す。一年
       修了時の成績は善、能、可、未、否の五段階で示されたが、
       啄木の成績は「学業善、行状善、認定善」の好成績であった。
 4月4日 始業式
明治30年(12才)
 3月24日 修業証書授与式。啄木は二年を終了し三年に進級する。二年
       終了時の成績は引き続き「学業善、行状善、認定善」であっ
       た。
明治31年(13歳)
 3月25日 修業証書授与式。三年を終了して四年に進級する。三年修了
       時の成績は「学業善、行状善、認定善」の好成績であった
 4月8日  始業式
 4月11日 岩手県盛岡尋常中学校の入学試験を受ける。
 4月18日 入学試験に合格する。128名中10番の好成績だった。
 4月25日 盛岡尋常中学校丙1年級に編入された。
【荒木のコメント】
 明治の学制発布が明治5年でしたが、明治20年代には4月入学式・始業
式と3月卒業式・修了証書授与式があったことがわかります。こうした学校
行事は尋常高等小学校でも尋常中学校でも同様に固定して実施されており、
現在と大差ない学校年度制度・学校行事が確立し常態化していたことが分か
ります。また、成績評価は五段階「善、能、可、未、否」であったことが分
かります。「学業」と「行状」と「認定」と三つがあり、「認定」とは何な
んでしょう、総合評定のことでしょうか。明治20年代には学年末には成績
通知表が父母に渡されていたことも分かります。この年譜では各学期末ごと
に家庭への通知表が手渡されていたかどうかははっきりしません。
 尋常高等小学校4年では、試験に合格すると、尋常中学校へ飛び級で進学
できる制度があったようです。啄木は尋常高等小学校4年を経ずして尋常中
学校1年へ編入してることが分かります。


        
啄木の尋常中学校の時代


明治31年(13歳
 4月25日 盛岡尋常中学校入学式 丙1年級に編入された。
 5月22日 春季運動会
 6月27日 第一学期試験はじまる。7月12日修了。
 11月26日 第二学期試験はじまる。12月8日修了。
 12月20日 冬季休暇はじまる。翌年2月5日休暇終了。
明治32年(14歳)
 3月11日 学年末試験はじまる。16日終了。
 3月27日 第一学年終了成績発表。啄木の成績は倫理96点、国語8
       4点、漢文87点、作文80点、英語読み方87点、英語
       訳読85点、英語書取綴字96点、英語習字66点、地理
       88点、歴史96点、算術67点、幾何65点、博物76
       点、習字82点、図画60点、体操90点、行状100点
       で平均80点、学年131名中25番の成績であった。
 3月30日 修業証書授与式。2年に進級する。
 4月7日  始業式。丁二年級に編入された。
 4月13日 授業開始
 7月7日 第一学期試験始まる。12日終了。
 7月7日 夏季休暇始まる。8月15日終了。
明治33年(15歳)
 3月10日 学年末試験始まる。16日終了。
 3月30日 修業証書授与式。三年に進級。二年修了時の成績は平均75
       点、行状100点で、席次は学年140名中46番、学業や
       や低下した。
 4月11日 始業式。丁三年級に編入された。
 4月12日 授業開始。
 5月6日 春季運動会。
明治34年(16歳)
 2月25日 この年のはじめより教員の欠員と内輪もめに対して三年・四
       年の生徒間に校内刷新の気運が高まったが、この日三年乙組、
       丙組の夏井庄六助教諭心得(歴史漢文担当)と、高木一慰教
       諭(歴史地理担当)に対する授業ボイコットが行われた。
 2月26日 啄木の丁三年級もこの日行われた担任の富田小一郎教諭の 
       訓戒と説得に拘わらず、級長の阿部修一郎の指示で放課後全
       員招魂社事務所に集合してストライキに合流を決議。反対四
       名を除いて校長に提出する具申書に署名捺印をした。
 2月28日 啄木と阿部修一郎、佐藤二郎の起草した具申書を校長に提出。
       この頃四年生も排斥教員について協議し、校長を訪問、校内
       刷新のため波状攻撃を加えた。
 3月1日 3年4年合同のストライキ大会が催されたが、知事の内命を受
      けた岡島教諭(英語担当)が出席して、知事の意向を伝え説得
      したので、みな3月4日から7日までの試験を受けることにな
      った。この事件は知事の裁決により教員の大異動が発令され、
      23名の教員中校長以下19名が休職転任または依願退職とな
      った。生徒側の犠牲者は三年側の首謀者及川八楼1名で、四年
      進学と同時に諭旨退学。
 3月30日 校長休職を命ぜられ、教頭は校長心得を命ぜられ、同日修業
      証書授与式。啄木は4年に進級する。3年修了時の成績は平均
      70点、席次は学年135名中86番であった。
 4月1日 授業開始。
 5月12日 春季運動会
 7月25日 第一学期試験始まる。13日終了。
 12月16日 第二学期試験始まる。21日終了。
明治35年(17歳)
 3月14日 学年末試験始まる。22日終了。
 3月30日 修業証書授与式。啄木5年に進級する。4年修了時の成績は
      修身65点、国語70点、作文72点、漢文66点、英語訳解
      76点、英語文法47点、英語作文会話70点、歴史64点、
      地文64点、代数61点、幾何58点、植物62点、図画58
      点、体操88点、合計千四十九点、
      平均六十六点で学年119名中82番の成績であった。
 4月11日 始業式
 4月17日 啄木4年の学年末試験で不正行為をはたらいたかどで取り調
      べ中であったが、この日譴責処分に付された。
 5月18日 運動会
 5月28日 盛岡中学校五年級の修学旅行に参加する。石巻、松島、仙台
       を経て6月1日午前2時盛岡に到着する。
 7月5日 第一学期の試験始まる。12日終了。
 7月15日 第一学期末の試験に狐崎嘉助と共謀して不正行為をはたらい
      たかどで、この日の職員会議で譴責処分と決定。
 9月2日 啄木らの処分が全校に発表された。啄木の5年級第一学期の成
      績は、修身、作文、代数、図画の四教科が成績不成立、また4
      0点以下の不合格課目として英語訳解39点、英文法38点、
      歴史39点、動物33点とある。また出席百七時間に対し欠席
      時数二百七時間であった。
 10月1日 「家事上の都合により」を理由に盛岡中学校に退学願を提出、
      この日を以って退学が許可された。
 10月31日 文学で身を立てるため故郷を出発する。 
【荒木のコメント】
 明治20年代には三学期制が固定していたことが分かります。各学期末に
は試験があり、各教科の点数や席次が各家庭に通知されていたことも分かり
ます。教科の科目名は現在の高等学校教育課程の教科目とかなり相違してい
ることが分かります。
 啄木ほどの大文学者になると学校時代の成績点数が印刷物となって公表さ
れてプライバシーも何もあったものではありませんね。啄木研究にはどうし
ても必要だからなんでしょう。啄木の尋常中学校時代のカンニング事件とス
トライキ事件と中途退学については、書くべきことが多くありますが、本稿
のねらいとはずれてしまいますので割愛します。当時としては特殊な事件の
ことで、カンニングやストライキは当時の一般的な生徒の行動状況であった
とは思えません。


       
渋民尋常小学校代用教員の時代(1)


 啄木は故郷の渋民尋常小学校で代用教員として一年間、函館の弥生小学校
で3か月間の教員生活を送っています。啄木の全小説の三分の一が学校を素
材にしています。教員生活は啄木の人生に大きな影響を与えています。以下
は、岩城氏の年譜からの引用抜粋です。
明治39年(21歳)
 3月4日 母と妻を連れて渋民村に帰る。この前後、岩手郡役所に勤務す
      る妻の父堀合忠操を通じて、その友人である岩手郡視学平野喜
      平に郡内小学校への就職を願い出る。
 4月7日 渋民小学校への就職の件について村役場から呼び出しを受け、
      履歴書を提出する。
 4月14日 この日より渋民尋常高等小学校に勤務する。当時同校は遠藤
       忠志校長以下教員四名、生徒二百八十三名(高等科六十八名、
       尋常科二百五名)で、啄木の受け持ちは尋常科二学年であっ
       た。
 7月3日 小説「雲は天才である」を書き始める。
 7月8日 小説「面影」を脱稿する。
 11月23日 盛岡中学校校友会誌に寄稿する「林中書」を書き始め、1
      2月3日に脱稿する。
明治40年(22歳)
 3月20日 学年末に離村して新生活を開かんと函館の知人に北海道移住
       の依頼をする。
 4月1日 辞表を提出。岩本助役や畠山学務委員に留任を勧告される。
 4月19日 高等科の生徒を引率、村の南端平田野に赴いて校長排斥のス
      トライキを指示。即興の革命歌を高唱させて帰校。万歳を三唱
      して散会。かぜん問題紛糾し、村内騒擾の末、翌20日遠藤校
      長に転任の内示、啄木も21日付けで免職の辞令が出る。
 5月5日 函館の知人(小学校教師)方に奇寓する。
【荒木のコメント】
 渋民尋常小学校へ勤務するに啄木はコネを頼って就職していたことが分か
ります。啄木は二十歳(明治38年)の5月に堀合節子と結婚しています。妻
節子の父が岩手郡役所に勤めており、その友人である郡視学・平野喜平に就
職を依頼しています。当時の教員採用は、現在のような試験制度はなく、縁
故やてづるで採用されていることが普通だったようです。
 故郷の渋民尋常小学校勤務を一年で退職しています。父は渋民村の寺の住
職でしたが、住職再任の前提になる滞納宗費百十三円の弁済ができずに罷免
され、それに長女京子が誕生し一家の窮乏生活が更に増す、などで故郷渋民
村を捨て、函館に新天地を求めました。
 退職間際の校長排斥のストライキや校歌高唱については小説「天才は雲に
のる」にも前兆行動として書かれています。学校退職の決心は決まっている
ことで、一年間の校長の教育経営に接してきて大きな不満が高ぶっており、
校長の教育経営方針と啄木の教育理想とに大きな隔たりがあり、ここで一挙
に爆発したみたいです。
 4月21日付免職ですので、啄木の渋民尋常小学校勤務は正しくは一年一
カ月弱ということになります。


       
渋民尋常小学校代用教員の時代(2)


 啄木が書いた『渋民日記』があります。この日記は、ちょうど渋民尋常小
学校に勤務していた期間の日記です。前記(1)は年譜から、ここ(2)で
は渋民日記から、渋民尋常小学校時代のことを引用しています。当時の学校
状況のハード面のことだけを以下に抜粋して引用編集しています。啄木のご見
解・ご主張などが強く出ている文章個所は引用していません。
明治39年(21歳)
 3月23日 この日小学校の卒業式あり。誘われて自分も参列した。無邪
       気な子等のうれしそうな顔が三百も並んでいて、そして声 
       を合わせて「蛍の光」を歌ったとき、自分はただもう嬉しい
       やら昔恋しいやらで、涙も出るばかり可愛く思った。自分が
       六歳に初めて知識の光をおがんだのが、実にこの郷校であっ
       たのだもの。式後、学校の職員諸氏や村長などと共に祝杯を
       あげた。一日雑談。
 4月26日 本日から高等科生徒の希望者へ放課後課外に英語教授を開始
       した。二時間ないし三時間位つづけ様にやって、生徒は少し
       も倦んだ風を見せぬ。二日間で中学校で二週間もかかるぐら
       い教えた。
 7月19日 校舎修繕のため四日間休暇になった。休暇は嬉しいが、貧乏
       袷に赤帝の猛威は少なからず恐れ入る。殊に西日いっぱいの
       天井低き二階、汗が一日乾く時がない。一発見をした、曰く、
       「常識」という語を口にする人に、昔から凄い事を成した人
       はいない。
 10月4日 上野さめ子女史は、本宮村に転任になった。4日、告別式を
       あげた。生徒は皆涙ぐんでいた。予も心に泣いた。送られる
       人も涙であった。
       上野女史のかわりに、矢張師範出の堀田秀子という丸顔の人
       が来た。
 10月5日 日戸小学校に授業批評会があって出席した。この会は遺憾な
       く、今の教育の欠点を予に語った。
明治40年(22歳)以下『丁未日誌』より
 1月13日 近隣四校の新年祝賀会を我校で開く。会するもの六名。明治
       以前に生まれたる人々の間に予一人髯なき顔を並べたる。焼
       野の中に白鳥の下り立てるにも似たりき。
 1月30日 本日から2月14日迄16日間冬季休業となった。
 3月20日 この学年最終の授業日であった。数日前から計画させて置い
       た卒業生送別会をやるために授業はしなんだ。常々嫌者にさ
       れておる校長は留守なり。生徒は喜んで午後1時の開会を待
       った。この送別会は、一切生徒にやらせたので、接待係、余
       興係、会場係、会計係、いずれも皆生徒、矢張り生徒から出
       した招待状によって、定刻になると、この村の伸士貴女十数
       名隣席せられた。生徒などの招待状で伸士を招くのはこの村
       開闢以来な事である。
       生徒の演説独唱、いずれもうまくやった。卒業生演説もすみ、
       来賓演説となったが、互いに相譲ってなかなか出る人がない。
       金矢氏は遂に立って、喜色満面に溢れるというてい態で、滑
       稽交じりに訓話をされた。
 4月1日 新学年開始なので、新しい入学生が続々来る。来る児も来る児
      も皆頑是ない顔の児ばかり。
【荒木のコメント】
 啄木が母校の卒業式に参列し「蛍の光」を歌ったとあります。明治39年
代には卒業式で「蛍の光」が歌われていたことが分かります。
 近隣四校の、今でいう賀詞交歓会のようなものがあったことが分かります。
冬季休業は16日間であったとあります。
 放課後の英語の課外授業をやっています。現在の学校では教科時数や年間
授業日数が決まっており、こうした自由はできません。
 上野さめ子先生のお別れ式を「告別式」と書いていあります。現在は「転
任式」「離任式」「送別式」などが用いられます。「告別式」は死者・霊者
に用いられるのが一般でしょう。
 卒業生送別会の実施、校長の了解もなく、村のお歴々・有力者を招待など
啄木ならではの行動だったようです。現在では、大問題になる事件ですね。


        
弥生尋常小学校代用教員の時代


明治40年(22歳)
 6月11日 函館区立弥生尋常小学校の代用教員となる。月給12円。同
      校は明治15年創立で職員は大竹敬三校長以下十五名。学級数
      14、児童千百余名。
 8月25日 夜、函館の大火。市内の大半を焼く。啄木一家は焼失をまぬ
       かれたが、新聞社に預けた「面影」その他の原稿を焼失する。
 9月11日 大竹校長に退職願を提出する。
 9月13日 函館を去って、札幌に向かう。
【荒木のコメント】
 函館の弥生尋常小学校は「児童数千百余名、学級数14」と書いてありま
すから1学級人数79人前後となります。平成の現在は40人学級、文科省
は35人にしようとがんばっているところですから随分と多いですね。渋民
尋常小学校の児童数は年譜によると、283名と書いてあります。教員は校
長を入れて4人ですから、校長も授業してるとして単純に平均すると70人
前後の受持ちとなります。
 岩手県の渋民尋常小学校の月給は八円でしたが、函館の弥生尋常小学校の
月給は12円とあります。当時の月給は村役場や町役場から支払われており、
村民や町民がどれだけ税金を納入しているか、納入額や納入状況のありよう
によって月給額が決定され、また支払い遅延などもあったようです。詳細は
後述してます。
 啄木は函館の大火、弥生尋常小学校の焼失により、退職せざるを得ません
でした。啄木の代用教員生活はここでピリオドをうつことになります。21
歳から22歳にかけてのわずか1年3か月ほどの短い代用教員生活でした。


      
啄木の小説の中に出てくる小学校の風景


 石川啄木には、学校物という学校を題材にした小説があります。
     『雲は天才である』明治39年未発表
     『足跡』明治42年2月「スバル」発表
     『葉書』明治42年10月「スバル」発表
     『道』明治43年4月「新小説」発表
 その他、啄木には教育に関する評論や書簡や随想や寄稿文や断想断片など
も多数あります。以下、本稿では啄木の当時の学校生活の様子を書いた文章
個所だけを抜粋して構成していくことにします。引用文章で漢字仮名遣いは
多少、荒木が変更している個所があることをお断りしておきます。
 啄木の小説に描かれている事柄は、かれの代用教員体験がベースになって
いることは当然です。当時の学校体験や学校状況がそっくりそのまま事実と
してルポルタージュのようにありのままに書かれているとは言えないですが、
殆どといってよいほど重なっているようにわたし(荒木)には思われます。
啄木の小説は、代用教員生活の事実とかけ離れたフィクションでなく、事実
とかなり密着した、殆ど変わらない描写で書かれている小説だと位置づけて
いいとわたし(荒木)は考えています。それを補強する次のような啄木研究
家の意見もあります。
 『石川啄木全集 第三巻』(筑摩書房、昭53)の巻末で解題を書いてい
岩城之徳さんは、こう書いています。
 小説『雲は天才である』の登場人物について
「登場人物については、啄木が代用教員として奉職した頃の渋民村尋常高等
小学校の教員組織をそのまま用い、校長の田島金蔵、検定上がりの首座訓導
古山、女教師山本孝子、月給八円の代用教員新田耕助には、それぞれ啄木奉
職当時の校長遠藤忠志、主席訓導の秋浜市郎、岩手師範学校女子部出身の上
野さめ子、及び代用教員だった啄木自身のイメージがそれぞれ投影している
ことがわかる。
 啄木の自筆原稿によると彼は執筆の過程で、S村……尋常高等小学校長の
名前をそのまま、「遠藤忠志」「マダム遠藤」といった書き方をしている。
このうち「遠藤校長」「遠藤忠志」については、あとでそれぞれ白い薄紙を
貼り、「田島校長」「田島金蔵」と書き改められているが、「マダム遠藤」
についてはそのままになっている。しかし、「マダム遠藤」では不都合なの
で、本全集では「マダム田島」と正した。それほど、啄木から見た現実の校
長の姿が作中に生かされているのである。」

 また、岩城之徳さんは、小説『足跡』の解題の項で
「当時の啄木の日記と
照合してみると、その内容もほぼ事実に即して書かれていることがわかる。
なおこの作品の舞台と人物構成は『雲は天才である』と同じであるが、女教
師の並木孝子は、上野さめ子の後任として赴任した当時二十二歳の堀田秀子
がそのモデルである。」
と書いてあります。わたし(荒木)も「渋民日記」
や書簡集などを読んだ感想では、殆ど事実と重なっていることに気づきます。


      
職員室の大時計は常時三十分遅れていた


 明治39年作の小説「天才は雲にのる」には、当時の職員室風景の描写個
所があります。渋民尋常小学校に勤務していた時の執筆ですから、かなりと
言うよりも殆ど同じと言ってよいほど渋民小学校の職員室風景が描写されて
いると言ってよいでしょう。

 職員室に入ると、向かって凹字形に都合四脚の卓子が置かれてある。突当
りの並んだ二脚の、右が校長閣下の席で、左は検定あがりの古手の首座訓導、
校長の傍が自分で、向いあっての一脚が女教師のである。わが校の職員室と
云っば唯この四人だけ、自分がそのうち最も末席なはいうまでもない。よし
百人の職員があるにしても代用教員は常に末席を仰せつかる性質のものであ
るのだ。           小説『雲は天才である』より引用

 S村……尋常高等小学校の職員室では、今しも壁の掛時計が平常のごとく
極めて活気のないものうげな悲鳴をあげて、──恐らくはこの時計までが学
校教師の単調なる生活に感化されたのであろう、──午後の三時を報じた。
大方今ははや四時に近いのであろうか。というのは、田舎の小学校にはよく
ありがちな奴で、自分はこの学校に勤めるようになって既に三カ月にもなる
が、未だかってこの時計がK停車場の大時計と正確に合ったためしがない、
ということである。少なくとも三十分、ある時の如きは一時間と二十三分も
遅れていましたと、土曜日ごとに停車場から、ほど遠くあらぬ郷里へ帰省す
る女教師が言った。       小説『雲は天才である』より引用

【荒木のコメント】
 職員室の大時計がなぜ遅れているか、校長の弁明によると、この学校の児
童は大多数が農家の子弟で、時間を正確に守ろうとすれば、始業時間に児童
が集まらないから、と言っている。実際は、農家の朝飯は普通の家庭に比べ
て早いし、同僚の誰しも朝の出勤時間が遅くなるならこんなに都合のいいも
のはない、啄木もそうだ、ということからだと書いてあります。
 渋民小学校の職員構成について、渋民日記にはこう書かれている。
「職員
は、師範出の、朝鮮風な八字髭を生やした、先ずノンセンスな人相の標本と
いった様な校長と、この村の人で、三十年も同じ職に勤めている検定試験上
がりの訓導と、師範女子部出の、上野女史と、そして自分と四人である」
と。


        
新学年始業式の朝の様子


 それは明治四十年四月一日の朝のことであった。
 新学年始業式の日なので、S村尋常高等小学校の代用教員、千早健は、よ
り少し早目に出勤した。白墨の粉に汚れた木綿の紋付に、裾の擦り切れた長
めの袴をはいて、クリクリした三分刈りの頭に帽子もかぶらず……彼は帽子
も持っていなかった。……すらりとした体を真直ぐにして玄関から上がって
いくと、早出の生徒は、毎朝、控所のかなたこなたから駆けて来て、うやう
やしく彼を迎える。中にはわざわざ彼におじぎをするばっかりに、そこに待
っているのもあって。その朝は殊にその数が多かった。平生の三倍も四倍も
……遅刻がちな成績の悪い子さえその中に交じっていた。
                     小説『足跡』より引用

【荒木のコメント】
 明治40年度の新学期始業式の朝の様子が書いてあります。千早健とは啄
木のことです。始業式が4月1日ということが分かります。始業式には紋付
に袴をはく習わしがあった、というより、「白墨の粉に汚れた木綿の紋付。
裾の擦り切れた長めの袴」とあるので、これは教員の日常着だと分かります。
やっぱり明治時代ですね。啄木には新調して新学期始業式に参列するお金が
なかったのでしょう。


  
教育行政の最大課題は児童出席率を上げることだった


 明治5年発布の新学制は「自今以後一般ノ人民ヲシテ学ニ就カシメ,邑ニ
不学ノ戸ナク家ニ不学ニ人ナカラシメンコトヲ期ス、人ノ父兄タル者宜シク
此意ヲ体認シ其愛育ノ情ヲ厚クシ其子弟ヲシテ必ズ学ニ従事セシメザルベカ
ラザルモノナリ」」という高らかな堂々たる宣言で出発しました。小学校を
「上下二等トシ、此二等ハ男女共必ズ卒業スベキモノトス」と定めました。
 では、明治の父母たちは、喜んでわが子を学校へ行かせたでしょうか。そ
う簡単には皆学の学校制度はうまく施行できませんでした。
 明治五年の学制発布時には、学制に対する一般庶民の理解(協力)が低
く、これには文部省の苦労も多く、普及活動にかなり労力を費やさねばなり
ませんでした。
 ある地方においては父母たちがまとまってわが子を学校へ登校させないと
いう反対運動もあったようだし、学校焼き討ち事件もあったようです。農家
では、文字を書く機会が極めて少なく、中には何か月も、何年も、筆をとっ
たことがないという農民も多く、そうした実情においては学校を必要として
いなかったのです。
 地租改正による地方税の負担増、教育費の加重、父母が教育の必要を認
めない、教育期間が長期だ、などの理由もありました。学制発布当初の学校
教育は日常生活に役に立たない指導内容が多く、一般民衆にとっては経済的
負担が多く、学校焼き討ちという過激な行動も起こったほどでした。そこで
父母の教育費負担の減額、教則の簡易化、在校時間の短縮、子どもが家事・
家業を手伝えるようにするなどの意見も多かったのです。

 玉城肇『現代日本教育史』には、次のように書いています。
 
 「農民達は就学についてはほとんど熱意を感じていなかったばかりでな
く、かえって強い反感をさえ感じていた。その反感は明治六年前後の学校破
壊暴動となって現れている。例えば明治六年六月に鳥取県下に起こった農民
暴動は、竹槍をひっさげた千人、あるいは二千人のものが戸長その他の家々
を破却したり、あるいは一、二件に放火したりしたが、小学校も二、三ヶ所
破却した上に、学校の生徒を打擲し、「小学校御廃止の事」を請願してい
る。同じ年に北条県下(美作国)、小倉県、島根県等に同様な暴動が起こっ
ているが、明治九年になってもそれは終息せず、同年十二月に三重県で起
こった農民暴動は「至る処区役所、学校等を焼毀」している。これらは地租
改正にともなう農民の困窮に端を発した暴動で、米価の引き下げ貢米の引き
下げ、地券交付についての苦情を請願の中心とするものであったが、小学校
に対しても非常に大きな反感をもっていた。それは学校の設立や運営に農工
商に至るまで多額の寄付(少なくも数百円)をとられることについての反感
ばかりでなく、教育内容の遊離、授業料の負担、就学者の状況などから農民
のとっては無用の長物であった学校に対する反感が二重にも三重にも加わっ
たのである。   玉城肇『現代日本教育史』(刀江書院、昭和24)より


 明治期の父母の学校への期待がこのような状態でしたので、村役場の教育
関係者や学校教師たちは児童を学校へ登校させるためにいろいろな方策をと
ることになります。これについては本HPの「名文の暗誦教育」の中の「明
治ひとけたの暗誦教育」や「明治初期の素読風景」をお読みいただけるとあ
りがたい。明治生まれの著名人の学校生活や日本全体の児童の出欠状況の実
態統計資料なども添えて書いてあります。
 渋民尋常小学校でも、児童の出席率を上昇させることが最大の学校課題で
あったようです。この仕事が学校事務の多くを占めていたようです。子ども
をどうしたら学校へ来させることができるか、どのようにしたら出席率を上
げられるか、児童の出欠状況の低さを村当局や県当局へどう報告するか、こ
れらに最大の悩みがあったようです。
 啄木は小説『雲は天才である』の中で次のように書いています。

 児童出席簿とにらみ合いをしながらそろばんの珠をさしたりひいたり、過
去一カ月間における児童各自の出欠席から、その総数、その歩合を計算して、
明日は痩せ犬ような俗史の手に渡さるべき所謂月表なるものを作らねばなら
ぬ。それのみなら未だしも、成績の調査、欠席の事由、食料携帯の状況、学
用品供給の模様など、名目は立派でも殆ど無意義な仕事が少なからずある。
                小説『雲は天才である』より引用


 渋民尋常小学校と限らず、どこの学校もそうでしたが、たまに郡視学とい
う役人(学校のお目付け役)が各学校へやってきて、児童の出席状況の歩合
が少ないと小言を言って帰る。そこで教師たちは出席日数に手加減、つまり
不正を働かすことになるわけです。啄木は『雲は天才である』の中に次のよ
うな文章があります。

 やかまし屋の郡視学が巡ってきて散々小言を言って行ったのは、つい昨日
のことである。視学はその時、この学校の児童出席簿の歩合は、全郡二十九
校中、尻から四番目だと言った。畢竟これも職員が欠席者督促を励行しない
せいだと言った。その責任者言うまでもなく校長だと言った。好人物の田辺
校長は「いや、全くです」と言って頭を下げた。それで今日は自分が先ず督
促に出かけたのである。
 この歩合という奴は始末におえないものである。この辺の百姓にはまだ、
子供を学校に出すよりは家に置いておいて子守をさした方がいいと思ってい
る者が少なくない。女の子は殊にそうである。忙しく督促すれば出さぬこと
もないが、出てきた子供は中途半端から聞くのだから、教師の言うことがさ
っぱり分からない。面白くもない。教師の方でも授業が不統一になって誠に
困る。二三日経てば、自然また来なくなってしまう。しかしそれでは歩合の
上がる気づかいはない。そこでこの辺の教師は、期せずして皆出席簿にある
手加減をする。嘘だと思われない範囲で、歩合を誤魔化して報告する。この
学校でも、田辺校長からして多少その秘伝をやってるのだが、それでさえ尻
から四番目だと言われる。誠に始末におえないのである。
                      小説『葉書』より引用



    
出席率報告をごまかすことが常態化していた


 小説『葉書』の中にこんな文章描写があります。甲田とは啄木と重なるこ
の小説の主人公です。
 
甲田は初めそんな事を知らなかった。ところがこんなことがあった。三月
の終業証書授与式の時、此木田の受持の組に無欠席で以て賞品を貰った生徒
が二人いた。甲田は偶然その二人が話してるのを聞いた。一人は、俺は三日
ばかり休んだ筈だと言った。一人は、俺もみんなで七日ばかり休んだはずだ
と言った。そして二人で、先生が間違ったのだろうかどうだろうかと心配し
ていた。甲田はその時思い当たる節が二つも三つもあった。そこで翌月から
自分も実行した。今でもやっている。
 それからこういうこともあった。ある朝、田辺校長が腹が痛いというので、
甲田が掛持ちして校長の受持っている組へも出た。出席簿をつけようとする
と、一週間というもの全然出欠がついてない。そこで生徒に聞いてみると、
田辺先生は時々しか出席簿をつけないと言った。甲田はひそかに喜んだ。校
長も矢張りやるなと思った。そして女教師の福富も矢張り、やるだろうかと
いう疑問を起こした。あるとき二人きりの時、直接聞いてみた。福富は真顔
になって、そんなことはしたことがありませんと言った。甲田は、女という
ものは正直なものだと思った。そして
「それじゃあ、やらないのはあなただけです」と言った。福富は目を丸くし
 て
「まあ、校長さんもですか」と驚いた。
「無論ですとも。盛んにやってますよ」
 そこで甲田は、自分がその秘訣を知ったそもそものことから話して聞かせ
た。校長は出席簿を碌碌つけないけれども、月末にはちゃんと歩合を取って
郡役所に報告する。不正確な出席総数を、不正確な欠席総数で割ったところ
で、結局そこに出来る歩合は矢張り不正確な歩合である。初めから虚偽の報
告をする意志がないと仮定したところで、その不正確な歩合を正確なものと
して報告するには、少なくとも、その間に立派な動機が成り立つ。いくら好
人物で無能な校長でも、この歩合は不正確だからというので、わざわざ控え
目にして報告するほど頓馬ではないだろうというものである。
 そしてこういう結論を下した。田辺校長のような意気地のない、不熱心な、
無能な教育家はどこに行ったってあるものじゃない。田辺校長のいるうちは、
この村の教育も先ず以て駄目である。だから我々も面倒くさいことは好加減
にやって置くべきである。         小説『葉書』より引用


 次の文章は、小説『足跡』にある明治四十年度の入学式後の打ち合わせ会
の様子です。「四人の職員が再び職員室に顔を合わせたのは、もう十一時に
間のない頃であった」そして次のような教員たちの会話があります。
「安藤先生」
と孝子は呼んだ。
「ハ」
「今年の新入生は合計で四十八名でございます。その内、七名は去年の学齢
で、一昨年のが三名ございますから、今年の学齢で来たのは三十八名しかあ
りません」
「そうでごあんすか。総体で何名でごあんすたろう?」
「四十八名でございます」
「いいえ、本年度の学齢児童数は?」
「それは七十二名という通知でございます、役場からの。でございますから、
今日だけの就学歩合では、六十六、六六七にしか成りません」
「少ないな」と校長は首を傾げた。
「なあに、毎年今日はそれぐらいなもんでごあんす」と、十年もこの学校に
いる土地者の秋野が口を入れた。「授業の始まる日になれば、また二十人位
ア来あんすでア」
「少ないなア」と、校長はまた同じ事を言う。
「どうです」と健は言った。「今日来なかったのへ、明日、明後日の中に役
場から又督促さしてみては?」
「なあに、やのあさってになれば、ん十人はきっと来あんすでア」保険付
だ。」と、秋野は鉛筆を削っている。
「二十人来るにしても、三十八名に二十……あと十四名の不就学児童がある
のじゃありませんか?」
「督促しても、来るのは来るし、来ないのは来なごあんすぜ」
「ハハハハ」と健は訳もなく笑った。「いいじゃありませんか、私達が草鞋
をはいて歩くんじゃなし、役場の小使を歩かせるのですもの」
来ないのは来ないでしょうなア」と、校長は独り言のように意味なないこと
を言って、机の上の手あぶりの火を、煙管でつっついている。
                     小説『足跡』より引用

【荒木のコメント】
 引用した小説『葉書』の中に「
此木田の受持の組に無欠席で以て賞品を貰
った生徒
が二人いた。三日休んだはずだ。先生が間違えたのか」という文章
がありました。ここで思い出しました。
 わたし(荒木)の小中学校の時、一年間学校を休まずに登校すると「皆出
席賞」というA4の半分ぐらいの賞状がもらえたと記憶しております。賞状
の名前も「皆出席賞」だったかどうかもはっきりしてません。三日間までは
欠席してもギリギリのセーフとかの決まりがあって、それを子ども同士で話
題にし、「ぼくはセーフ、ぼくはアウト」などと話した記憶があります。
 それで押入れからごそごそと賞状ホルダーを探し出して残存してるかを調
べました。目当ての「皆出席賞」が、中学校のが二つ残ってました。小学校
のも学年末に頂いた何枚かがあるはずですが散逸してしまたようです。中学
校の二枚の賞状の文面はこうです。
『賞状・第三学年・荒木茂・中学校在学中三年間皆出席であったからその精
勤を賞する・昭和○年○月○日・○県○郡○村立○中学校長○○○○』
『表彰状・荒木フサ子(母親氏名)・右は子弟を終始激励鞭撻し一日も欠席
させることなくその勉学を続けさせ得た努力はなみなみならぬものがあり長
年にわたるその労にむくいるためここに表彰します・○村立○中学校PTA会
長○○○○』
 児童向けの賞状には「○年間皆出席」の○個所が印刷でなく、毛筆で一と
か二とか三とか書き入れるようになっています。また、母親向けの賞状の文
言は一年間でも二年間でも三年間でも合うような文章になっています。
 これらの賞状は、石川啄木たちが苦労した児童出席率向上のための方策と
して教育界が考えだした賞状授与もその一つだったのではないかと考えます。
わたしの子ども時代、昭和30年前後の小中学校では、そうした「皆出席
賞」は啄木らの出席率向上施策の残滓、名残としてあったのではと考えます。
平成の現在では「皆出席賞」は、学校行政機関の正式な賞状としてはないと
思われます。学級担任が精励激励の褒章として個人的に授与する賞状はある
と思います。時代の変化で「欠席」への考え方も変わってきています。

  澤地久枝『道づれは好奇心』(講談社、2002)という随筆集を読んでい
たら次のような文章個所がありました。澤地久枝さん(1930生まれ、ノンフ
ィクション作家)。

 明治になって教育は国民の義務となったけれど、はじめ、義務年限は四年
でした。小学校はできても未就学の子、学校に籍はあっても家庭の事情で登
校できない子がざらにいたのが明治時代です。とくに女の子がひどかった。
 男女ともに義務教育がほぼ定着し、八割をこえたといわれるのは明治四十
年代です。女に学問はいらないと公然といわれていますが、その学問とは
「読み書きそろばん」のことでした。幕末生まれのわたしの母方の祖母は敗
戦の年の昭和二十年一月の老衰で亡くなったけれど、生涯一文字も解さず、
目に一丁字なしの未識字、むかしの表現でいうところの文盲でした。
 孫のわたしは、離れて住む祖母の身の上が心配でたまらず、手紙のやりと
りを思いつきます。小学生のときでした。わたしは初孫ということもあって、
苦労したこの祖母に愛され、わたしもおばあさん子。夜中に目がさめて、
「おばあさんが死んだらどうしよう」と考え、ふとんをかぶって泣いた思い
出があります。
 でもね、ひらがなを教えようとして、祖母にことわられました。
「いまさら字をならう苦労なんてしたくないよ」
 未識字のまま見事に生きた。
 わたしの祖母のような人は、ざらにいたのです。    23ぺ〜24ぺ



        
代用教員の月給は八円であった


 啄木は小説の中で主人公(『雲は天才である』の「自分」、『足跡』の
「健」)として登場し、彼の月給が八円であると書いています。

 自分は尋常科二年受持ちの代用教員で、月給は大枚金八円也、毎月正に有
難く頂戴して居る。        小説『雲は天才である』より引用

 健の月給はたった八円であった。そして、その八円はいつでも前借になっ
ていて、二十一日の月給日が来ても、いつの月でも健には、同僚と一緒に月
給の渡されたことがない。四人分の受領書を持って行った校長が、役場から
帰ってくると、孝子は大抵紙幣と銀貨を交ぜて十二円渡される。検定試験あ
がりの秋野は十三円で、古い師範出の校長は十八円であった。そして、校長
は気の毒そうな顔をしながら、健にはぞんざいな字で書いた一枚の前借書を
返してやる。彼は平然としてそれを受け取って、クルクルと丸めて火鉢にく
べる。                  小説『足跡』より引用

【荒木のコメント】
 啄木の渋民小学校での月給は8円、函館の弥生小学校での月給は12円で
した。ちなみに同時代、夏目漱石は明治28年、満28歳で松山中学へ赴任
したが月給は80円でした。島崎藤村は小諸義塾で36円でした、田山花袋
は弥勒小学校代用教員で11円でした。
 啄木は明治39年4月23日付けの友人への手紙にこう書いています。借
金してる友人へ期日まで返金できないという知らせの手紙の一部分です。
「去る二十一日の月給日にも請求致し候ひしも、俸給金村役場より出来ず、
お葉書によって今日も催促に参り候ひしも矢張り駄目、これは昨年の凶作の
影響にて村税未納者多く、村費皆無のために候、誠に困り入り候、最も私一
人でなく、学校の職員四人共同にて融通の余裕もなく、いづこも同じ秋の夕
暮れに御座候。役場にては、月末迄には何とかして払うと申居り候」

 貧乏村か、富裕村か、によって月給の支払い額・時期が違っていたようで
す。
 啄木が渋民尋常小学校に勤務していた時の書いた「渋民日記」の中に次の
ようが文章があります。
 
八円の月給で一家五人の糊口を支えるという事は、蓋しこの世で最も至難
なる事であろう。予は毎月、上旬のいちに役場から前借している。予が諸方
の友人へ疎遠をしているのは、多く郵税を持たぬからだ。また、紙のない時
もある。巧みに世を処するには、鐘が一番必要だ。予は此点に於いて極めて
不幸な境遇にある。実に予は不幸だ。あるいはこの不幸は自分の一生続くか
も知れない。



   
代用教員の月給八円で家族を養うのは苦しかった


 次は小説『足跡』の中の文章です。健とは、啄木と重なる主人公です。健
の貧乏暮らしの描写個所があります。
 
健が平生人にたまげられる程の愛煙家で、職員室に入って来ると、どんな
ことがあろうと先ず煙管を取り上げる男であるは、孝子もよく知っていた。
卓隣の秋野はその煙草入りを出して健にすすめたが、彼はその日一日のまぬ
つもりだったとみえて、煙管も持って来ていなかった。そして、秋野の煙管
を借りて、うまそうに二三服つづけざまにのんだ。孝子はそれを見ているの
が何がなしに辛かった。宿へ帰ってからまでそのことを思い出して、何か都
合のよい名義をつけて、健に金をやる途はあるまいかと考えたことがあった。
 また、去年の夏、健がとうとう古袷を着て過ごしたこと、それでさほど暑
くも感じなかったということなども、彼の口から聞いてはいたが、村の噂は
それだけではなかった。その夏、毎晩夜遅くなると、健の家……ある百姓家
を借りていた……では障子を開放して、いたたまらぬ位杉の葉をいぶして、
中でしきりに団扇であおいでいた。それは多分蚊帳がないので、そうして蚊
を追いだしてから寝たのだろうということであった。そんなに苦しい生活を
していて、彼にはちっとも心を痛めているふうがない。真に朝から晩まで、
子供らを相手にいいとして暮らしている。   小説『足跡』より引用



  
 代用教員は、アルバイトをせざるを得なかった


 孝子が初めてこの学校に来た秋の頃は、毎朝夜明けから朝飯時まで、自宅
に近所の子供等を集めて「朝読み」というのをやっていた。朝な朝な、黎明
(しののめ)の光がようやく障子にほのめいたばかりの頃、早く行くのを競
っている子供ら、……主に高等科の……が、外から声高に友たちを呼び起こ
して行くのを、孝子は毎朝のようにまだ寝床の中で聞いたものだ。冬になっ
て朝読みが出来なくなると、健は夜な夜な九時頃までも生徒を集めて算術、
読み方、綴り方から歴史や地理、昔からの偉人の伝記逸話、年上の少年には
英語の初歩なども授けた。この二月村役場から話があって、学校に壮丁教育
の夜学を開いた時は、三週間の期間を十六日まで健が一人で教えた。そして
終いの五日間は、毎晩裾から吹き上げる夜寒をこらえて、二時間も三時間も
教壇に立ったために風邪を引いて寝たのだということであった。     
                     小説『足跡』より引用

【荒木のコメント】
 啄木は「借金魔」とか「金にだらしない男」とか「社会生活ではほとんど
無能者」とか、よくないレッテルを付けられることがあります。啄木が盛岡
尋常小学校に入学した時、上級生(4年生)に金田一京助がおりました。金
田一京助とは生涯にわたっての親友でもあり、借金の借り手でもありました。
 啄木には明治42年ごろの「借金メモ」があります。それを見ると、金田
一京助から100円、渋民小学校同僚・上野さめ子から3円、弥生小学校の
同僚・遠藤隆から15円、そのほか有名人では北原白秋から10円、木下杢
太郎から1円、土井晩翠から10円、小山内薫から3円、吉井勇から2円、
ほか60余人から合計1372円50銭の借金があると記入されています。
 明治37年12月15日付けの啄木から金田一京助宛の手紙の一部分に
「一月には詩集出版と、今書きつつある小説とにて小百円は取れるつもり故、
それにて御返済可致候に付、若し若し御都合よろしく候はば、誠に申しかね
候ども金十五円ばかり御拝借願はれまじくや」などの文章も見られます。


    
明治期にも郡指定の公開授業研究会があった


 「渋民日記」によると、明治39年10月5日に「日戸小学校に授業批評
会があって出席した。この会は遺憾なく、今の教育の欠点を予に語った」と
書いています。このことは明治時代にも公開授業研究会があった、村内の他
校の教師達が一小学校に参集して、授業参観と授業批評会を実施していた、
啄木も代用教員時代にはそこに参加していたということです。
 授業批評会については、小説『道』に詳細に書かれています。この小説に
書かれている授業批評会のアウトラインを理解していただくため、下記にあ
ちらこちらから抜粋引用して編集しています。当日は学校は休業にして、朝
早く分校からも教師1名が本校に参集して、五名の教員が往復六里の山路
(片道3時間)を気楽な話をしながら徒歩で行き来した授業批評会参加の様
子が描かれています。

 ○○郡教育会東部会の第四回実地授業批評会は、十月八日の土曜日にT村
の第二尋常小学校で開かれることになった。選択科目は尋常科修身の一学年
から四学年までの合級授業で、謄写版に刷ったその教案は一週間前に近村の
各学校へ教師の数だけ配布された。
 隣付のS村からも、本校分校合わせて五人の教師が揃って出掛けることに
なった。その中には赴任して一月も経たぬ女教師の矢沢松子もいた。山路三
里、往復で六里あると聞いても、左程驚きもしなければ、躊躇するふうもな
かった。                     小説『道』より

 宿直室に寝起きしている校長がようよう起きて顔を洗ったばかりのところ
へ、二里の余も離れたところにある分校の目賀田という老教師が先ず来た。
草鞋を解き、腰を伸ばし、端折った裾を下して職員室に入ると、挨拶より先
に「何という霧でしょう。まあ」と言って、呆れてしまったというような顔
をしている。                   小説『道』より

「粟と稗と蕎麦ばかり食ってるから、この村の人のする糞は石のように堅く
て真黒だ」雀部はそんなことを言って多吉と松子を笑わせた。そういう批評
と観察の間にも、この中老の人の言葉には、自分の生まれ、住んでいる村を
誇るような響きがあった。
「この村の女達の半分は、今でもまだ汽車を見たことがないそうです」とい
う風に校長も言って聞かせた。           小説『道』より

 風雨に朽ちて形ばかりに立っている校門が見えた。農家を造り直してみす
ぼらしい茅葺の校舎も見えた。        小説『道』より引用

 校庭のそっちからもこっちからもぞろぞろ子供等が駆けて来て交る交る礼
をした。水槽の水に先を争うて首を突き出す牧場の子馬のようでもあった。
「さあさあ、どうぞ」ひどく訛りのある大きい声が皆の目を玄関に注がせた。
そこには背の低い四十五六の男が立って、揉み手をしながら愛想笑をしてい
た。色の浅黒い、あばただらけの、蟹の甲羅のような道化た顔をして、白墨
の粉の着いた黒木綿の紋付に裾短い袴をはいた……それが真面目な、教授法
の熟練な教師として近郷に名の知れている、二十年の余りも同じ山中の単級
学級を守って来たここの校長の田宮であった。
「もう皆さんはお揃いですか」「そうであす。さっきから貴方方のお出をお
待ち申していたところで御あした」
「お天気で何よりでしたなあ」
「ほんとにお蔭様であした。さあ、ままあどうぞ。」

 始業の鐘がかすれたような音を立てて一しきり騒がしく鳴り響いた。多く
は裸足のままで校庭に遊び戯れていた百近い生徒は、その足を拭きも洗いも
せず、吸い込まれるように暗い屋根の下へ入って行った。がたがたと机や腰
掛の鳴る音。それが静まると教師が児童出席簿を読み上げる声。淵沢長之助、
木下勘次、木下佐五郎、四戸佐太、……はい、はい……と生徒のそれにこた
える声。
 いよいよ批評科目の授業が始まった。「これ前の時間には、皆さんは何と
習いましたか。何という人の話をしたお話を聞きましたか。誰か知っている
人はありましえんか。あん? お梅さん? そうであした。お梅さんの言う
人の親孝行のお話でした。誰か二年生の中で、今そのお話を出来る人があり
ましえんか」
  こういう風に聞き苦しい田舎教師の言葉が門の外までも聞こえてきた。
門に向いた教室の格子窓には、窓を背にして立っている参観の教師達の姿が
見えた。
 がたがたと再び腰掛の鳴る音の暗い家の中から聞こえた時は、もう五十分
の授業の済んだ時であった。生徒は我も我もと先を争うて明るいところへ飛
び出してきた。

 授業の済んだ後、栗が出た、酒が出た、粟飯が出た。そして批評が始まっ
た。しかしその批評は一向にはずまなかった。それは一つには、思い掛けな
い出来事の起こったせいであった。(荒木注。一教師より「郡役所から呼び
出され、郡視学からあらぬ噂で詰責された、皆さんの御意見を乞う。」とい
う報告があり、話題になる。)


 従って肝腎の授業の批評は一向に栄えなかった。シとツなどの教師の発音
の訛りを指摘したのや、授業中一学年の生徒を閑却した傾きがあったという
説が出たぐらいで、座は何となく白けた。そうしている所へ村の村長が来た。
盃が俄かに動いて、話は全く世間話に移っていった。
                        小説『道』より引用

【荒木のコメント】
 一日がかりの実地授業批評会、片道3里、往復6里、分校教師はそれに片
道2里、往復4里のつけたしです。明治人はそれを何とも思わず、健脚に驚
きです。
「○○郡教育会東部会の第四回実地授業批評会」とあり「第四回」けっこう
な回数だなあと思いました。
「始業の鐘がかすれたような音を立てて一しきり騒がしく鳴り響いた。多く
は裸足のままで校庭に遊び戯れていた百近い生徒は、その足を拭きも洗いも
せず、吸い込まれるように暗い屋根の下へ入って行った」これ驚きです。
「五十分の授業」現在は通常45分授業ですね。
 「授業の済んだ後、栗が出た、酒が出た、粟飯が出た。そして批評が始ま
った。」「そうしている所へ村の村長が来た。盃が俄かに動いて、話は全く
世間話に移っていった。」昔の田舎の学校では、こうした酒盛りで交流を深
める楽しみが多かったのではないでしょうか。わたしの小学校の頃も運動会
が終わると、卒業式が終わると、始業式が終わると、大きな行事が終わると、
村の父母たちが学校で酒盛りをして交流を深めていたものでした。

 実地授業批評会で教師たちのどんな合評があったか、話し合いがあったか
については一行も書いていません。授業の教え方などは啄木にとって全く興
味のないことだったようです。
 啄木が代用教員をしていた当時は、日本の教育界にヘルバルトの五段階教
授法が大きな影響を与えていました。この五段階教授法は国語科と限らす修
身科でも、どの教科にも採用できる教授法として全国的に風靡していました。
 当時、この教授法が岩手県の田舎にどの程度まで浸透していたかは知る由
もありません。しかし、啄木にとって指導法とかはあまり興味がなかったよ
うに思われます。このことは、上記した渋民尋常小学校時代の「渋民日記」
には「10月5日 日戸小学校に授業批評会があって出席した。この会は遺
憾なく、今の教育の欠点を予に語った。」と書いてあることからも分かりま
す。啄木にとって授業の教え方がどうこうは重要でなかったようです。これ
は啄木の授業観、教師観からきていると思われます。
 啄木の小説『足跡』の地の文の中に次のような文章があります。これは啄
木が語っている主張と言ってもよいと荒木は読み取っています。
 
教育者には教育の精神を以って教える人と、教育の形式で教える人と、二
種類ある。後者には何人でも成れぬことはないが、前者は百人に一人、千人
に一人しかないもので、学んで出来ることではない、いわば生来の教育者で
ある。

 啄木が渋民小学校を退職し、函館の弥生尋常小学校が焼失により退職した
ばかりの明治40年12月6日、小樽日報に寄稿した文章の中の一部にこう書い
ています。
 学科の教授法(おしえかた)の巧拙(よしあし)よりも子供に人格(ひ
と)としての大きい深い感化を与えて貰いたいという事、教育学とか教授法
(おしえかた)の難しい議論ばかり研究したとて別段役に立ちません。
      『石川啄木全集 第八巻』(筑摩書房、1985)より引用

 啄木の代用教員時代は明治39〜40年ですが、その当時にはかなりの回数の
授業批評会がごくふつうのこととして実施されていたように思われます。
 保科孝一(東京高師教授)が書いている文章によると、こうした教師達に
よる授業参観と授業批評会の研究熱が最も高まったのは、大正のはじめから
同十二年ごろまでだと書いています。けっこう明治・大正の時代にも授業批
評会が盛んだったようです。講師は、文部省の役人や高等師範学校の教授、
付属小の先生達が全国各県の指導法講習会・授業批評会に招かれるのが多か
ったようです。保科孝一は次のように書いています。
 大正十年代は国語研究熱がもっとも高まったときで、各府県の教育会が主
催して講習会・講演会または研究会が開かれ、国語四分科(荒木注、話し
方・読み方・つづり方・書き方)について啓蒙運動を起こし、各小中学でも、
研究教授を行い、付近の小中学校の国語教員が参加し、その授業が終わって
から一同一室に集まって、自由に批評したり討議したりする。かようにして、
読み方なりつづり方について、ふかく研究して独特の教法を案出し、その成
果の認められるに従って、その名声がおおいに挙がるという場合もあって、
ますます研究熱が高まった。東京高師の訓導中すこし名の知れた人は、暑中
休暇や冬季休暇の際はもちろんのこと、毎週土曜、日曜にも、講習会講師と
して諸方から招かれ、ほとんと寧日なしの有様であった。したがって収入も
俸給に幾倍するという豪華的な景気であったところから、高師のある訓導が
職を辞して講習専門にやるほうが、収入が増大するから有利であろうと考え、
辞職して講習専門にのり出したところが、バッタリ申込が途絶えてしまい、
ついには生活にも困って自殺したという悲劇さえうんだこともあった。これ
までは高師の訓導なるがゆえに、全国各地方から講師として招かれたので、
肩書なしのただの人間では、見向きもされないのは当然である。
国語教育講座・第五巻『国語教育問題史』(刀江書院、昭和25)より引用


    
啄木の修学旅行は石巻、松島、仙台であった


 本HPの「明治期の小学校の風景」で、菊池寛(作家)の修学旅行のこと
を書いています。菊池寛は家が貧しく、父親に「修学旅行に行かせて」と懇
願したが、行かせてもらえなかった、ということを書いています。それは明
治32年のことでした。このことは明治期の末期には修学旅行が学校行事と
して実施されていたということになります。
 石川啄木は明治35年5月に修学旅行へ行っています。啄木の家も貧しか
ったが、啄木は盛岡中学校五年級の時に修学旅行に行っています。啄木の
「修学旅行日記」にその行程や様子が克明に記述されています。この日記の
冒頭に次のように書いています。
 五月末のおちつかない空合を見計らって、一行十八名の同窓の友、田嶋小
林両師引率の下に、南を指して修学旅行の途に上った。時は恰も紅白の牡丹
が杜陵船満城の空をかおらせて咲き競い、城山の緑漸く濃からんとする頃で
ある。
 つづいて三日間の旅行を詳しく行程にそって記述しています。二人の引率
教師と18名の生徒一行による修学旅行だったようです。本稿では修学旅行
の日程と行程だけを簡単に抜き出して紹介し、尋常中学5年時の修学旅行の
アウトラインをかいつまんで書きだすことにします。
 明治35年5月28日(晴)
 深夜といってよい午前1時13分に盛岡駅で汽車に乗る。平泉を通過して、
一の関で下車する。そこから小蒸気北上丸に乗船し、薄衣で下船し水別神社
を見学する。また乗船して石巻港で下船する。石巻近郊の名跡(葛西三郎清
重の城址、鹿島神社、後醍醐天皇の古碑、護良親王の御陵地)を見学する。
石巻に一泊する。
 明治35年5月29日(細雨)
 第一北上丸に乗船し、島々の間を縫うて、船は松島に着く。瑞巌寺、岩窟、
寺に入って宝物、左甚五郎の浮彫、心月庵の跡などを見学する。観爛亭に上
って松島湾内の島々を眺望する。午後になって自由行動となる。名物を買う
者、五大堂の詣でる者、船を借りて湾内を漕ぐ者などさまさまである。松島
に一泊する。
明治35年5月30日(雨)
 松島から二艘の船に乗り、塩釜で下船する。塩釜神社を参拝する。これは
東北一の大社である。巨殿、多羅葉双樹、林子平の日時計、神釜、神馬など
を見学する。塩釜から徒歩で仙台へ・汽車で仙台へと二隊に分かれ、午後一
時に仙台停車場前の旅館で合流する。夜は岩手会自炊部に招かれ歓迎を受け
る。
明治35年5月31日(雨)
 第二高等学校の柔道部の柔術を見学する。仙台の岩手県出身者の園遊会に
招かれ、在仙諸氏は自炊部の歌をうたい、我は箱根の山の歌をうたった。有
益な演説や講話も聞く。夜8時50分に仙台を汽車で出発し、盛岡に到着し
たのは翌日午前二時であった。出迎えの諸氏とともに校門をくぐり朝三時か
らの歓迎会に臨み、白みゆく暁の光に誘われ限りない喜悦に笑い興じる。
 以上が大体の行程である。明治後期の中学校の修学旅行のおおまかなとこ
ろが把握できます。「修学旅行日記」を読むと、啄木はけっこう楽しんだ修
学旅行だったと思われます。

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